第六十三話 椅子が一つずつ増えていく
季節が一つ、静かに過ぎた。
リンデンブルクの街に、初夏の気配が混じり始めた頃。
ある朝、仕込みの準備のために歯車猫亭の裏口から入ると、厨房で大きな水瓶を持ち上げようとしたコンラートがに腰を押さえてうずくまっていた。
「大丈夫ですか!」
「……触るな。すぐ治る」
治らなかった。
三十分経っても老人の曲がった腰は伸びず、このままでは午後の開店に絶対に間に合わない。
僕は何も言わずコンラートを厨房の隅の椅子に座らせた。
そして彼に代わって重い水瓶を運び、棚の上から重い茶葉の缶を下ろし、いくつものポットを沸かしたての湯で完璧に温め始めた。
コンラートは痛みに顔をしかめながら、椅子に座ったまま僕の一連の動作を不機嫌そうに睨んでいた。
「今日は臨時の休業にしますか?」
「休まん。わしはこの店を開いて四十年、病気で店を閉めたことなど一度もない」
意地っ張りな職人だ。
まぁ、今の僕はこの店の居候ということになっている。一応、毎晩ポケットにねじ込まれる賃金らしき銀貨も受け取っているのだ。
「かしこまりました。では、僕が全てを熟しましょう」
だから僕は手伝う。手伝うというか、賃金分はきっちり働くのが執事の矜持だ。
リンデンブルクの夏は僕が予想していたよりも遥かに暑かった。
巨大な城壁と無数の石造りの建物が昼間の太陽の熱をたっぷりと溜め込み、夜になってもそれをじわじわと吐き出し続けるのだ。
大公邸にいた頃なら僕自身のマナを空間に干渉させて、部屋全体の室温と湿度を常に完璧な春の状態に調整していた。
だが、この職人の街でそんな真似をして「この茶店の中だけ異常に涼しい」となれば、僕が絶対的な魔術を持つ存在だとバレてしまうかもしれない。
何より……今は、普通でいたいのだ。
有限の時間を生きる彼らと同じ温度を感じて、同じように汗をかいて、同じように涼を求めたい。
だから。
本当は魔術で一瞬で紅茶を凍らせれば楽だったのだが……僕はわざわざ市場の氷屋まで走り、高価な氷柱を買ってきてアナログな方法で苦労の末に冷たい紅茶を作った。
濃厚に抽出した熱い紅茶を砕いた氷で満たした金属の容器に一気に注ぎ込み、激しく振って急冷する。氷が溶けて味が薄まるのを計算に入れ、茶葉の量は通常の二・五倍。
『アイスティー』という概念は、この世界ではまだ一般的ではない。
紅茶とは熱い湯で香りを楽しむものだ、というのが大多数の認識であり、試しにコンラートの前に冷気を纏ったグラスを置くと彼は鼻で笑った。
「紅茶を氷で冷やすだと? 正気の沙汰じゃないな。茶葉への冒涜だ」
「冒涜かどうかは、飲んでから言ってください」
コンラートは眉間に深い皺を寄せたまま、渋々といった様子でグラスに口をつけた。
一口。
彼はピタリと動きを止め、三秒ほど黙って天井の煤けた梁を見上げた。
それからグラスに残っていた冷たい液体を一息に飲み干し、カウンターに空のグラスを乱暴に置いて無言で僕を睨みつけた。
「お代わりだ」
「冒涜ではなかったのですか?」
「うるさいガキだ。早く淹れろ」
美味しいとは絶対に口にしないのが、この不器用な爺さんの流儀らしい。
この急冷したアイスティーは思いがけず評判になった。
夏場のうだるような暑さの中、熱い炉の前で働く鍛冶師や、歩き回る商人たちが仕事の合間に立ち寄るようになり、午後の店内はあっという間に席が埋まるようになった。
「コンラートさん。表のテラスに臨時でテーブルをいくつか出しましょう。風通しも良くてオシャレですし」
「オシャレだと? そんな軟弱なものは、わしの硬派な店にはいらん」
「でも、せっかく来てくれたお客さんが、席に座れずに帰ってしまっていますけど」
「……」
コンラートは舌打ちをして、渋々表のテラスにテーブルと椅子を出した。
「調子に乗るなよ。夏が終わったら、すぐに仕舞うからな」
「はいはい」
新設されたテラス席を最も気に入ったのは、焼き栗屋台の獣人の少女だった。
名前はミーシャと言うらしい。
頭にはリスの耳、腰にはふさふさの巨大な尻尾を持つリス族の獣人で、外見は人間に換算すると十四、五歳の元気な少女に見える。
夏場は焼き栗が売れないらしく、屋台を早々に畳んだ午後遅くに毎日テラスにやってきて、氷の入ったアイスティーを嬉しそうに注文するのだ。
「リアンくーん! 今日も冷たいのちょうだい!」
ミーシャは冷たい紅茶を飲む時、腰の大きな尻尾がぶわっと大きく膨らむ。どうやらそれが彼女の「美味しい」という無意識のサインらしい。
ある日、ミーシャが飲み終わったグラスを置いて唐突に僕に尋ねてきた。
「ねえリアンくん、あたしって、人間でいうと何歳くらいに見える?」
「十四か、十五くらいじゃないですか」
「ぶー、はずれ。あたし、もう二十二歳なんだよ」
「へえ……意外とお姉さんだったんですね」
「リス族はね、みんな見た目がちっちゃいの。それに寿命も短いしね」
天気の話でもするような、軽い口調だった。
「……寿命、どのくらいなんですか」
「うーん、長生きしても五十年くらいかな? おばあちゃんが四十六歳で大往生したから、あたしもそのくらいだと思うよ」
──長くて五十年。
フィレーネは七十年以上の時を人間として懸命に生き抜いた。
それでも永遠を生きる僕にとっては、瞬きのように短すぎたというのに。
彼女の現在の年齢を考慮すると、残された時間はあと二十数年しかない。
僕が思わず言葉を失っていると、ミーシャは僕の顔を見て、慌てて両手をパタパタと振った。
「あ、ごめん! 全然暗い話じゃないんだよ! リス族はみんなそうやって生きてきたから、悲しいとかそういうのじゃないの。短い分、毎日が楽しければいいかなって。焼き栗は美味しいし、この街は活気があって好きだし、リアンくんの美味しい紅茶もあるしね」
明るい笑顔だった。
「……」
彼女は自分の命が短いことを知っている。
知った上で、今日という日を全力で楽しんでいるのだ。
最初から自分の時間が他の種族より少ないことを、何の不満もなく受け入れている。
「ミーシャ」
「ん?」
「明日から、午後の屋台の仕込みを始める前に、うちに寄ったら。朝の仕込み用の紅茶を、少しだけ君に出すよ」
「え、いいの!?」
「朝は客が少なくて暇だからね」
「やったー! じゃあ明日から毎日、朝一番に来るね!」
彼女の尻尾がちぎれそうなほど左右に激しく揺れていた。
午後になり、老時計師のヴィルヘルムがいつものように歯車猫亭にやってきた。
だが今日は一人ではなく、隣に長身の青年を連れている。
栗色の髪を短く綺麗に刈り込んだ青年。耳の先端は僕ほどではないが僅かに尖っていた。
ハーフエルフだ。目の下には慢性的な睡眠不足を思わせる濃い隈があり、指先には時計の油ではなくインクの黒い染みが深く残っている。
「リアン、紹介する。わしの孫弟子だ」
「孫弟子……ですか?」
「元、だがな。時計師の道は駄目だった。どうにも手先が不器用でな。今は新聞記者をやっておる」
青年は僕を見て軽く頭を下げた。
「トビアスです。リンデンブルク日報という新聞で記者をしています。……あなたが最近街で噂になっている紅茶の子供ですか」
紅茶の子供って……。僕のこと、そんな噂になってたのか。
なんだか昔を思い出す。あれはたしかシャルロッテの学園に付き添った時だ。
あの時は……紅茶の妖精だったかな。今回は紅茶の子供か……。
「できれば噂にしないでほしいんですが」
「この街で噂にならない方が難しいですよ。職人の街の連中は仕事には厳しいですが、面白いことに関しては口が軽いですからね」
普通、職人は口が堅いイメージがあるのだが。まぁいい。
僕はトビアスの体格と少し疲れた顔色に合わせて中くらいの厚みのカップを選び、温かいダージリンを出した。
初対面で好みが分からない時は、味と香りのバランスが取れた中庸から始めるのが執事の鉄則だ。
一口飲んでトビアスは持っていたメモ用のペンを置いた。
「これは、記事にしていいですか」
「やめてください」
「冗談です。半分は、ですが」
トビアスは少しだけ目を細めて笑った。だが、目に取材対象を値踏みするような下世話な冷たさはなく、純粋な職人の技への驚きが浮かんでいた。
「三十五歳です。年齢を聞かれる前に」
ハーフエルフで三十五歳。
彼らの寿命は純血のエルフには及ばないものの、人間よりは遥かに長い。
トビアスは恐らく、これから五百年近くは生きるだろう。
それが幸運なことかは僕には分からないが。
夜。
コンラートが部屋へ引っ込み、僕は一人で店内のカウンターに残った。グラスを拭きながら、今日この店を訪れた常連客たちのことをぼんやりと考える。
コンラート。人間、七十代。残りの時間はあと十年か、長くても十五年。
ヴィルヘルム。人間、七十代。彼も同じくらいだろう。
ヒルダ。ドワーフ。見た目と態度から察するに百五十歳は超えている。ドワーフの寿命は二百年から二百五十年らしいから、まだ少し余裕がある。
ミーシャ。リス族の獣人、二十二歳。残りは、たったの二十数年。
トビアス。ハーフエルフ、三十五歳。彼には、まだまだ途方もない時間がある。
五人。
壁の無数の時計たちが、それぞれの不揃いなリズムで時を刻んでいる。
カチ、コチ。カチ、コチ。
チク、タク。チク、タク。
同じ文字盤の上で同じ数字を指しているのに、秒針が一周する速さがそれぞれ全く違う。
同じ空間で、同じ紅茶を飲んで、同じように笑い合って……同じ今日という日を過ごしている。
なのに彼らが持っている時間の長さはバラバラなのだ。
コンラートとヴィルヘルムが、一番先に逝く。
ミーシャは、その少し後。
ヒルダはもう少しだけ長く残り、トビアスはさらにそのずっと先まで生きる。
そして僕は──。
僕は彼ら全員の最後を見送った後も一人、何も変わらない姿でここに残るのだ。
アエテルヌムで出会ったエレインの楽しそうな声が、耳の奥で幻聴のように響いた。
──あんまり関わりすぎないことね。心が壊れるから
「……」
この店にある椅子が、一つ、また一つと空席になっていく度に。
僕の心は少しずつ削られ、摩耗し、やがて取り返しのつかないヒビが入るのかもしれない。
でも。
今はまだ……この店の椅子は全員分、温かく埋まっている。
それでいい。今日は、それでいい。
僕の淹れた紅茶を飲んで「美味しい」と笑ってくれる人たちが、確かに目の前に生きているのだから。
先のことは……今はまだ考えたくない。
僕は布巾を置き、暗い店内でいつまでも不揃いな音を鳴らし続ける時計たちを見上げて、静かに息を吐いた。




