第六十七話 春の匂いは、どこでも同じだった
風の温度がはっきりと変わった、ある朝。
僕は歯車猫亭の裏口で、朝の仕込み用の重い水瓶を運んでいる途中で、ふと足を止めた。
——匂いだ。
雪解けの湿った土の匂い。目を覚ました草の青い匂い。微かに混じる、甘い花の気配。
それらが全部混ざり合った、むせ返るような春の匂い。
あの日。フィレーネが人生の最後に庭で深く吸い込んだ春の匂いと全く同じだった。
場所が違う。街の景色が違う。隣にいる人が違う。
なのに春の匂いだけは残酷なほど同じで。それが妙に腹立たしくて、同時に安心した。
季節は誰の所有物でもなく、どこにいても平等に巡ってくるのだ。
永遠を生きるハイエルフにも、限りある命を燃やす人間にも、リス族にも、ドワーフにも……。
「おーい、リアンくーん!」
感傷に浸る間もなく、背後から聞き慣れた甲高い声が飛んできた。
振り返る暇すらなかった。背中に勢いよく何かがぶつかってきた。
ミーシャだ。
勢いよく抱きつかれて水瓶が大きく揺れたが、中身の水は一滴もこぼれなかった。
長年の執事経験で培われた、完璧に制御された体幹のおかげだ。こういう時だけ実時の経歴に感謝する。
「危ないですよ。水瓶を持っている人間に背後から飛びつかないでください」
「えへへ、ごめん! でも聞いて聞いて!」
ミーシャの大きな尻尾が、左右に忙しなく振れている。
これは「すごく嬉しいことがあった時」の彼女特有の動き方だ。
美味しい時はポンと膨らむ、嬉しい時は左右に振れる、不安な時は力なく垂れる。半年も一緒にいれば、嫌でも覚える。
「屋台、広げるの!」
「広げる?」
「うん、場所が増えたの! 広場のあの噴水の横、あそこに常設の出店権がもらえることになったんだよ! 今までは日替わりの許可証だったでしょ? あれが、毎日同じ場所になるの!」
出店権。
リンデンブルクは自由都市だから商業活動には市の許可が要る。日替わりの許可証は安いが不安定で、天候や行事の都合で場所を追われることもあったはずだ。
常設権は違う。毎日必ず、一番人通りの多い同じ場所で商売ができる、職人と商人にとっては憧れの権利だ。
「審査は、かなり厳しかったでしょう」
「うん、すっごく! でも通った! 商工組合の偉い人がね、『お前の焼く栗は、いつかリンデンブルクの名物になる』って言ってくれたの!」
ミーシャの目が太陽を反射したようにきらきらと輝いていた。
今の彼女は人間に換算すれば三十代前半くらいの感覚だろうか。職人として技術が確立し、仕事に一番脂が乗り始める黄金のような時期。
「おめでとうございます。努力の賜物ですね」
「ありがとう! でね、今日はそのお祝いに、夕飯おごるから! 今日はお店が終わったら、絶対に一緒に食べよ!」
「これから屋台を広げるための出費が増えるのに、いいんですか?」
「いいの! だって、この街で一番最初に美味しい紅茶飲ませてくれたのリアンくんだし、冬の辛い時も毎日来てくれたし。あたしの中では、リアンくんが一番の功労者なんだから!」
屈託のない笑顔でそう言われてしまえば、断る理由などどこにもなかった。
♢ ♢ ♢
午後。
歯車猫亭は、春の陽気に誘われた常連客たちで賑わっていた。
テラス席に老時計師のヴィルヘルムが座った。
春になって気候が良くなると、老人の散歩の距離は少し延びるらしい。今日は遠回りをして、鍛冶組合の時計を見てきたと言う。
自分が若い頃に設計した時計が、まだ正確に時を刻んでいることを彼は紅茶を飲みながら嬉しそうに語った。
「あの振り子のバランスは、我ながら傑作だ。わしが死んだ後も、あと五十年は絶対に狂わんぞ」
「五十年後ですか。では、僕が確認しに行きますよ」
他愛のない、軽い冗談のつもりで言った。
だが、ヴィルヘルムはその言葉を聞いて一瞬だけ深く目を細め——それから、すべてを悟ったような穏やかな顔で笑った。
「ああ。頼んだぞ、リアン」
ハッとした。
五十年後。ヴィルヘルムはもう、間違いなくこの世にいない。
コンラートもいない。ミーシャも、たぶんいない。ヒルダは微妙なところで、ハーフエルフのトビアスだけが残っている可能性がある。
そして僕は——確実に、変わらない姿のままここに立っている。
五十年後でも百年後でも、時計が正確に動いているかどうかを見届けることができる。
『僕だけが残る』という現実を前提にした、重い約束。
胸の奥が軋んだ。
重い。だけど彼が笑って差し出した言葉を、受け取らない理由もなかった。
「ええ。必ず確認します。約束です」
ヴィルヘルムは満足そうに深く頷いて、僕の淹れたアッサムをすすった。
夕方、店を閉めた後、僕はミーシャとの約束通り夕食に出かけた。
場所はミーシャが選んだ、南の通りにある獣人が経営する大衆食堂。木の看板には可愛らしい犬の足跡が彫ってあった。
中に入ると獣人の客が圧倒的に多かった。犬族、猫族、鳥族。
体格も耳の形も、尻尾の有無もバラバラだが全員が同じテーブルでジョッキを傾け、同じ鍋をつついている。
スパイスの効いた煮込み料理の匂いが充満していて、ヴァルシュタインの洗練された晩餐会とは対極の、雑多で騒がしくて温かい空間だった。
「ここの煮込み、最高なんだよ! マスターが犬族でね、鼻がすっごく利くから、味の調整が天才的なの!」
ミーシャは慣れた様子で奥のテーブルに座り、すぐに二人分の煮込みと黒パンを頼んだ。
出てきた料理は素朴だった。根菜と肉のごった煮に、刻んだハーブが散らしてあるだけ。
だが一口食べると、味が複雑で深いことに驚いた。
素材の一つ一つに火の通り方が違う。最も硬い根菜が最も柔らかく甘く煮え、最も柔らかい肉がしっかりとした歯応えを残している。別々に調理してから合わせるという、緻密に計算されたプロの仕事だ。
ミーシャは煮込みを美味しそうに頬張りながら、常設の出店権の話を嬉しそうに続けた。
──屋台の屋根を少し大きくしたい。
──看板を新調して綺麗に色を塗りたい。
──冬場は焼き栗だけでなく、甘い焼き芋も出したい。
彼女の短い時間の中に、未来の計画が次から次へと溢れてくる。
「あとね、秋になったら新しいメニューも考えるの。焼き栗のペーストを、こんがり焼いたパンにたっぷり塗ったやつとか!」
「マロンクリーム、みたいなものですか?」
「マロンクリーム? なにそれ」
「えーと、前世……じゃなくて、僕が前にいた場所で、たまに作っていた料理の名前です。茹でた栗を丁寧に裏ごしして、少しの砂糖とミルクで滑らかに混ぜたものを、パンに載せたり、お菓子にしたりするんです」
「それ! それ絶対やりたい! リアンくん、今度レシピ教えて!」
ギュンターの残したレシピ帳は、全て僕の頭の中にある。まぁ、発案は僕だけど。
料理長が作ったマロンクリームは本当に絶品だった。砂糖の量が常識の半分で、栗そのものの甘みだけで勝負する潔いレシピ。
フィレーネが「これは絶対に太るわね」とぼやきながら、結局三回もおかわりをした秋の午後を鮮明に覚えている。
「いいですよ。今度、美味しい作り方を教えます」
「やったー!」
ミーシャの尻尾が左右に忙しなく振れた。
食事を終えて、二人で夜の通りを歩いた。
春の夜は空気がぬるく、見上げれば高く澄んだ星が見える。リンデンブルクの街灯の温かい橙色の光が石畳に落ちている。
広場を通りかかった時、ミーシャが噴水の前でピタリと足を止めた。
「ここ。明日から、ここがあたしの場所。前にも何回かここに出したことはあるけど……これからはずっとあたしの場所なんだ」
常設の出店権が認められた場所だ。今はまだ何もない、ただの空間。
だが明日の朝には、ミーシャの屋台がそこに立ち、甘い栗の香りが広がるのだ。
「いい場所ですね。大通りからもすぐだ」
「でしょ? それにね、ここ、噴水の音がずっと聞こえるの。お客さんが水の音を聞きながら、温かい焼き栗を食べるのって……絶対いいと思うんだ」
ミーシャは目を閉じて、噴水の音を聞いていた。
水が落ちる音。規則的で、静かで、ずっと途切れることなく続く音。
「リアンくん。あのね、あたし、一つ決めたことがあるの」
「なんです?」
「あたしが、最後の栗を焼く日まで…毎朝、リアンくんの淹れた紅茶を飲む。絶対。約束」
最後の栗を焼く日。
それは比喩ではない。文字通りの意味だと、僕は痛いほど分かっていた。
リス族の寿命は五十年。彼女の命の砂時計は人間よりも早く落ちる。
ミーシャが焼き栗を焼けなくなる日は、そう遠くない未来に確実にやって来る。
彼女は自分の命の終わりを知りながら、僕に永遠を約束してくれているのだ。
「……えぇ。約束、しましょう」
それだけ答えた。
僕の声が少しだけ震えて小さくなったのは、春の夜風のせいだということにした。
ミーシャは笑って、ぱたぱたと走って帰っていった。
灰色の大きな尻尾が夜の闇の中で揺れて、やがて向こうの路地へと消えた。
「……」
一人残された広場で、僕はしばらく噴水の音を聞いていた。
水が落ちる。落ちて、水盤に溜まって、また上へ汲み上げられて、落ちる。終わらない循環。
僕の永遠の時間みたいだ。
ずっと同じところを、何も変わらずに回り続けている。
でも、違う。
流れる水を眺める人もいる。
明日の朝も、僕の淹れる紅茶を笑って飲みに来てくれる人がいる。
菩提樹亭に戻って部屋の窓を開けた。
春の夜風が入ってくる。土と、草と、微かな花の匂い。どこにいても同じ、懐かしい春の匂い。
茶器を出して、一杯だけ紅茶を淹れた。
誰にも出さない、自分だけのための一杯。丘陵産の無名の茶葉。
淡い金緑色の美しい液体を、一人で飲んだ。
美味しかった。完璧だった。
美味しかったけど——明日の朝、ミーシャに出す一杯の方が、きっと、もっと……ずっと美味しい。
飲むのは僕じゃなくて、彼女なのに。
変な話だ。
自分で飲むより、他人に飲んでもらう方が美味いだなんて。
紅茶の本質は、味じゃないのかもしれない。
完璧な温度でも、正確な蒸らし時間でも、最高級の茶葉の銘柄でもなく。
ただ、それを受け取ってくれる手があること。
美味しいと笑ってくれる声があること。
それだけが、ただのお湯を最高の一杯にするのだ。
フィレーネが、人生をもって僕に教えてくれたように。
窓の外で春風に吹かれた菩提樹の若葉が、さわさわと心地よく揺れていた。




