第六十八話 老人は、椅子を遺す
夏が来て、秋が過ぎ、リンデンブルクにまた冬が来た。
この街で迎える二度目の冬。
去年との明確な違いは、歯車猫亭の薄暗いカウンターの中に僕がいることが常連たちにとっても、僕自身にとっても、すっかり当たり前になっていたことだ。
新しい客がふらりと店に入ってきて僕の尖った耳に驚いても、古参の客が「ああ、あの紅茶の子供ね。腕は確かだから座りな」と面倒くさそうに説明してくれる。
職人の街は一年も同じ場所で黙々と確かな仕事を続けていれば、自然と風景に溶け込めるらしい。
だが、永遠に変わらない僕という存在とは対極に。
人間の織りなす風景は、少しずつ色を変えていた。
最初に変化に気づいたのは、老時計師ヴィルヘルムの手だった。
いつもの午後、彼のお気に入りをカウンター越しに出した時。カップを受け取ろうと伸びてきた手が、微かに揺れた。
揺れたというほど、大きな動きではない。
指先がほんの僅かに震えて、カップの細い取っ手を指に引っかけるのに一瞬だけ、もたついたのだ。
僕は何も言わなかった。
ヴィルヘルムも何事もなかったかのように紅茶をすすり、何も言わなかった。
ただ、翌日から僕は彼にカップを出す時、取っ手の角度を以前より彼の手前に向けて置くようにした。
指を伸ばして取っ手を掴むまでの軌道が数ミリでも短くなれば手首への負担が減り、震えは目立たなくなる。
ヴィルヘルムはその微細な変化に気づいたかもしれないし、気づかなかったかもしれない。どちらでもいい。
相手に気遣いだと気づかれないことこそが、最善の執事の仕事なのだから。
コンラートの変化は、もっと分かりやすかった。
腰だ。去年の一件以来、重い水瓶を運ぶのは完全に僕の仕事になっていたが、最近はそれだけでは足りなくなっていた。
棚の高い位置にある茶葉の缶に手を伸ばすたび、彼は無意識に眉間に皺を寄せ、かすかに顔をしかめる。
朝の仕込みで立ちっぱなしでいる時間が少しずつ短くなり、午後、客が途切れた時に椅子の奥で居眠りをする時間が長くなった。
「コンラートさん。背後の棚の配置を変えましょう」
「何をだ」
「よく使う茶葉の缶を下の段に。使用頻度の低いものを上に。今の配置では無駄な上下運動が多すぎます」
「馬鹿を言え。わしが長年守ってきた店のレイアウトに、小僧が勝手に口を出すな」
「レイアウトに口を出しているんじゃありません。貴方の悲鳴を上げている腰に口を出しているんです」
コンラートは不機嫌にそっぽを向き、それから三日間、僕の提案を完全に無視した。
だが四日目の朝、僕が店を開けに行くと棚の配置がすっかり変わっていた。
よく使う茶葉の缶が、すべて彼が手を伸ばしやすい腰の高さにずらりと並べ直されている。僕の提案通り、いや、それ以上に合理的な配置だ。
僕は何も言わなかった。コンラートも「おはよう」すら言わなかった。
無言で朝のポットを温めて、いつもの一日が始まる。不器用な職人同士の、言葉の要らない信頼の形だった。
♢ ♢ ♢
木枯らしが吹き始め、リンデンブルクの街が本格的な冬の寒さに包まれた頃。
ヴィルヘルムが、三日続けて店に来なかった。
初日は気にしなかった。七十代半ばの老人が底冷えする日に無理な外出を控えるのは当然の自衛だ。
二日目、少しだけ気になったが、そういうこともあるだろうと思った。
だが三日目の午後。カウンターでグラスを磨いていたコンラートが口を開いた。
「見てこい」
短い命令形だった。
主語も目的語もなかったが、それだけで十分だった。
「店は、大丈夫ですか」
「さっさと行け」
ヴィルヘルムの家は彼が若い頃に造ったという鍛冶組合の巨大な時計塔の足元にあった。
小さな二階建ての石造りの家で、一階がかつての時計工房、二階が住居になっているらしい。
工房の窓ガラスは曇っていて、中の様子は全く窺えなかった。
重い木製の扉を叩いた。
しばらくして、中から足音が聞こえた。
遅い。……遅い。
いつも店にやってくる時の、少し曲がった腰ながらも軽快だった散歩の足取りより、ずっと重く、引きずるような音だ。
扉が開いた。
現れたヴィルヘルムは、分厚い寝間着の上に毛布を羽織っただけの姿だった。
顔色が蝋のように悪い。頬がこけ、目の奥がくぼんでいる。
たった三日会わなかっただけで、人間はこんなにも変わってしまうものなのか。
いや違う。
——たぶん、もっと前から少しずつ変わっていたのだ。
僕が、取っ手の角度を変えただけの気休めで、根本的な衰えを見ないふりをしていただけだ。
人間の身体が、老いによって静かに機能を落としていく残酷な過程を、僕はフィレーネの最後の数年間で痛いほど知っているはずなのに。
「……おう、リアンか」
「三日もいらっしゃらないので、様子を見に」
「コンラートの差し金か。大袈裟なやつらだ。少し風邪を引いただけだ」
嘘だと分かった。
これは、ただの風邪の顔色ではない。
もっと深い場所で、命の根幹に関わる何かが静かに衰弱している。
「上がっても、よろしいですか」
「やめとけ。散らかっているぞ」
「構いません。片付けは本職ですので」
「相変わらずだな、お前さんは」
二階の居間は彼の言葉通り確かに散らかっていた。
だがそれは、怠惰による不潔さではなかった。
今まで完璧に生活をコントロールしていた人間が、急に体に手が回らなくなった結果生じる乱れ。
棚の上に積もった薄い埃、流しに溜まったままの二日分の食器、テーブルの上の食べかけのパン、畳まれていないベッドの毛布。
一人暮らしの老人が体調を崩すと、生活というものはこうも呆気なく、早く崩れ落ちる。
僕はコートを脱ぎ、何も言わずに腕まくりをして流しの食器を洗い始めた。
「おい、客に洗い物をさせる馬鹿がいるか」
「僕は客じゃなくて、居候です」
「ここはコンラートの店じゃないぞ」
「居候は場所を選びません。それに、お湯を沸かすためのポットくらいは綺麗にしておかないと」
ヴィルヘルムは呆れたように小さく笑って、暖炉の前の椅子に深く腰を下ろした。
僕が魔法でこっそり水と部屋を温めながら、素早く食器を洗い、部屋を簡単に片付け、持ってきた保温瓶から温かい紅茶をカップに注いで彼に差し出すまでの間。老人はただ黙って、窓の外をじっと見ていた。
窓からは灰色の空を背景に、鍛冶組合の大きな時計塔が見えた。
彼が誇らしげに「振り子のバランスは我ながら傑作だ」と自慢していた、あの時計だ。
「リアン」
「はい」
「……少し、わしの退屈な話を聞いてくれるか」
「もちろん。紅茶が冷めるまで、いくらでも」
ヴィルヘルムは温かい紅茶を一口飲んで、それから両手でカップを大切そうに包み込んだ。
指が、店で見た時よりもはっきりと震えている。
隠す気がないのか……それとも、もう隠せないのか。
「この家にはな、ずっと椅子が六つあったんだ」
「……六つ」
「ああ。わしと、妻と、息子が二人と、それぞれの嫁が二人分だ」
老人は部屋の隅に片付けられたままの、埃を被った木の椅子たちに視線をやった。
「妻は十年前に死んだ。息子たちは腕を上げて南と東の大きな街にそれぞれ移っていった。嫁たちも一緒だ。……今、この六つの椅子に座っているのは、わし一人だけだ」
あの夜のヒルダと同じだ、と思った。
ドワーフの老婆も、「家に帰っても誰もいないから歯車猫亭に行くんだ」と笑って言っていた。
椅子がある。思い出がある。
──でも、そこに座ってくれる人が、もう誰もいない。
「わしが歯車猫亭に毎日通い始めたのはな、美味い茶が飲みたかったからじゃない。ただ、誰かが座っている『椅子』の隣に、わしも座りたかったからだ。……コンラートの淹れる紅茶は、正直、大したことないしな」
「……本人に言ったら、明日から出禁になりますよ」
「わかっとるから、アイツには絶対に言わんよ。だが……お前が来てから、あの店の味は格段に良くなった。あの偏屈なコンラートが他人の淹れ方を素直に認めるなんぞ、奇跡みたいなもんだ」
ヴィルヘルムはカップをテーブルに置いた。
両手を膝の上にきちんと揃えて、真っ直ぐに僕の目を見た。
「リアン。お前に、頼みがある」
「何でしょう」
「わしが死んだら、この家の鍵をコンラートに渡してやってくれ。一階の工房に、古いが手入れの行き届いた工具がある。わしが師匠から受け継いだ、時計師の命の道具だ。売ればそこそこの金になるが、どうか売らないでくれ。コンラート経由で、鍛冶組合の博物館に寄贈してほしい」
「ヴィルヘルムさん……?」
「遺言じゃない。まだ死なんさ。だが、最近ひどく忘れっぽくなったからな。こうして頭がはっきりしている元気なうちに、確かな者に言っておくんだ」
老人の目が優しく笑っていた。
痩せて、顔色が悪くて、指が震えているのに。
瞳の奥だけは、すべての覚悟を終えたように穏やかで、澄み切っていた。
「それと、もう一つだ」
「……はい」
「あの時計。窓から見える、あの鍛冶組合の時計を……五十年後に見届けると、わしに約束しただろう」
覚えていたのか。
「しました」
「あれは、年寄りの軽い冗談じゃなかったぞ。本気だ。必ず、見届けてくれ。振り子がずれていたら直してくれとまでは言わん。ただ、見届けるだけでいい。わしが若い頃に魂を込めて作ったものが、この街でまだ正確に動いていることを……誰か一人が、知っていてくれれば。——それで、十分だ」
声が震えた。
ヴィルヘルムの声ではない。
「……約束、します」
僕の声だ。
不老不死の完璧なハイエルフの喉が無様に震えていた。
「よし」
ヴィルヘルムは心底満足そうに深く頷いて、残っていた紅茶をゆっくりと飲み干した。
「美味い。今日の紅茶は、九十点だな」
「点数をつけるのは、僕の悪い癖なんですが」
「お前の生意気な癖は伝染するんだ。コンラートにだけはうつすなよ、面倒なことになるからな」
笑った。二人で、小さな声で笑い合った。
帰り道。
僕は鍛冶組合の時計塔の前を通った。
大きな文字盤が、冷たい冬の灰色の空にぽっかりと浮かんでいる。長針と短針が、狂いなく正確に時を刻んでいる。
五十年後も、この時計は動いているだろうか。ヴィルヘルムの計算が正しければ、必ず動いているはずだ。
見届ける。僕だけが。
約束が、また一つ増えた。
フィレーネの残した、『幸せになりなさい』という最後の命令。
ヒルダの残した、『あたしが死んでもこの席を空けるな』という命令。
ミーシャの残した、『最後の栗を焼く日まで紅茶を飲む』という約束。
そして、ヴィルヘルムの『五十年後に見届けろ』という願い。
全部。
全部、永遠に残る側にだけ課される残酷な約束だ。
けれど——もしこの約束がなかったら、永遠という空っぽの時間の中で、僕はもっと重い虚無に押し潰されていただろう。
誰の記憶も持たず、誰の約束も背負わず、空っぽの手でただ立っている方が、ずっと辛くて苦しいことを僕はもう知っている。
歯車猫亭に戻ると、コンラートがカウンターの中でじっと腕を組んでいた。
居眠りではない。僕の帰りを、苛立ちながら待っていた顔だ。
「どうだった」
「ただの風邪だそうです」
「嘘をつくな」
「……しばらく、僕が毎日、朝の仕込みの前に様子を見に行きます」
コンラートは腕を組んだまま、僕の顔をじっと見て、何も答えなかった。
店内に並んだ掛け時計が、カチコチと不揃いな音を鳴らしている。違うリズム。違う速度の寿命。
やがて老人はゆっくりと背を向けて、奥のポットに手を伸ばした。
「今日の分は、お前のを取っておいてある」
カウンターの隅に見慣れないカップが一つ置いてあった。
冷めないようにと、上から不格好な木の小皿で蓋がしてある。
コンラートが、客でもない僕のためだけに紅茶を淹れて待っていたのは、初めてのことだった。
蓋を取り、中の液体を一口飲んだ。
蒸らし時間が明らかに足りていないし、注いだ時の湯の温度も少し高すぎる。渋みが勝ってしまっている。この老人の悪い癖が完全に出ている。
でも、今日はそれでよかった。
点数なんか、味の完璧さなんか、どうでもいい日がたまにはあるのだ。
冷え切った僕の胸の奥に、不完全で熱い七十点の紅茶は優しく染み渡っていった。




