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転生エルフ執事は、何度でも主人の最期に紅茶を淹れる ~不老不死の悠久のお仕えスローライフ~  作者: 季未
第五章 永遠の執事は、また歩き出す

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第六十四話 ドワーフは、酔うと泣く

ヒルダの正確な年齢が判明したのは偶然からだった。


秋も深まり、夜の風がマフラーを欲するほどに冷たくなってきた頃。


夜、歯車猫亭の偏屈な店主コンラートが珍しく閉店後の店に鍵をかけず、奥の棚に隠してあった琥珀色の蒸留酒の瓶をカウンターに置いた。


常連客に強い酒を振る舞うのが年に一度の恒例行事なのだという。


僕がこの街に来るずっと前から続いている慣習で、コンラート曰く「店の誕生日」だそうだ。


「コンラートさん。今年で、この店は何年目になるんですか」


「忘れたな。来年は、もし覚えてたら祝ってやる」


「毎年同じこと言ってるよ、あんたは。素直にめでたいって顔に書いときな」


ヒルダが豪快に笑いながら、コンラートが注いだ分厚いグラスを受け取った。


その夜、薄暗い店内のテーブルを囲んだのは五人。


コンラート、ヒルダ、ヴィルヘルム、僕、そしてたまたま夜の取材帰りにふらりと寄ったトビアス。


ミーシャは酒が全く飲めない体質らしく、「匂いだけで酔っ払って尻尾が爆発するから」と残念そうに辞退して帰っていった。


帰り際、尻尾を振りながら「明日の朝の紅茶は絶対だからね!」と僕に何度も念押しして。


コンラートが注いでくれた蒸留酒は透明に近い琥珀色で、鼻を強く突く芳醇な香りがした。上質な穀物系だ。アルコール度数はかなり高いだろう。


僕はハイエルフなので、人間の酒で酔うという身体的機能が存在しない。だが、舌で味を解析することはできる。


(悪くない)


雑味が極限まで取り除かれていて、喉を焼くような熱さの後に仄かな甘みが舌の奥に残る。紅茶と同じく、この爺さんの選ぶものに間違いはないらしい。


「コンラートさん、これ、どこの酒ですか」


「教えん」


「また出し惜しみかい」


ヒルダが呆れた。


「教えん、と言ったら絶対に教えん。この酒の銘柄は、わしが死ぬまで秘密だ」


「じゃあ、そろそろ聞けるかもしれないねえ」


「縁起でもないことを言うな、クソババア」


老時計師のヴィルヘルムは一杯目で早くも顔が赤くなり、二杯目で饒舌になった。


大時計塔の設計図にまつわる裏話から、今は亡き師匠の笑える失敗談、自分が若い頃に連邦国を旅した時の思い出と、話題が陽気に転がるように移っていく。


コンラートはグラスを拭きながら適当な相槌を打ち、時折「嘘をつくな、話を盛るな」と容赦なく突っ込む。


腐れ縁である彼らにしか出せない、心地よい距離感だった。


トビアスは酒を飲みながらヴィルヘルムの話を熱心にメモに取ろうとして、コンラートに睨まれ慌ててペンを仕舞った。


「言っておくが、ここは取材禁止だぞ、三流記者」


「分かってますよ。ただ、面白い話を聞くと手が勝手に動いてしまって」


「記者の悪い癖だな」


「職業病ですよ。若い頃の武勇伝というのは本当に面白いのです」


トビアスは苦笑しながらグラスを傾け、ふと隣に座る僕を見た。


「リアンくんは、全然酔わないね? 顔色一つ変わってない」


「体質です。アルコールはすぐに分解されるので」


僕の故郷アエテルヌムでは、そもそも酒を醸造して飲むという文化自体が存在しなかった。


アルコールによる快楽や、嗜好品への興味が著しく薄いのがハイエルフという種族の特性なのだ。


僕がこうして人間の紅茶に異常な執着を見せていること自体、同胞たちからすれば十分に『壊れている』状態なのだろう。


三杯目の酒が回り始めた頃。


ふと、ヒルダが静かになった。


それまで誰よりも声が大きく、豪快に笑っていたドワーフの老婆が分厚いグラスを両手で包み込んだまま琥珀色の液面を見つめている。


指が、かすかに震えていた。


「ヒルダ」


コンラートが静かに声をかけた。


いつも不機嫌に怒鳴っている老人にしては珍しく、柔らかく、気遣うような声だった。


「あたしね」


ヒルダが、ゆっくりと口を開いた。しゃがれた声が酒で少しだけ湿っている。


「今年で、百七十八になるんだよ」


百七十八歳。


ドワーフの平均寿命は、およそ二百年から二百五十年と言われている。人間からすれば途方もない長寿だ。


だが、彼女の口からこぼれ落ちた百七十八年という時間の重みは、声の震えに色濃く滲み出ていた。


「旦那は百二十で死んだ。ドワーフにしちゃ随分と早かったよ。真夏の鍛冶場でハンマーを持ったまま倒れてね。……心臓だった」


ヒルダはグラスの縁を指でなぞりながら続けた。


「息子は百五十まで生きた。あたしより先にさ。流行り病だったよ。孫はもう、この街にはいない。腕を磨くって言って西の大きな鉱山街に行っちまった」


誰も口を挟まなかった。


トビアスもペンを持たず、ヴィルヘルムも目を伏せ、コンラートはただ黙ってグラスを磨いている。


壁の時計たちだけが、カチコチと不揃いな音を無遠慮に鳴らし続けている。


「だから……あたしは毎日ここに来るんだよ」


ヒルダが呟いた。


「家にいたって炉の火は消えてるし、誰もいないから。金槌の音も、怒鳴り声も、何にも聞こえないからさ」


ヒルダはグラスの残りの酒を一息に飲み干した。それから太い腕の袖で目元を乱暴に拭い、ふんと鼻を鳴らした。


「毎日ただの白湯だけで銅貨一枚ふんだくるなんて、本当にぼったくりだけどねえ」


「嫌なら、明日から来るな」


コンラートがいつも通りぶっきらぼうに言って、しかし無言で彼女の空のグラスに、なみなみと酒を注ぎ足した。


ヒルダは「ケチな爺さんが」と笑った。目尻の深い皺に、拭いきれなかった涙の跡が光っていた。


百七十八年。


僕の生きてきた時間よりは短い。僕の人生の方がまだ長い。


だけどヒルダの百七十八年には、僕の三百年近くの人生にはない重さが詰まっていた。


愛する夫を唐突に看取った夜がある。自分より先に逝く息子の冷たい手を握りしめた葬儀がある。最後に残った孫の背中を見送った寂しい朝がある。


その全部の重さを小さな背中に背負って、彼女は毎日、この店にお湯を飲みに来ているのだ。


銅貨一枚は、白湯の値段じゃない。


この店で椅子に座る権利の値段だ。誰かのそばにいて、誰かの声を聴いて、自分が今日を生きていることを確かめるための——切実な場所代なのだ。


「……リアン」


不意にヒルダが僕の名前を呼んだ。

酒に赤く染まり、少し潤んだ目が真っ直ぐに僕を射抜いている。


「あんた、エルフだろう。あたしより、ずっとずっと長く生きるんだろう」


「はい」


「じゃあ……あたしが死んだ後も、ずっとここに座んな。このカウンターの席を、絶対に空けるんじゃないよ」


「……え?」


「あんたみたいな口うるさい子供でも、誰かが毎日そばにいてやらないと……コンラートの爺さんが、一人ぼっちで寂しがるからね」


「おい、勝手なことを言うな」


コンラートが顔を真っ赤にして怒鳴った。


「事実だろうが、この偏屈じじい! 寂しがり屋のくせに!」


二人のいつもの遠慮のない軽口が、さっきまでの湿った空気を一気に払い飛ばした。


ヴィルヘルムが「おいおい、わしだって寂しがるぞ」と笑いながら冗談を言い、トビアスが「これは良い記事になりますね。


リンデンブルク日報の一面で『感動の常連物語・白湯に隠された真実』として連載しましょう」とからかい、コンラートが「一文字でも書いたら一生出禁だ!」と本気で脅した。


僕は笑っていた。


たぶん、声に出して笑っていたと思う。口元が緩んでいたのは確かだ。


だけど同時に胸の奥で、ガラスがひび割れるような音がして何かが軋んでいた。


ヒルダの言葉が、深く突き刺さっている。


『あたしが死んだ後も、この席を空けるんじゃないよ』


春の庭で、たった一人の大切な主人にも、同じようなことを言われた。


形は違うけど意味は全く同じだ。


先に逝く者から長く残される側への——残酷で、どうしようもなく優しい「生きてくれ」という命令。


夜が更けて、日付が変わる頃。


一人、また一人と常連たちが帰っていった。


ヴィルヘルムが最初に席を立ち、曲がった腰をさすりながら「明日も午後に来る」と言い残して去った。


トビアスが次に立ち「絶対に記事にはしないので安心してください。……たぶん」と悪戯っぽく笑って夜の闇に消えた。


ヒルダは僕に太い腕を貸してもらって立ち上がり、「じゃあね、坊や。また明日」と僕の頭を力強くぽんと叩いて、千鳥足で出ていった。


残ったのはコンラートと僕だけだった。


老人は無言でグラスを洗い、琥珀色の酒の瓶を棚の奥に大切に戻し、カウンターを綺麗に拭き上げている。


僕は自分の空になったグラスを洗い場に持っていった。コンラートの隣に立ち、並んで洗った。


「コンラートさん」


「何だ」


「明日も、来ます」


「当たり前だ。お前が来なきゃ、誰が重い水瓶を運んで、厨房の掃除をするんだ」


それだけだった。


「ありがとう」とも「待ってるぞ」とも言わない。でも、それで十分だった。


店を出て菩提樹亭への帰り道。


広場の巨大な時計塔の鐘は鳴らなかった。夜中の二時を過ぎているからだ。石畳を歩く自分の足音だけが、静かに眠る職人の街の通りにコツ、コツと響いている。


冷たい夜風が吹き、菩提樹の葉がさわさわと揺れて、雲の切れ間から月の光がちらちらと漏れ落ちていた。


五つの椅子。五つの寿命。


全部違う長さで、全部が同じ「死」という方向に向かって確実に進んでいる。


僕だけが、その同じ方向に歩けない。


だけど。


明日の午後も歯車猫亭は必ず扉を開く。


コンラートが不機嫌な顔で僕の茶葉の量り方に文句を言い、ヒルダが銅貨一枚で熱いお湯を啜り、ヴィルヘルムがアッサムを頼む。ミーシャが尻尾を弾ませて飛び込んでくるし、トビアスがペンを仕舞い忘れてまた爺さんに怒鳴られる。


今日と同じ、騒がしくて愛おしい明日が来る。


それがいつまで続くかは分からない。いつか必ず、一つずつ椅子が空いていく日は来る。


だけど、それが続く限りは。


僕はここで、彼らのためにお湯を沸かそう。


完璧な紅茶を淹れて、彼らの人生に寄り添おう。


夜空を見上げるとアエテルヌムで見たのと同じ、高く冷たい月が輝いていた。

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