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転生エルフ執事は、何度でも主人の最期に紅茶を淹れる ~不老不死の悠久のお仕えスローライフ~  作者: 季未
第五章 永遠の執事は、また歩き出す

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第五十九話 知らない街の、知らない匂い

アエテルヌムの石のアーチをくぐり抜け、人間の世界に戻ってきた僕は適当な方角に向けて歩き出した。


目的の街があるわけではない。ただ、ヴァルシュタイン領から遠く離れた方角へと足を進めただけだ。


フィレーネが今の僕を見たら、間違いなく「人生の方角を適当に決めるんじゃないわよ」と呆れ顔で小言を言っただろう。


だが、今僕を叱ってくれるその声は……今はどこにもない。


どれくらい歩いただろうか。


数日か、あるいは数週間か。この身体は疲労を感じないため、歩き続けると時間の感覚が曖昧になる。


深い森を抜け、見知らぬ丘を越えた時。


唐突に目の前の盆地に巨大な城壁が広がった。見たこともない見事な規模の街だった。


堅牢な城壁は白く美しい石灰岩で築き上げられ、巨大な正門の上には赤い旗が強い風にバタバタと揺れている。


そこに描かれた紋章は僕の知識にはないものだった。交差した二本の鍵を象った、鋭く特徴的な意匠。


商業都市か、自治が認められた自由都市か。


街へと続く広く舗装された街道には各国の商人が引く荷馬車が長蛇の列をなしており、門の堅牢さと活気を物語っていた。


門の前には重武装の衛兵が二人立って検問を行っていた。列に並んで僕の順番が来ると、衛兵の一人が訝しげに僕を見下ろした。


「おい、ガキ。お前、一人か? 親はどうした」


ガキ……か。


まぁ、人間の目にはただの十歳の少年にしか見えないのだから妥当な反応だろう。


「旅の者です。親とは……ずいぶんと昔にはぐれまして。よろしければ、この街の名前を教えていただけますか」


「ここを知らずに来たのか? リンデンブルクだ。帝国自由都市リンデンブルク。見りゃ分かるだろ、門の上に紋章が掲げてある」


「交差した鍵ですね。鍵師の街ですか」


「鍵と錠前と、時計だな。帝国一の技術を誇る職人の街だ。……で、ガキ。お前、金はあるのか。保護者もいねえ、宿に泊まる銭もねえってんなら、悪いがここで追い返すぞ」


衛兵の言葉は粗野だったが、真っ当な警告だった。


僕は革鞄の奥から小さな布袋を取り出し、中に入っていた銀貨を数枚見せた。


大公家の筆頭執事の退職金として、人間が一生遊んで暮らしても使いきれないほどの莫大な富を持たされていた。


まぁ、途方もない年月を生きるハイエルフの一生となると、これでも途中で使い切ってしまうかもしれないが


銀貨を見た衛兵は少し目を丸くして、それから面倒くさそうに首を振った。


「ちっ、王国の金持ちの家出坊ちゃんか。入れ。スリに気をつけろよ」


「ご親切にどうも」


門をくぐり、街の中へと足を踏み入れた瞬間──濃密な生活の匂いが鼻を突いた。


「おぉ……」


金属が削れる匂い。機械の油。焼けた鉄の焦げ臭さ。それから……どこかのパン屋が焼く香ばしい小麦の匂い、屋台から漂う栗の焼ける匂い、そして遠くから運ばれてくる微かな花の香り。


アエテルヌムの無菌室のような完璧な空気とは全く違う。大公邸の整然とした上品さとも違う。


不完全で雑多で騒がしくて、妙に生々しく生きている匂いだ。


石畳の広い大通りを歩くと、左右に無数の工房が所狭しと並んでいる。


窓際で分厚いレンズを覗き込みながら時計の文字盤を磨く老人、小さなハンマーで錠前の噛み合わせを微調整する中年の女、親方に怒鳴られながら銅線を必死に巻いている泥だらけの少年。


誰もがせわしなく手を動かしていて、誰もが自分の仕事で忙しそうで。


──誰も僕を見ていない。


(いい街だ)


誰も僕を知らない街。


耳を見られて「エルフだ」と奇異の目で見られることもなく、「大公家を裏で牛耳る執事だ」とひそひそ囁かれることもない街。


白銀の髪のエルフの子供として、当たり前のように石畳を歩ける場所。


僕は当面の拠点となる宿を探した。


大通りの喧騒から一本裏の路地に入ると、木の看板に菩提樹の葉が丁寧に彫られた、こぢんまりとした宿屋があった。


菩提樹亭。安直な名前だが、外から見える窓の白いカーテンがパリッと糊付けされていて、とても清潔そうだった。執事の目から見て窓の清潔さは宿の質に直結する。


扉を開けるとカウンターの向こうにふくよかな中年の女性が座っていた。


赤く艶の良い頬、太い腕、真っ白なエプロンの紐が背中で綺麗な蝶結びになっている。


「いらっしゃい。あら、随分と可愛らしいお客さんだね。子供? 迷子かい?」


「宿泊をお願いしたいのですが」


「一人で?」


「ええ。一人です」


女将は僕を頭のてっぺんから足の先まで、値踏みするようにじっくりと眺め、それからカウンターに肘をついた。


「名前は?」


「リアンと申します。種族はエルフです」


「エルフの子供が一人で旅ねぇ……あんた、どう見ても訳ありだろう」


「訳のない旅人がいましたら、ぜひ一度お目にかかりたいものです」


女将は一拍おいて、大きな腹を揺らしてワハハと豪快に笑った。


「はっ、見た目は子供のくせに、口の減らない生意気な坊やだね! 気に入ったよ。一泊、朝食付き。夕飯は別料金で銅貨二枚だよ」


「いただきます。手間の少ない部屋で構いません」


僕がカウンターに銀貨を一枚置くと、女将は釣り銭と共に部屋の鍵を渡してくれた。


真鍮の鍵。職人の街らしく細工の凝った、持っているだけで少し嬉しくなるような重たい鍵だった。


案内された部屋は狭かったが、清掃が行き届いていて十分だった。


軋まない木のベッド、小さな書き物机、椅子が一脚。


窓を開けると、外には看板にもなっていた菩提樹の立派な枝が伸びていた。葉はまだ若く、風が吹くと薄緑の波が心地よい音を立てて揺れた。


荷物を置き、革鞄から茶器のセットと茶葉の缶を取り出した。


水差しに入っていた水でさっそくお湯を沸かす。


この街の水は大公領の水よりも少しだけ硬いようだ。水の硬度と、この部屋の僅かな乾燥に合わせて茶葉の量をほんのひとつまみだけ増やし、抽出時間も数秒調整する。


紅茶を淹れた。


カップを口に運び、一口飲んだ。


美味しい。


文句のつけようのない、完璧な一杯だ。


「美味しいですね」


誰にともなく声に出して言ってみた。


美味しい。本当に美味しい。何故か、アヌテルヌムで飲んだものよりも……美味しい。


けれど美味しいね、と……笑って返してくれる人がいない。


その時。


アエテルヌムで会った叔母と名乗るハイエルフの言葉が頭を過ぎった。


『あんまり関わりすぎないことね。心が壊れるから』


笑い方が分からなくなり、泣き方を忘れ、自分が何者か見失い、ただの空っぽの抜け殻になっていくという不治の病。


……まだ大丈夫だ。


僕の淹れる紅茶の温度は正確だし、僕の記憶は完璧だ。


フィレーネの呆れた顔も、負けず嫌いな声も、美味しそうに紅茶を飲む嬉しそうな顔も、全部。


僕の胸の奥に鮮明にある。僕が僕である限り、決して消えたりしない……。


「ふぅ」


カップを置き、窓を大きく開け放った。


リンデンブルクの夕暮れは溶けた黄金のようだった。


職人たちが次々と工房の戸を閉める音、路地を駆け回る子供たちの笑い声、肉を焼く匂い、どこかの安酒場から聞こえてくる陽気なバイオリンの音色。


この巨大な街には僕の全く知らない人間の人生が、それこそ何万とひしめき合って詰まっているのだ。


(明日、この街を隅から隅まで歩いてみよう)


次の誰かに紅茶を淹れる機会が、この街にあるかどうかは分からない。


でも、歩き出さないと何も始まらないことだけは知っている。


夜。


ベッドに横になった。


ハイエルフに睡眠は必要ない。だから僕は毎晩、こうして暗い天井を見上げて夜明けを待つ。この静かな時間は考え事をして記憶を整理するのにちょうどいい。


窓の外からは夜の街の微かなざわめきが聞こえる。


知らない街。知らない匂い。知らない人々。


今の僕は、一人きりだ。


でも、怖いとは思わない。寂しいとも、まだ思わない。


ただ、明日の朝。


「おはよう」と言ってくれる相手が、この世界のどこにもいないことだけが。


少し──ほんの少しだけ、僕の静かな胸の奥で引っかかっていた。

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