第七十話 葬儀の後、時計は止まらない
ヴィルヘルムの葬儀は、小さく静かなものだった。
鍛冶組合の古い集会所の一室を借りて行われた式に、集まった参列者は三十人ほど。
商業都市と鉱山街から、それぞれ独立していた二人の息子が駆けつけていたが、彼らが顔を合わせるのは数年ぶりのことだったらしく、二人とも父親の棺の前に立って戸惑ったような顔をしていた。
何十年も離れて暮らしていた偏屈な職人の父親に対し、今さらどんな表情をして、どんな涙を流せばいいのか分からない——そういう顔だ。
新聞記者であるトビアスが、「同僚の昇進を見て、取り残された気がした」と語ったあの時の感覚に、どこか似ているのかもしれない。
人間の時間はあまりにも早く過ぎ去り、家族でさえも関係性を固定する前に次へと押し流されてしまう。
僕は薄暗い集会所のずっと後ろ、末席の壁際にひっそりと立っていた。
かつてヴァルシュタイン大公家でフィレーネを見送った時、僕は数百人の参列者の最後尾に立っていた。
あの時の僕には大公家の筆頭執事という、明確で揺るぎない立場があった。周囲も僕をそういう存在として認識し、敬意を払っていた。
でも今は、何もない。
ただの紅茶を淹れていた子供だ。
だけど——それで十分だった。
僕と彼を繋いでいたのは血縁でも義理でもなく、一杯の温かい紅茶と、不揃いな時計の音が鳴る小さな茶店での時間だけなのだ。
弔辞は、白髭を蓄えた鍛冶組合の長が読み上げた。
「卓越した技術を持つ時計師であり、我がリンデンブルクの誇りであった」
型通りの、どこかで何度も聞いたような定型文。
だが、羊皮紙を読み上げる組合長のしゃがれた声が途中で僅かに詰まり、彼が唇を噛み締めたその一瞬の沈黙だけは本物だった。
彼もまた、ヴィルヘルムが若き日に手掛けたあの時計塔を見上げて育ち、共にこの職人の街で老いていった世代なのだろう。
式が終わった後、参列者が三々五々散っていく中で、息子の一人が僕に声をかけてきた。
長男らしい。
ヴィルヘルムと同じ立派な鷲鼻を持っていたが、肩幅はふくよかで広く、手は精密な歯車を掴む職人のそれではなく、分厚い書類と硬貨を扱う商人の手だった。
「君がリアンくん?」
「はい」
「父から手紙で聞いていました。晩年、ひどく世話になったそうで」
「世話というほどのことは何も。僕はただ、お茶をお出ししていただけです」
「それが、父にとってはとても大きかったようです」
長男は少しだけ目を伏せて、胸のポケットから折り畳まれた古い手紙の束を取り出すような仕草をした。
「最後に来た手紙に、『この街に残って本当に良かった』と書いてありました。紅茶が不味い店が美味くなったから、老い先短い日々も退屈しない、と」
僕は心の中で小さく苦笑した。
「……とても、いいお店ですから」
「ええ。父の最期の時間に寄り添ってくれて、本当にありがとうございました」
長男は深く頭を下げて、弟と共に去っていった。
明日にはもう南の街へ帰るらしい。彼らにとって、このリンデンブルクに留まる理由はもうない。
ヴィルヘルムの遺した工房や家の処分は、すべて組合に一任すると言っていた。
人間の繋がりは、時に驚くほどあっさりと解けて、消えていく。
♢ ♢ ♢
葬儀の帰り道、僕はコンラートと並んで歩いた。
雪は止んでいたが、リンデンブルクの空は重く冷たい灰色で、凍りつきそうなほど冷え込んだ石畳が黒く鈍く光っていた。
コンラートの歩調は、いつもよりずっと遅かった。
長年の立ち仕事で痛めた腰が辛いのか、それとも足そのものが重いのか。
たぶん、両方だろう。
「四十年だ」
コンラートが、前を向いたまま、誰に言うでもなく呟いた。
「四十年の付き合いだった。あいつが、頻繁にうちの店に来るようになったのは、妻に先立たれた年からだ。それまでは、週に一回ほどしか来なかった」
「十年前、ですね」
「ああ」
コンラートの口から、吐く息が真っ白な煙となって空に溶けていく。
「あいつの妻は、良い女だった。笑うと目が糸みたいに細くなってな。あいつの複雑な時計の仕組みの話を、何時間でも飽きずにニコニコと聞いていた。中身なんぞ、これっぽっちも分かっちゃいないのにな」
コンラートは短く鼻を鳴らした。いつもの、彼特有の照れ隠しの癖だ。
だが、その鼻を鳴らす音が今日は少しだけ湿っていた。
「妻が死んでから、あいつは毎日来るようになった。わしの淹れる紅茶が美味いからじゃないことくらい、最初から分かっていた」
「コンラートさん」
「分かっていたから、わしは黙って出したんだ。四十年分の紅茶を、あいつの前に出し続けた。何も言わずに、ただ黙ってな」
それ以上、コンラートは何も言わなかった。
僕も何も返さなかった。
冷たい冬の空気の中、二人分の足音と、遠くの工房で打ち鳴らされる金槌の音だけが、灰色の空の下にぽつりぽつりと響いていた。
♢ ♢ ♢
歯車猫亭に着いて、コンラートが重い真鍮の鍵を開けた。
寂しげなベルの音が鳴る。店内は暗く、底冷えがするほど寒かった。まだ午後の開店前だ。
コンラートは上着を脱ぐと、いつもと同じように無言で火を起こし、湯を沸かし、ポットを完璧に温めた。
棚から茶葉の缶を下ろし、カウンターにカップを並べる。
そして窓際の、ヴィルヘルムの定位置。
以前にコンラート自身の手で一杯の紅茶を置いたあの席に、今日もカップを置くかどうか迷って、彼の手が僅かに宙で止まり……やがて、ゆっくりと下ろされた。
やめたのだ。
空の席は、空のままにしておくべきだ。
あそこにカップを置いて湯気を立たせれば、「いつか座る人を待っている」ように見えてしまう。
でも、彼はもう来ない。
どんなに待っても、扉が開いて彼が入ってくることは二度とない。絶対的な現実を、生かされた僕たちは誤魔化してはいけないのだ。
午後、店を開けた。
最初にやってきたのはヒルダだった。
彼女はいつものようにただのお湯を頼んだ。
分厚いマグカップを受け取ると、窓際の空席をちらりと一瞥し、それからすぐに壁の時計たちへと視線を戻した。
「いい顔で寝てたね、あの爺さん。やり切った職人の顔だった」
「そうですね」
「あたしも、いつかお迎えが来る時は、ああいう顔で死にたいもんだ」
ヒルダはフーフーと息を吹きかけながら、熱いお湯をゆっくりとすすった。
それ以上、彼女はヴィルヘルムの思い出話をすることはなかった。
百七十八年を生きてきた彼女は、喪失との向き合い方を誰よりも知っている。多くを語らないことが、彼女なりの最大限の弔いなのだ。
ミーシャが来たのは、夕方のことだった。
焼き栗の屋台を早々に畳んできたのか、エプロンにはまだ香ばしい匂いが染み付いていた。
彼女はいつもなら絶対にテラス席に向かうのに、今日は店内のカウンターの僕の目の前の席にちょこんと座った。
外が寒いからではない。窓際の空席の近くに座るのを、無意識に避けたのだとすぐに分かった。
「リアンくん。ヴィルヘルムさんが好きだった紅茶……あたしにも飲ませて」
「アッサムのストレートだけど、いいの? ミーシャはいつも、たっぷり甘くしたミルクティー派でしょう」
「うん。今日はアッサムがいい。ストレートで」
僕は黙って頷き、ポットを用意した。
ヴィルヘルムに出していたのと全く同じ、蒸らし時間も彼が好んだ少し短めの設定。
取っ手を右手で取りやすいように手前に向けて、彼女の前に置いた。
ミーシャは両手でカップを包み込み、目を閉じた。
そして、覚悟を決めたように一口飲んだ。
「……」
大きな灰色の尻尾は、ちっとも膨らまなかった。
代わりに、ぽたりと一滴。彼女の目からこぼれ落ちた雫が、木製のカウンターに丸い染みを作った。
「……にがい」
「アッサムのストレートですから。渋みも強い」
「ちがう。にがいのは、そういう意味じゃなくて……っ」
分かっている。
知っているよ。
ミーシャは袖で乱暴に目を拭って、鼻をすすった。
そして、二口目を飲んだ。
三口目。四口目。
半分ほど飲んだところで、彼女の垂れ下がっていた尻尾が、微かに、本当に微かにだけれど……小さく揺れた。
「ヴィルヘルムさん……これ、毎日飲んでたんだよね」
「うん、毎日ですね」
「こんなに、にがいのに」
「二杯目は、味わうためだって言ってたよ。一杯目のこの苦さがあるからこそ、二杯目がとびきり美味くなるんだって」
ミーシャは顔を上げた。
涙の跡がくっきりと残っていたけれど、彼女の口元には屈託のない笑みが少しだけ戻っていた。
「あたしも、二杯目飲んでいい?」
「もちろん」
二杯目を淹れた。今度は少しだけ温度を下げて、丸みを帯びた甘みが出るように調整して。
ミーシャは今度は目を開けたまま、しっかりとそれを飲んだ。
「あ、ほんとだ。二杯目のが、ずっとおいしい」
♢ ♢ ♢
トビアスが来たのは、すっかり日が落ちた閉店間際だった。
仕立てのいい外套の肩には、白い雪がうっすらと積もっている。新聞社から急いで直接やってきたのだろう、彼からはいつも以上に強いインクの匂いと、冷たい冬の匂いがした。
カウンターに座ると、彼はメモ帳を出すこともなく、何も注文せずにしばらくの間、黙って両手を組み合わせていた。
「何にしますか」
「すまない。分からないんだ……。おすすめをお願い出来るかい」
珍しい注文だった。
僕は少し考えた。
ダージリンはいつものトビアスのための紅茶だ。でも、今日の彼はいつもの状態ではない。
かといって、ミーシャに出したような苦いアッサムは今の彼には合わない。
この記者は、哀しみを外に吐き出さず、すべてを内側に溜め込んでしまうタイプだ。
だから苦さよりも、心を解きほぐすような圧倒的な柔らかさが要る。
僕は棚の奥から、例の丘陵産の無名の茶葉を選んだ。
湯温は八十五度。茶葉を驚かせないよう、極めてゆっくりと湯を注ぐ。蒸らし時間は二分半。
カップに注がれたのは、夜の闇の中でも微かに発光しているように見える、金緑色の透明な一杯だった。
トビアスはそれを両手で持ち上げ、一口飲んで……ふうっ、と、体の底から絞り出すように長く息を吐いた。
強張っていた彼の肩の力が、目に見えて抜けていくのがわかった。
「彼の話を、もっと聞きたかったな。まだ、全然足りなかった。全然……」
人間の命は短すぎる。
トビアスのようなハーフエルフからすれば、彼らが持ち合わせている時間は本当に一瞬の輝きに過ぎない。
「全部聞けることなんて、絶対にないですよ。どれだけ長い年月を一緒にいたとしても」
半世紀以上を一緒に過ごしたフィレーネのことだって、僕はすべてを知っているわけじゃない。
僕が出会う前の、彼女が十二歳だった頃より前の日々を僕は知らない。僕が来る前の彼女の記憶は、僕にとっては永遠に空白のままだ。
「それでも。聞けた分の物語は、貴方にとって確かな宝物になったんでしょう?」
トビアスはゆっくりと頷いた。
カップの中の、美しい金緑色の液体をじっと見つめている。
「記事にはしないよ」
「知ってます」
「でも、僕の中には確実に残る。これから二百年でも、三百年でも。僕が生きている限り、あの人の記憶は消えない」
深夜。
客が全員帰り、コンラートが奥の部屋に引っ込んだ後。
僕は一人で、暗い店内の壁に掛けられた時計たちを眺めていた。
七つの時計。
昨日は、七つの不揃いなリズムだった。今日も、変わらず七つだ。
一つも止まっていない。
ヴィルヘルムは天才的な時計師だったけれど、自分の作った時計をこの店には一つも残さなかった。
この七つの時計は、コンラートが長年、自分の趣味で集めたものだ。
でも、と思う。
ヴィルヘルムが残したものは、この小さな店の外に確かな形として存在している。
広場の鍛冶組合の時計塔。巨大な文字盤と、狂いを知らない傑作の振り子。
雪が降る夜の中でも、人々が寝静まった闇の中でも、彼が残したものは確実にリンデンブルクの街に時を刻み続けている。
『あと五十年は絶対に狂わんぞ』
必ず見届ける。僕のこの目で。
店を出て、菩提樹亭への帰り道。
僕は時計塔の前で足を止めた。
冷たい雪が頬に触れるのも構わず、高くそびえる文字盤を見上げた。
巨大な秒針が、休むことなく動いている。
カチ、コチ。
カチ、コチ。
止まらない。
人間が死んでも、誰かが涙を流しても、時計の針は決して止まらない。
だから。
僕も止まらない。
胸の奥で燻る冷たい喪失感を抱えたまま、僕は再び雪の降り積もる石畳を歩き出した。




