第六十九話 二杯目を頼まなかった日
ヴィルヘルムが一週間の静養を終えて歯車猫亭に戻ってきたのは、木枯らしが窓を鋭く叩くような冷たい午後のことだった。
重い木製の扉が開き、くぐもったベルの音が鳴る。
いつもの時間に、いつもの席へ向かい、いつもの仕立ての良い外套を羽織って。
ただ、ほんの少しだけ違っていた。
彼の足取りは以前よりもずっと慎重で、石畳の通りを歩いてきたにしては歩幅が小さかった。
カウンターのスツールに腰を下ろす時も、一度カウンターの縁に手をつき、小さく息を吐いてから体重を預けた。
「アッサム」
「はい」
僕は何も気づいていないふりをして、いつも通りに取っ手を手前に向けてカップを出した。
ヴィルヘルムは震える手でそれを受け取り、ゆっくりと一口飲んで、小さく息をついた。
そして、いつもと同じように窓の外の菩提樹の枯れ枝を眺め始めた。
何も変わらない午後だ。
ただ一つだけ、決定的に違うことがあった。
ヴィルヘルムは二杯目を頼まなかった。
この老人は必ず二杯飲む。
「一杯目は渇いた喉を潤すため、二杯目は舌で味わうためだ」と本人が偉そうに語り、コンラートが「贅沢な腹立たしい飲み方だ」と呆れる定番のやり取りまでが、この店の午後の一つのセットだった。
今日、一杯目のカップが空になった後、ヴィルヘルムは静かにソーサーにそれを戻しゆっくりと立ち上がった。
「ごちそうさま」
僕は布巾でカウンターを拭きながら、手を止めた。
「もう一杯、どうですか。新しい茶葉が入っていますよ」
「いや。今日は一杯でいい」
僕は追わなかった。追えなかった。
一杯で満足する理由を、彼に聞いていい距離に僕たちはいない。
いや、毎日顔を合わせているのだから、聞いてもいい関係にはなっているのかもしれない。
でも、聞けなかった。
聞けば、聞いた瞬間に……現実になってしまう気がして。
「……」
コンラートは洗い場の奥から一部始終を見ていた。
僕と一瞬だけ目が合ったが、彼は何も言わずにグラスを磨き続けていた。
次の日も、ヴィルヘルムは一杯で帰った。
その次の日も。
また、その次の日も。
一週間が過ぎた頃。
いつもの定位置で白湯をすすっていたヒルダが、僕にだけ聞こえるような低い声で言った。
「あの爺さん、食が細くなってるよ」
「……知ってます」
「パン屋のおかみさんが言ってたんだ……。毎朝焼きたての黒パンを買いに来てたのが、二日に一回になったって」
食事の量が減る。
活動の量が減る。
外出する時間が短くなる。
人間の終わりは、いつもこうやって忍び足でやってくるのだ。
ある日突然劇的な変化が起きるのではなく、昨日まで当たり前にあった日常の中から、少しずつ何かが引き算されていく。
紅茶の二杯目。
朝の焼きたてのパン。
散歩の距離。
一つずつ、静かに、本人の手のひらからこぼれ落ちていく……。
「ヒルダさんは……こういう時、どうしてましたか」
僕は顔を上げずに尋ねた。
「どうもしなかったよ」
ヒルダはマグカップを両手で包み込んだまま、遠くを見るような目をした。
「旦那の時もただそばにいて、いつも通りにしてた。それしかできないからね。変に気を遣ったり、泣き顔を見せたりするのは邪魔になるだけさ」
♢ ♢ ♢
季節が進んだ。
灰色の厚い雲から雪が落ち、リンデンブルクの石畳の通りは真っ白に覆われた。
ヴィルヘルムは歯車猫亭に通い続けた。
毎日ではなくなったが、来る日は必ずアッサムを一杯だけ飲んで、窓の外の時計塔を眺めて帰る。
コンラートとの憎まれ口の応酬もめっきり減った。だが、窓際に座る彼の横顔はとても穏やかで、痛みに苦しんでいるような様子はなかった。
ある日、トビアスと同じ時間に居合わせた。
トビアスはヴィルヘルムの向かいの席に座り、取材ではなく一人の青年として個人的な話を聞いていた。
時計の歴史、ヴィルヘルムの師匠の教え、連邦国を旅した時の思い出。
トビアスは珍しく、メモ帳とペンを持っていなかった。
代わりに両手をテーブルの上にきちんと置いて、老人の紡ぐ言葉を一言も聞き漏らすまいというような真剣な顔で深く頷いていた。
「記事にしないのか」
ヴィルヘルムが少し不思議そうに訊いた。
「しません。これは、僕の宝物にしようと思います」
「大袈裟だな」
「大袈裟じゃないですよ。師匠の師匠の話を直接聞ける機会なんて、きっともう二度とないかもしれない」
トビアスの声が最後の部分だけ少し震えた。
彼は彼なりに、僕に言われた定点観測を続けているのだ。通り過ぎていく人間の生き様を、記事という形だけでなく、自分の長い人生の記憶の中にしっかりと刻み込もうとしている。
ヴィルヘルムは笑って、トビアスの肩を叩いた。
痩せて、骨と皮だけになった手だった。
かつて顕微鏡サイズの精密な歯車を組み上げていた指は、今では他人の肩を軽く叩くのにも力を振り絞らなければならない。
「トビアス。お前さん、手先が不器用で時計師にはなれなかったが……人の話をじっくり聞く才能がある。それは、狂わない時計を作るよりずっと難しい技術だぞ」
「……ありがとうございます」
「礼を言うのはわしだよ」
ヴィルヘルムは、目を細めて笑った。
「この爺の長い昔話を……最後まで聞いてくれる若者がいることが、何よりありがたい」
最後まで。
その決定的な言葉を、トビアスも僕も聞き逃さなかった。
僕とトビアスは一瞬だけ目を合わせた。それから二人とも、何事もなかったかのようにすぐに視線を戻した。
それがヴィルヘルムの声を聞いた最後の日になった。
♢ ♢ ♢
年が明けた。
リンデンブルクが一年で一番厳しい寒さに包まれる頃。
ヴィルヘルムは五日間店に来なかった。
六日目の朝。
僕は厨房でいつものようにコンラートの仕込みを手伝いながら、小さな保温瓶に熱い紅茶を詰めた。
「行ってきます」
コンラートは何も言わず、ただ短く顎を引いた。
雪を踏む僕の足音が、静かな朝の通りにサク、サクと響く。
鍛冶組合の時計塔が、灰色の空の下で正確に針を進めていた。
ヴィルヘルムの家は、広場から少し離れた職人街の裏手にあった。
古い木造の扉の前に立ち、小さくノックをする。
返事はなかった。
もう一度、少し強めに叩いた。
家の中から足音は聞こえない。
扉の取っ手に手をかけると鍵は開いていた。
ヴィルヘルムは元時計師らしく几帳面な人だ。家の鍵をかけ忘れるような老いぼれ方など絶対にしない。
かけなかったのだ。
誰かが自分を訪ねてきた時に、自分で開けに行けなくてもいいように。
「……」
胸の奥が冷たく重くなるのを感じながら、僕は軋む階段を上がって二階へと進んだ。
寝室の扉が薄く開いていた。
「ヴィルヘルムさん。リアンです」
声をかけたが、静寂だけが返ってきた。
部屋の中に入ると、ヴィルヘルムはベッドの上にいた。
厚い毛布を胸まで引き上げて、窓の方を向いて横たわっている。窓からは彼が若い頃に設計したという鍛冶組合の時計塔が見えた。
彼は目を閉じていた。
呼吸は、なかった。
顔は驚くほど穏やかだった。
苦しんでもがいた形跡はどこにもない。
『眠るように』というありふれた表現があるけれど、本当にそうだった。
少し長い午後の居眠りの続きを見ているみたいに、ただ静かに時間が止まっていた。
「……」
僕はベッドの横に立った。
手に持っていた保温瓶をサイドテーブルの上にそっと置いた。
中身はアッサムのストレート。一杯分。
いつもの温度、いつもの蒸らし時間。取っ手を彼が右手で取りやすいように手前に向けて。
「いつもの、持ってきましたよ」
返事はない。
遠くで時計塔の鐘が鳴った。八時。
正確だった。
ヴィルヘルムが計算し尽くした振り子は、今日も狂いなく街に時を知らせている。
『あと五十年は絶対に狂わんぞ』
彼が笑って言った言葉が蘇る。
見届ける。約束した。僕はあの時計を見上げるたびに、貴方のことを思い出す……。
「行こう……」
遺体の発見を街の警備隊に知らせる。鍛冶組合の博物館に彼の残した図面を寄贈するよう手配する。コンラートに家の鍵を渡す。
ヴィルヘルムから雑談の中で聞いていた彼の身辺整理の希望は、全部僕の頭の中に記録されている。
だから、すぐに動かなければならない。
なのに。
——手が動かなかった。
やるべきことは分かっている。手順も段取りも完璧にシミュレーションできる。
でも今、手が動かない。
指先が三度分だけ狂っている感覚。
体温のコントロールがうまくいかず、膨大なマナが身体の奥で迷子になっている。
また来た。
また、この感覚だ。
大切な人間が僕を置いて永遠に立ち止まってしまう瞬間に、僕の時間を狂わせるこの重たい引力。
窓の外の時計塔を見た。
秒針が動いている。
カチ、コチ。カチ、コチ。
止まらない。止まれない。時計は絶対に止まらない。
彼が残した時計が止まらないのなら。
——僕も、ここで止まるわけにはいかない。
深く、深く息を吸った。
冷たい冬の空気が肺を満たし、頭を冷やしていく。
ゆっくりと息を吐いた。もう一度。
ようやく手が動いた。
僕は保温瓶を回収し、部屋を出た。
階段を降りて、一階の工房の棚から使い込まれた革のケースを取り出した。中身を確認する。
ピンセット、極小のドライバー、ルーペ。精密な工具がずらりと並んでいる。
何十年も使い込まれたその道具たちは、主人の手の形に合わせて柄の木がすり減り、美しく馴染んでいた。
家の外に出て、扉を閉め、鍵をかけた。
鍵を革のケースと一緒にしっかりと抱えて、僕は雪の降る通りを歯車猫亭に向かって歩き出した。
♢ ♢ ♢
重い扉を開けると、真鍮のベルが低く鳴った。
コンラートがカウンターの中にいた。
湯を沸かしているところだった。
「どうだった……」
ベルの音で振り返ったコンラートは、雪に濡れた僕の顔と、腕に抱えられた革のケースを見て——手を止めた。
何も言わなくても、すべてが伝わった。
「…うか」
コンラートは、それだけ言った。
声は少しだけ低く、かすれていた。彼は持っていたポットを静かにカウンターに置いた。
僕は革のケースをカウンターの上に置き、家の鍵をその隣に並べた。
「預かり物です」
「ああ」
重い沈黙が落ちた。
壁の無数の時計たちが、カチコチと不揃いな音を鳴らしている。
七つの時計が、七つのリズムで。どれも止まっていない。彼らが生きている限り、時は進み続ける。
コンラートが再び棚に手を伸ばした。
曲がった腰をかばいながら、それでも長年染みついたいつもの正確な動作で黒い缶から茶葉を量り、湯を沸かし、ポットを温めた。
用意されたカップは、二つ。
コンラートはポットから琥珀色の液体を注いだ。
一杯を、カウンターに立つ僕の前に。
もう一杯は、誰も座っていない窓際の席に。
ヴィルヘルムが毎日座っていた、あの定位置の空席に。
「コンラートさん」
「黙って飲め」
コンラートは僕に背を向け、洗い場に向かってしまった。
僕はカウンターの前に立ったまま、出されたカップに口をつけた。
(……)
僕の舌が、自動的に味を解析する。
いつもの味。蒸らし時間が少し足りなくて、湯の温度が高すぎる。渋みが勝ってしまっている、コンラート特有の不器用な味。
全く変わらない味だった。
「美味しいです」
僕は誰にも聞こえない声で呟いて、少し渋いお湯をゆっくりと喉に流し込んだ。
嘘じゃない。
嘘じゃないんだ。
本当に、美味しいのだ。
完璧な温度じゃなくても。正確な蒸らし時間じゃなくても。
今、この世界で一番温かくて、一番優しい紅茶だった。
窓際の空席に置かれたカップからは、湯気だけが静かに静かに立ち上っていた。




