第六十二話 常連(?)になるのは早かった
翌日の午後。
僕は約束通り、東の通りの外れにある歯車猫亭の重い木製の扉を開けた。
くぐもったベルの音が鳴る。
カウンターの奥にいたコンラートは僕の顔を見るなり、挨拶の代わりに無言で黒い茶葉の缶を三つカウンターの上に並べた。
「淹れてみろ」
「随分といきなりですね」
「わしは口だけの奴が一番嫌いだ。昨日、わしの紅茶を七十五点だの八十五点だのと偉そうに講釈を垂れたんだ。子供の皮を被った老成した舌に狂いがないというなら——わしに百点を見せてみろ」
コンラートの目は真剣だった。
不機嫌そうなへの字口は変わらないが、奥にある職人としての熱が僕の腕を試そうと燃えている。
「かしこまりました。厨房をお借りします」
僕は上着を脱ぎ、カウンターの内側へと足を踏み入れた。
コンラートの厨房は道具こそ年季が入って古いものばかりだったが、手入れは完璧に行き届いていた。
ポットの内側に茶渋一つ残っていないのは、毎日丁寧に磨き上げている証拠だ。道具を愛する人間に悪い職人はいない。
三つの缶の蓋を順番に開けた。
一つ目。ダージリンのセカンドフラッシュ。夏摘み特有のマスカテルのような甘く芳醇な香りが鼻をくすぐる。保管状態は極めて良好、香りの飛び具合から察するに開封してからおよそ二週間というところか。
二つ目。アッサム。力強い麦芽の香りがツンと立つ。濃く出してミルクティーにするのが定石だが、この品質ならストレートでも十分にいける。
そして、三つ目は……僕の知らない茶葉だった。
香りが独特だ。花のような甘さがあるが、花ではない。どこか深い森の奥……朝靄に包まれた静寂を思わせる深みがある。
「この茶葉は?」
「この街の近くの小さな村で作っている。品種の名前はまだない。前に名も知らぬ農家の婆さんがここに持ち込んできたものだ」
「無名の茶葉ですか」
「無名だから不味いとは限らん。飲んでみなきゃ分からんだろう」
その通りだ。
ブランドや名前に価値があるのではない。カップに注がれた一滴が全てだ。
「では、まずはこちらから」
一つ目のダージリンから取り掛かる。
この茶葉は繊細だ。グラグラと沸騰した直後の湯では、温度が高すぎて渋みが勝ってしまう。僕は湯の温度をマナで正確に感知し、最適な温度に落ち着いた瞬間にポットへ注いだ。
注ぐ速度は、焦らず、ゆっくりと弧を描くように。熱対流に乗って、茶葉が湯の中で美しく踊るのを確かめる。
蓋をして三分。この暗い店内の少し低めの湿度を考慮し、最後に心の中で五秒だけ長くカウントしてから、カップに注いだ。
選んだのはコンラートの店にある中で最も縁が薄い白磁のカップだ。装飾は一切ないが、形が極めて美しい。
「どうぞ」
カウンター越しに差し出すと、コンラートは黙ってカップを取り上げ、口に運んだ。
一口。
目を閉じて二口。
三口目で彼は静かにカップをソーサーに置いた。
「……」
無言だった。
すると昨日と同じ隅の席で、今日もお湯だけを飲んでいたドワーフの老婆——ヒルダが身を乗り出した。
「コンラート、黙ってないで何か言いなよ。子供相手にだんまりかい?」
「黙れ」
「黙ってるのは自分じゃないか。往生際の悪い爺さんだね」
そんなヒルダの軽口の後──コンラートは僕をギロリと睨みつけた。
睨んではいるが目の奥は全く怒っていない。
悔しいのだ。長年培ってきた茶店主としての自負を、外見十歳の子供に、たった一杯の紅茶で上回られたことが。
「何をした?」
「特別なことは何も。湯の温度を貴方より十度ほど下げて、注ぎ方の水流を変えて、部屋の湿度に合わせて蒸らしを数秒調整しただけです」
「たったそれだけで……これほどまでに味が化けるのか」
「元の茶葉が素晴らしいからです。コンラートさんの茶葉を見る目と仕入れが確かだからこそ、ほんの少しの調整で限界まで化けるんです」
お世辞ではない。素材が悪ければ、どんな執事の技術も魔法も意味がないのだ。この店の茶葉は選び手の職人としての目が確かな証拠だった。
コンラートは腕を組み、長い間考え込んでいた。壁の無数の時計たちが、カチコチと不揃いな音を刻み続ける。
「……二杯目だ。あの無名の茶葉で淹れてみろ」
「わかりました」
三つ目の缶を開けて、未知の香りをもう一度深く吸い込んだ。
花のような、森のような。だが、僕の感覚で一番近い表現を探すなら──夜露だ。明け方の森で柔らかな草の上に残った水滴の、ほんのり冷たい清涼感。
湯温をどうするか、一瞬迷った。
未知の茶葉だ。僕のデータにない。大公邸での経験則も当てはまらない。だが、相手……つまり茶葉が何を求めているか分からないまま最善を探り当てることこそが、一流の執事の腕の見せ所だ。
葉の大きさ、色、硬さを指先の感覚で確かめた。
小さめで、やや縮れている。発酵の度合いはかなり浅い。ならば湯温はダージリンよりもさらに低めだ。じっくりと時間をかけて、その奥にある甘みを引き出す。
カップに注ぐと、液体は淡い金緑色をしていた。
僕の長い人生でも見たことのない美しい色だ。ダージリンよりも透明度が遥かに高く、光に翳すと底の白磁がくっきりと透けて見える。
コンラートに差し出した。
老人はカップを持ち上げ、液体の色に僅かに目を見開き、それから一口含んだ。
「……」
そして静かにカップを置いて……窓の外の菩提樹の葉を見つめた。
「これは、わしの淹れ方では絶対に出なかった色だ……」
「茶葉のポテンシャルが高いんです。発酵が浅い分、高温で乱暴に淹れるとえぐみと苦みが先に出てしまう。低温で茶葉を驚かせないようにゆっくりと引き出せば、圧倒的な透明感と甘みが出ます」
「……そうか。気付かなかった。わしはずっと、湯が熱すぎたのか」
その呟きに自嘲の響きはなかった。
純粋な驚きと、職人としての深い悔しさと、そして自分の見つけた茶葉の可能性が証明されたことへの嬉しさが混じっていた。
不意に横から太い腕が伸びてきた。
「ねえ、坊や。あたしにも一杯おくれよ」
「ヒルダ、お前は毎日お湯しか飲まないだろうが」
「たまには違うもん飲むよ。この子の魔法みたいな手つきを見てたら……なんだか無性に飲みたくなったんだよ」
僕は微笑んで三杯目を淹れた。ヒルダ用だ。
ドワーフは一般的に喉が焼けるような濃い強い酒を好む種族だが、彼女は毎日この店で白湯を飲んでいる。胃腸が弱っているのか、それとも刺激を求めていないのか。
ならば、強い味より極限まで柔らかい味が好みなはずだ。
蒸らし時間をさらに少しだけ長くして、角を取って甘みを最大限に強調した。
「どうぞ」
ヒルダは分厚い手でカップを受け取り、一口飲んで、ゆっくりと目を閉じた。
「……あったかいねえ」
彼女はそれだけ言って、長年の疲れを溶かすように、ゆっくりとカップを傾け続けた。
♢ ♢ ♢
──そして、次の日。
「お前は、カウンターの内側にいろ」
「えっ?」
扉を開けるなりそう命じられ、その日から僕はカウンターの内側に立つことになった。
──つまり、従業員的な立ち位置である。
午後になると、この暗い店には意外なほど客がやって来る。
人間の商人、油まみれのドワーフの鍛冶師、インクの匂いをさせたエルフの書店主。
みんなコンラートの無愛想な接客に慣れきった常連たちらしい。彼の悪態を受け流し、純粋に紅茶の確かな味と時計だらけの静かな空間を求めてやって来るのだ。
僕が代わりに淹れた紅茶を出すと、最初はみんな一様に怪訝な顔をした。
「おいコンラート、なんでこんな子供が淹れた紅茶に銀貨を払わなきゃなんねえんだ」と。
だが、一口飲めば黙る。二口目で深く頷く。
三口目でコンラートに向かって「お前さん、ついにこんな優秀な新しい弟子を取ったのか」と目を丸くして聞く。
コンラートは布巾でグラスを磨きながら毎回同じことを吐き捨てるように答えた。
「弟子じゃない。ただの居候だ」
居候。
まあ、今のところ宿代は菩提樹亭に払っているし、歯車猫亭に正式に雇われて働いている訳ではない。
ただ、僕の淹れる紅茶を受け入れてくれる場所と、それを美味しいと飲んでくれる人たちがいるだけだ。
僕にとっては、それだけで十分だった。
……まぁ、コンラートはひどく不器用な男なので店を閉めた後、無言で僕のポケットに賃金らしき銀貨をねじ込んでくるのだが。
そんなこんなで。
店を閉めた後の夕暮れ時。
客が誰もいなくなった後、コンラートは毎日一杯だけ自分のために紅茶を淹れる。
僕が淹れようとしたら、不機嫌に断られた。
「これは、わしだけの時間だ」
「わかりました」
僕はカウンターの向かい側に座り、自分の分は自分で淹れた。
僕たちの間に会話はなく、夕闇が迫る店内には無数の時計の不揃いなカチコチという音だけが静かに流れている。
コンラートが口を開いたのは、彼が三杯目のお代わりの紅茶を飲み干した時だった。
「お前、何から逃げてきた」
唐突な問いだった。
「逃げてきたわけでは──」
「嘘をつくな。お前の目は大事なものをどこかに置いてきた奴の目だ。わしはこの店で何十年も色々な客の目を見てきたんだ。誤魔化しは効かん」
反論できなかった。
この老人は鋭い。紅茶の温度の変化には鈍いくせに、人間の奥底にある感情の機微には嫌になるほど敏感だ。
「……逃げてきたわけではありません。ただ……大切な人を、看取りました」
「そうか」
「ずっとずっと、一緒にいました。僕が毎日紅茶を淹れていました」
「ずっと……か」
「はい、ずっと。もう一年以上も前なのに、まだ胸に穴が開いているような気がするのです」
コンラートは何も言わなかった。
慰めも同情の言葉も口にしない。黙って僕の言葉を受け止めてくれた。
窓の外では菩提樹の葉が夜風に吹かれてさわさわと鳴っている。たくさんの時計が、それぞれのリズムで止まることなく時を刻み続けている。
やがて老人はゆっくりと立ち上がり、空になったカップを洗い場に運んだ。
背中越しに低い声が聞こえた。
「明日も来い」
「……はい」
「寝坊するなよ」
同じ台詞。ここ数日、毎日連続で聞いている、不機嫌な決まり文句。
だけど——その変わらない繰り返しが今の僕には少しだけ心地よかった。
フィレーネが毎朝ベッドの中で「おはよう、リアンくん」と必ず言ってくれたように。
アレクシスが重い政務の終わりに「リアン殿、いつもの紅茶を頼む」と毎晩同じ低い声で言ったように。
シャルロッテが「リアンの紅茶が一番美味しい!」と笑ってくれたように。
ユリウスが「リアン殿、少し休みましょうか」と僕を気遣ってくれるように。
変わらない繰り返しの中にある、絶対的な安心感を僕はよく知っている。
菩提樹亭への帰り道。
リンデンブルクの街に、夕暮れを告げる時計塔の重厚な鐘の音が鳴り響いた。
空は燃えるような茜色だった。薄暗くなり始めた路地の向こうから、飲食店の温かいオーブンの灯りが漏れている。
その近くで獣人の少女……焼き栗の屋台の子が、屋台を片付けながらご機嫌な鼻歌を歌っていた。
「ふんふ~ん♪今日はもう店じまいだよ~♪」
この街に来て、まだ数日。
けれどコンラートは毎日「明日も来い」と言い、ヒルダは毎日僕の紅茶を飲みに来る。この店を教えてくれたヴィルヘルムも毎日のように顔を出すようになった。
ヴァルシュタインの大公邸にいても、遠く離れた職人の街にいても。
結局、僕は同じことをしている。
誰かのために完璧な紅茶を淹れて、誰かの前に差し出して、その人がほっと息をつく顔を見ている。
それでいいのかもしれない。
不器用な僕には結局、それしかできないのだから。




