第六十六話 記者は嘘を見抜くのが仕事だ
長く騒がしかった冬が終わり、リンデンブルクにも春が来た。
石畳の隙間から顔を出す雑草は力強い緑色に変わり、菩提樹の並木は一斉に柔らかい若葉を広げている。
歯車猫亭の表のテラスにはテーブルと椅子が再び引っ張り出されていた。
「コンラートさん。冬が終わったら仕舞うと言っていたはずですが。春風が気持ちいい季節になりましたね」
「春の間に片付けるのを、たまたま忘れただけだ。黙って湯を沸かせ」
相変わらずの偏屈な強がりだ。
ポカポカと暖かいテラス席では冬季倦怠を無事に乗り越えたミーシャが、冷たい紅茶を飲みながらちぎれんばかりに尻尾を振っている。
コンラートはカウンターの中から、その様子をチラリと見て鼻を鳴らしただけだった。
そんな春のうららかな午後。
珍しく、どんよりとした雨雲のように重い空気を纏って一人の男が店に入ってきた。
「おや、いらっしゃいませ」
「リアンくん。こんにちは……」
ハーフエルフの新聞記者、トビアスだった。
いつも綺麗に刈り込まれている髪はボサボサに乱れ、シャツの襟元はヨレている。
何より、目の下のクマが濃くなっていた。インクの染みついた指先が小刻みに震えているようにも見える。
「ひどい顔だな、三流記者」
コンラートがグラスを磨きながら、容赦ない言葉を投げかけた。
「三流は余計ですよ、コンラートさん。……リアンくん、今日はいつものじゃなくていい。とにかく強いやつを。目をこじ開けて、頭をぶん殴ってくれるような、ガツンとくるやつを頼むよ」
トビアスはカウンターの端にどさりと突っ伏し、深いため息を吐いた。
過労だ。それも肉体的なものだけではない。精神的な疲労がマナの乱れとなって表れている。
僕は黙って頷き、厨房の棚からアッサムの缶を下ろした。
濃く抽出しただけの強い紅茶では荒れた胃を痛めつけるだけだ。ここは少し細工が必要だろう。
「コンラートさん。奥の棚のスパイス、少し借りますよ」
「好きにしろ」
アッサムの茶葉をやや多めに量り、小鍋に少量の湯を沸かす。そこへ、砕いたカルダモン、シナモンスティック、そしてピリッとした刺激のあるジンジャーを削って放り込んだ。
スパイスの香りが十分に立ったところで茶葉を加え、強火で一気に煮出す。最後にたっぷりの濃厚なミルクを加え、沸騰する直前で火から下ろして茶漉しを通した。
強烈なスパイスの香りと、アッサムの深いコクが混ざり合った、特製のマサラチャイだ。
「どうぞ」
カウンターに突っ伏したトビアスの鼻先に、マグカップを置いた。
香りに刺激されたのか、彼がのろのろと顔を上げ、両手でカップを包み込んで一口すする。
「……っ!」
トビアスの目が見開かれた。
「なんだこれ。スパイス……? 胃の奥がカッと熱くなって、でもミルクがすごく甘くて……頭の靄が、一気に晴れるみたいだ」
「強くて、目が覚めるものをご所望でしたから。ただ強いだけではなく、自律神経を整えるスパイスを配合しています。疲労回復に効くはずですよ」
「すごいな。リアンくんは本当に、魔法使いみたいだ」
トビアスはふうっと長く息を吐き、二口、三口と、熱いチャイを喉に流し込んだ。
少しだけ、顔に血の気が戻ってくるのがわかった。
「何かあったんですか」
僕が静かに尋ねると、トビアスはカップの縁を指でなぞりながら話し始めた。
「同期の人間がね。今日、編集長に昇進したんだ」
「それは、おめでたいことですね」
「うん。素晴らしいことだ。あいつは誰よりも足を使って記事を書いていたし、奥さんと三人の子供を養うために必死だった。昇進は当然の結果だよ。……でもね」
トビアスが自嘲気味に笑った。
「あいつが入社してきた時、僕は教育係だったんだ。あいつはまだ二十歳の若造で、僕は先輩だった。なのに、あっという間に追い抜かれた。あいつは結婚して父親になって、シワが増えて、偉くなって……。僕は、あの頃から何も変わっていない」
ハーフエルフ。
人間の血とエルフの血を半分ずつ引く彼らの寿命は、およそ五百年と言われている。
人間よりは遥かに長く、純血のエルフよりは短い。中途半端な存在。
「人間ってやつは、本当に早すぎるんだ」
トビアスが、少し尖った耳を力なく垂れ下げた。
「あっという間に大人になって、あっという間に老いて、そして死んでいく。短い時間の中で焦るように何者かになろうとする。僕は……そのスピードに、どうしてもついていけないんだよ」
彼が時計師を諦めた理由が、少しわかった気がした。
人間の職人のように、短い人生を燃やして狂気的に技術を習得するような焦りが持てない。
かといって、純血のエルフのように、数千年という悠久の時間をかけて完璧な技術を追求し続けるほどの永遠も持っていない。
どちらの世界にも属しきれない、中途半端な自分への絶望感。
「人間たちはどんどん走っていく。僕だけが一人で同じ場所に置き去りにされているような気分になる。リアンくんは、純血のエルフだろ。君には僕よりも長い寿命がある。人間の早すぎる時間の流れの中で、君はどうやって折り合いをつけているんだい?」
トビアスの目が、すがるように僕を見た。
どうやって折り合いをつけているか。
──そんなもの……僕にわかるはずがない。
大公邸での時間。フィレーネの白髪が増え、皺が刻まれ、やがて永遠の眠りにつくまで。
あっという間の残酷な時間の流れに僕自身、ただ翻弄され、ただ祈り……最後には抗いようのない喪失感に泣き崩れただけだ。
折り合いなど、ついていない。一生つくわけがない。
「折り合いなんて、ついていませんよ」
僕は布巾でカウンターを拭きながら平坦な声で答えた。
「僕は執事でしたから。彼らが急ぎ足で駆け抜けていく短い人生の傍らで、僕は僕の仕事をしただけです。完璧な温度で紅茶を淹れ、暖炉の火を絶やさず、彼らの人生の一瞬一瞬が、少しでも温かいものになるように……ただ、それだけを記録し続けるように生きてきたんです」
「記録……」
「トビアスさん。貴方は新聞記者でしょう」
僕がそう言うと、トビアスは顔を上げた。
「人間の時間が早すぎて、君が置き去りにされていると感じるなら。逆に立ち止まって、彼らの目まぐるしい変化を定点観測すればいいじゃないですか」
「定点、観測……」
「急いで駆け抜けていく人間たちは、自分たちの変化を冷静に書き留める時間すら持てない。それを記録できるのは彼らよりも長く、でも純潔のエルフ程は早く生きている……独自の時間軸を持っている貴方のような存在だけです。それはハーフエルフである貴方にしかできない立派な仕事だと思いますよ」
トビアスは目を見開いたまま、手元のマグカップの中の琥珀色の液体をじっと見つめていた。
スパイスの香りが彼の思考を少しずつ整理していくように、静かに立ち昇っている。
「そうか」
やがてトビアスの顔から、重苦しい暗雲のような影が少しずつ晴れていった。
「そうだな。あいつらが走るスピードについていく必要なんて最初からなかったんだ。僕は僕のペースで、あいつらの必死な生き様を記事にして街の記録として残し続ければいい。それが、僕の仕事なんだから」
トビアスは残っていたチャイをグイッと飲み干し、勢いよくスツールから立ち上がった。
「ありがとう、リアンくん。 なんだか、すっごく目が覚めたよ。胃の奥から力が湧いてきた」
「スパイスのおかげですね」
「いや……君の言葉のおかげさ。よし、さっそく今日の夕刊のコラムを書き直してくる! 昇進した同僚への、最高の当てつけみたいな祝辞を書いてやるさ!」
トビアスはカウンターに銀貨を叩きつけ、コートを翻して扉へと向かった。
「おい、三流記者」
ずっと黙ってグラスを磨いていたコンラートが、背中を向けたまま低い声で呼び止めた。
「記事を書くのは勝手だが、間違ってもうちの店のことは書くじゃないぞ。くだらん客が増えたら、わしの静かな時間が邪魔されるからな」
「わかってますよ、コンラートさん。この店のことは、僕の手帳の誰にも教えない極秘リストの一番上に書いてありますから!」
トビアスはニッと笑って、足取りも軽く春の街の喧騒の中へと飛び出していった。
カランとベルの音が鳴り止むと、店の中は再び無数の時計たちが刻む不揃いなカチコチという音だけの静寂に包まれた。
「生意気な説教を垂れるようになったな、ガキが」
「すみません。つい、長年染み付いた教育係の癖が出てしまいました」
「ふん。まあ、悪くない説教だったがな……」
コンラートが、不機嫌そうに口角をほんの僅かに上げた。
僕は窓辺に目をやった。
菩提樹の若葉が、春の風に揺れている。
フィレーネ。
僕の永遠の記憶の中に記録された、たった一人の大切な主人。
君が駆け抜けた嵐のような一生を、僕は一つ残らず完璧に記録しているよ。
そして今、この新しい街で出会った人たちの不揃いで愛おしい人生の断片も、僕の記憶の中に少しずつ新しい記録として書き加えられ始めている。
──これでいいんだよね。
僕は空になったマグカップを手に取り、少しだけ冷たい水で丁寧に洗い始めた。




