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転生エルフ執事は、何度でも主人の最期に紅茶を淹れる ~不老不死の悠久のお仕えスローライフ~  作者: 季未
第五章 永遠の執事は、また歩き出す

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第六十五話 リス族は冬眠しない

本格的な冬が来た。


リンデンブルクの冬は、僕が長く過ごしたヴァルシュタインの冬とは明らかに質が違っていた。


大公邸の冬は分厚い雪に閉ざされた、荘厳で静かなものだった。


だが、この職人の街の冬はとにかく騒がしい。


職人たちは刺すような寒さなど少しも構わず、白い息を吐きながら金槌を振り下ろし、ドワーフの鍛冶師たちに至っては「凍える外と比べりゃ、炉の前が一年で一番暖かい季節だ!」と豪快に笑いながら、上半身裸で汗を流す始末だ。


歯車猫亭も変わらず静かに営業を続けている。


表のテラスのテーブルは約束通り仕舞われた……と言いたいところだが実際は違った。


「コンラートさん。夏が終わったら仕舞うと言っていたはずですが」


「……」


「もう、吐く息が白くなる冬ですよ」


「秋に片付けるのを、たまたま忘れただけだ。黙ってグラスを磨け」


コンラートのこの手の強がりにも、すっかり慣れた。


この偏屈な老人が「忘れた」と言う時……大抵の場合、本当は忘れてなどいない。ただ、片付けたくなかっただけなのだ。


冷たい風が吹くテラス席で焼き栗屋台の少女・ミーシャが、自分の淹れた熱い紅茶を飲んで尻尾を嬉しそうに膨らませている。


その光景が、爺さんなりに気に入っていたのだと僕は密かに思っている。絶対に口には出さないが。


だが……。


とある日の朝。


いつもの時間になってもミーシャが店に現れなかった。


僕は朝の紅茶を二杯分用意していた。一杯は自分の、もう一杯はミーシャのためのものだ。


リス族の獣人は冬場に冷えを嫌い、温かく甘い飲み物を好むと聞いたので最近は特製のミルクティーにしている。


茶葉は無名の丘陵産を贅沢に使い、牛乳は街の乳製品屋から特別に仕入れた脂肪分の高いもの。


七時を過ぎても、来ない。


七時半。まだ来ない。


ミーシャが約束を破ったことは一度もなかった。


土砂降りの雨の日も、市場の仕入れが早くて忙しい日も、彼女は必ず僕の淹れる朝の紅茶を飲みにやって来た。


「コンラートさん。ミーシャの様子を見に行ってもいいですか」


「リアン。リス族は……まぁいい。行ってやれ」


コンラートは何かを言いかけたが、僕が行くのを止めはしなかった。


八時になって、僕はエプロンを外し店を出た。


ミーシャの住処は知っていた。以前、焼き栗の仕入れ先を教えると言って、道すがら教えてもらったのだ。


東の通りをさらに路地の奥へと入った、日陰にある古い集合住宅の三階。獣人の住民が多い区画らしく、木製の階段のところどころに深い爪痕が残っている。猫族か、犬族のものだろう。


ミーシャのものではない。彼女は「屋台で栗を扱うのに、長い爪は邪魔だから」と、いつも深爪するくらい綺麗に指先を整えていたから。


三階の一番奥、立て付けの悪そうな薄い木の扉を叩いた。


返事はない。


もう一度、少しだけ強めに叩いた。


「ミーシャ。リアンです」


中から、微かな物音がした。布が擦れるような、重い音。それから、ひどく掠れた小さな声が聞こえた。


「……リアン、くん?」


「朝の紅茶が、完全に冷めますよ」


沈黙。


しばらくして、重い足取りが近づき、鍵の回る音がした。


扉が細く開いた。


暗い隙間からミーシャの顔が覗いた。


いつもの快活さがすっかり抜け落ちている。灰色の毛皮がところどころパサついて逆立っていて、目の周りが赤い。


そして、鼻先がカサカサに乾いている。獣人にとって鼻の乾燥は明確な体調不良のサインだと大公邸の書物で読んだ記憶があった。


「風邪ですか?」


「ん……ちがう。たぶん。リス族特有のやつ」


「特有の?」


ミーシャは扉をもう少しだけ開けて、厚い毛布にくるまったまま、のろのろと部屋の中に戻っていった。どうやら僕を入れるつもりらしい。


「お邪魔します」と小さく言って、部屋に入り扉を閉めた。


部屋は狭かった。


四畳半ほどの一間に小さな寝台と、テーブル代わりの木の箱が二つ。壁の釘には、すっかり街の風景に馴染んだ焼き栗屋台用のエプロンがポツンと掛かっている。


窓は南向きだが、周囲の建物のせいで冬の陽が薄く射し込む程度だ。貧しいが、とても清潔に整えられている。


ミーシャは寝台の上に戻ると毛布を頭まですっぽりと被り、小さく丸くなった。


文字通り真ん丸に。膝を深く抱え込み、大きな尻尾を自分の体にぐるりと巻きつけた姿は冬の冷たい木の洞に収まった、一匹のリスそのものだった。


「リス族は冬眠しないんだけどね」


毛布の山の中から、くぐもった声が聞こえた。


「しないけど、本格的な冬になると、急に体が鉛みたいに重くなるの。動きたくない、起きたくない、何もしたくない。大体三日くらい毛布に包まってれば治るんだけど、その間はもう、ぜんぜんダメ。使い物にならないの」


「毎年、ですか?」


「毎年。小さい頃から、ずーっと。おばあちゃんもそうだったって言ってた」


リス族特有の冬季倦怠。


祖先が冬眠していた頃の、遺伝的な名残なのだろう。完全に眠りに落ちるわけではないが、エネルギーの消費を抑えるために身体が一時的な半休止状態に入るのだ。


獣人の種族によって、気候の変化でこういった固有の症状が出るのは珍しくない。


「屋台は?」


「三日間お休み……。常連さんには昨日のうちに伝えたんだけど、リアンくんにはお店で言い忘れちゃった。せっかく紅茶淹れて待っててくれたのに……ごめんね」


「謝る必要はありません。僕が勝手に淹れて、勝手に待ってただけだから」


僕は持ってきた保温瓶を、寝台の横の木箱の上に静かに置いた。


冬場、冷え切った彼女の手を温める湯たんぽ代わりにもなるようにと、朝から少し多めに作ってきた熱いミルクティーだ。


「飲めそうですか?」


毛布がもぞもぞと動いて、隙間からミーシャの手が力なく伸びた。


人間の同年代と比べても小さい手だ。保温瓶を受け取る力すらないほど、弱々しい。


僕が代わりに蓋を開け、カップに注いで差し出してやった。


ミーシャは毛布から顔の半分だけを出して、カップを両手で包み込むように持ち、口をつけた。


一口。


彼女の大きな尻尾が、毛布の中でぴくりと動いた。


いつものように爆発するように膨らみはしなかったけれど、先端だけが嬉しそうに震えた。


「あったかい」


「ミルクティーです。例の丘陵産の茶葉で」


「リアンくんの……いちばん、好き」


彼女はゆっくりと息を吐き、そのまままた毛布の奥深くへと潜っていった。両手だけが毛布の隙間からちょこんと顔を出している。


僕は部屋の床に座った。椅子がないから、壁に背を預けて足を少し伸ばした。


ミーシャの部屋は暖炉がなくても不思議と寒くなかった。冬の弱い陽射しでも、窓から射す光はほんのりと暖かい。


「リアンくん。帰んなくていいの? お店」


「コンラートさんには伝えてきました」


狭い部屋の中に静かな時間が流れた。


窓の外で通りを行く重い荷車の音がする。どこかの工房で硬い金属を打つ金槌が鳴っている。遠くで犬族の子供たちが、寒さに負けず走り回って笑う声。


リンデンブルクの不完全で愛おしい冬の日常が、薄い壁一枚を隔てて、確かに続いている。


「ねえ」


ミーシャの声が、さっきよりも少しだけはっきりとした。ミルクティーの温かさと糖分が、少しだけマナの循環を助けたのかもしれない。


「あたし、毎年これが来ると思うんだ。あと何回、冬が来るんだろうって」


「……」


「リス族の寿命が長くて五十年として、あたしは今二十二歳だから、残りは二十八回あればいい方。そのうちの三日間ずつ、こうやって動けないとしたら、沢山の日数を毛布の中にいることになるの。すっごく、もったいないよね」


「もったいない、ですか」


「もったいないよ。だってあたし、ずっと焼き栗焼いてたいもん。お客さんに渡して、美味しいって笑顔で言われたいもん。リアンくんの淹れてくれた紅茶、毎日飲みたいもん。毛布の中にいたって、何も起きないじゃん」


何も、起きない。


その言葉は僕の脳裏に、故郷アエテルヌムの光景を鮮明に思い出させた。


永遠に変わらない、果てしない緑の草原。


途方もない時間をかけて、葉の裏表の葉脈を観察するセレネイア。千年単位で議論を続けるアルヴァン。


誰も死なず、何も変わらず、何も起きない場所。


ミーシャにとってのこの三日間の毛布の中と、僕にとってのアエテルヌムは、たぶん本質的に似ているのだ。


時間だけが無為に過ぎて、何も起きないことへの恐怖。


ただし決定的に違うのは。


僕の時間には際限がないが、ミーシャの時間には、確実な終わりがあるということだ。


「……じゃあ、三日間は僕が毎朝ここに届けるよ」


毛布が動いた。


「え?」


「紅茶。僕が毎朝、君の部屋に持ってくる。屋台に出て焼き栗は焼けないかもしれないけど、毛布の中で温かいものを飲むことくらいはできるでしょう。そうすれば、ただ毛布の中にいるだけの『もったいない日』にはならない……かも?」


「……いいの?」


「朝は暇ですから」


また嘘をついた。


朝はコンラートの仕込みがあって、厨房は戦場のように忙しい。でも、前日の夜のうちに水瓶を運び、下準備を完璧に済ませておけば三十分の時間は必ず作れる。


そもそもハイエルフに睡眠は必要ないのだから、早起きすればいいだけだ。いつも早起きだけど、もう少しだけ早く。


毛布の隙間からミーシャの丸い目だけが覗いた。


赤くて、少し潤んでいる。体調のせいか、それとも。


「リアンくんって……何歳なの?」


「この身体を見てください。子供ですよ」


「エルフだし外見じゃ判別できないでしょ……」


尻尾の先が、また小さく、ぶんぶんと嬉しそうに震えた。


♢   ♢   ♢


宣言通り三日間、僕は朝の紅茶をミーシャの部屋に届けた。


一日目はたっぷり甘くしたミルクティー。二日目は体を芯から温めるようにジンジャーを少し効かせたチャイ風。三日目は彼女のお気に入りの丘陵産の無名の茶葉を、香りを立たせたストレートで。


そして四日目の朝。


三階の部屋を訪れると、ミーシャは毛布に包まることなく自分で扉を開けた。


いつもの屋台用のエプロンを着て。パサついていた毛皮は綺麗に整えられ、鼻先は湿って健康的に黒く光っていた。


「おはよう、リアンくん!」


声が完全に元に戻っていた。甲高い、屋台の元気な呼び込みと全く同じ声。


「治りましたか?」


「ばっちり! 今日から焼き栗屋台、完全復活! 常連さんが待ってるからね、気合い入れなきゃ!」


ミーシャは僕から保温瓶の紅茶を受け取って、勢いよく一口飲んだ。


ぼふんっ! と。


彼女の大きな尻尾がこれ以上ないほど盛大に膨らんだ。


「あー、やっぱりリアンくんの紅茶が世界でいちばん美味しい!」


屈託のない笑顔を見て、僕は空になった保温瓶を受け取り店へと向かう帰り道についた。


少しだけ遠回りをして、街の中央広場を通った。


石造りの噴水は冬の寒さの中でも凍ることなく水を吹き上げている。揺れる水面が低い朝日を跳ね返して、金色の粒が周囲に散らばっていた。


二十八回の冬。


ミーシャはそう言った。彼女の残りの冬は、あと……長くても二十八回。


僕にはこれから数えきれないほどの冬が来る。百回でも、千回でも、万回でも。


絶望的なほどに長い永遠を僕はただ一人で無為に過ごすのか。それとも、限られた命を持つ誰かの傍に寄り添って過ごすのか。


フィレーネの声が耳の奥で蘇った。


『幸せになりなさい。わたしがいなくても』


幸せの定義なんて僕にはまだよく分からない。


でも、毛布の隙間から覗く赤い目と嬉しそうに膨らむ尻尾と「世界でいちばん」という言葉が、少なくとも不幸ではないことだけは確かに知っている。


歯車猫亭の裏口を開けると、コンラートが仏頂面で僕が昨夜満たしておいた水瓶の前に立っていた。


「遅い」


「すみません」


「謝る暇があるなら、明日からはもっと早く来い」


「はい」


「……で、あの栗売りの嬢ちゃんは治ったのか」


「ええ。すっかり治りましたよ」


コンラートは「ふん」と短く鼻を鳴らし、何も言わずに厨房へ戻り、ポットを温め始めた。


不機嫌な顔の奥で、たぶん彼なりにひどく安堵しているのだ。


この偏屈な爺さんは口よりも手の方が遥かに正直だ。今朝のポットは、いつもよりずっと時間をかけて丁寧に温められていたから。

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