第五十八話 叔母と名乗る、壊れたハイエルフ
翌朝。アエテルヌムの朝は静かだった。
心地よい温度の風だけが緑の草原を音もなく渡っていく。完璧に調和された永遠の静寂。
出発の準備を整え、セレネイアの小さな家を訪ねて別れを告げた。
「人間の世界に行っても、気をつけてね」
「うん。ありがとう、セレネイア。葉脈の裏側の観察、頑張って」
「頑張るものじゃないわ。ただ時間をかけて楽しむものよ」
それもそうだ。永遠の時間を生きるハイエルフたちに「頑張る」という概念はないのだ。
「またいつか、美味しい紅茶を淹れに来るよ」
「ええ。待ってるわ」
石のアーチに向かって歩き出した。
美しい草原を横切り、苔むした門まであと少しの距離に迫った、その時だった。
「あれ〜? もう帰っちゃうの?」
ふいに、頭上から声が降ってきた。
見上げると、巨大な樫の木の太い枝の上に誰かが座っていた。
「?」
ハイエルフだ。ただし、セレネイアのような透き通る銀髪ではなく、少し鈍い色をした灰色がかった銀髪。
癖のある長い髪を風に無造作に流し、枝の上で子供のように足をぶらぶらさせている。
見た目は、人間でいうところの二十代半ばの女性。
だが、僕の記憶には全くない顔だった。
アエテルヌムに住むハイエルフの数は決して多くない。銀色の塔に住まう長老格の面々を除いて、大体の顔とマナの波長を知っているはずなのに。
「えーっと……誰?」
「ひどいなあ。可愛い叔母の顔を忘れちゃったの?」
「叔母?」
意味がわからなかった。
ハイエルフという種族に叔母という概念は存在しない。そもそも僕たちは人間のように有性生殖で生まれるわけではない。
世界の根源的なマナが特定の場所に極限まで凝縮し、長い時間をかけて意志と概念が結晶化して個体として発生するのだ。
血縁という仕組み自体が僕たちの種族には全く当てはまらない。
だから父も母も、兄弟も、もちろん叔母もいない。
「ハイエルフには血縁関係は──」
「あーもう、堅いこと言わないでよ。ただの気分の問題なんだから。わたしがあなたの叔母だと思ったら、今日からわたしは叔母なの。何か文句ある?」
「大いにありますけど」
「はい、却下」
彼女は枝の上からひらりと飛び降りた。羽のように軽い着地。
だが、普通のアエテルヌムのハイエルフなら……枝から地面に降りるという行為の哲学的な意味について三時間くらい思索してから、ようやくゆっくりと降りるはずだ。
彼女にはそれがない。まるで人間のように。
「貴女は本当にハイエルフですか?」
「失礼ね。正真正銘、純度百パーセントのハイエルフよ。あなたより先輩のね」
着地した彼女のマナを改めて深く観察した。
……間違いない。マナの質は、ハイエルフそのものだ。
深く、古く、途方もなく濃い。セレネイアよりもずっと濃い。相当な年齢のはずだ。十万年は軽く超えている……。
それとは別に、纏っている雰囲気が他の同胞とはまるで違う。
普通のハイエルフは極めて穏やかで、感情の起伏は凪いだ水面のように一定だ。
しかし彼女は──常に波立っている。
人間の女性のように表情がころころと変わり、瞳の奥に強い光がある。そしてどこか皮肉げな口元。
──僕に似ている。
「わたしの名前はエレイン。まあ、覚えなくていいわよ。どうせすぐ忘れるでしょうし」
「ハイエルフは、一度聞いたことを忘れませんけど」
「あ、そうだった。私たちって記憶力だけは無駄に良いんだったわね。じゃあ、一応覚えといてもいいよ」
エレインと名乗った彼女は僕の顔の前にぬっと顔を近づけ、まじまじと観察した。
値踏みするような、鋭い目。それから、納得したように笑った。
「いい顔してるね、君。たくさん泣いた後の顔だ」
鼓動が早まった。
「……なんで、わかるんですか」
「わかるわよ。わたしも昔、今の君と全く同じ顔をしてた時期があるから」
同じ顔。
圧倒的な年月を生きるハイエルフが。
誰かのために泣いた後の顔を?
「外の世界、楽しかった?」
「……ええ。まあ」
「辛かった?」
「……」
「誰かを看取ったの?」
心臓を冷たい手で直接掴まれたような感覚があった。
ハイエルフらしくない。他者の内面に土足で上がり込むような、人間らしい踏み込み方だ。
「……はい」
「そう」
エレインは視線を外し無造作に草の上に腰を下ろした。
足を投げ出して、だらしない姿勢で空を見上げる。ハイエルフ特有の完璧な優雅さが微塵もない。
「わたしもね、昔、行ったの。外の世界に」
「え?」
「君と同じよ。永遠に続くこのアエテルヌムが退屈で、息が詰まって逃げ出して、人間の世界で暮らしたの」
彼女も僕と同じように。
「最初はね、すっごく楽しかった。人間って本当に面白いのよね。私たちからすれば瞬きみたいな短い命のくせに、いつも全力で生きて、大声で笑って、泣いて、つまらないことで本気で怒って。見てるだけで、全然飽きなかったわ」
わかる。
痛いほどにわかる。
彼らの必死な輝きが、僕たちの停滞した時間をどれほど鮮やかに彩ってくれるか。
「それで仲良くなっちゃうのよ。どうしてもね。だって目の前にいるんだもの。温かくて、不完全で、放っておけなくて……愛おしい人間たちが」
エレインの声のトーンが変わった。
先程までの軽快さの奥底に、底なし沼のような深い何かが沈んでいる。
「看取るの。何度も、何度も。仲良くなった友人を、手塩にかけて育てた教え子を、愛した恋人を、家族みたいに大切だった人を。死ぬのよ、みんな。春が来て夏が来るのと同じくらい、当たり前みたいに、あっさりと死んでいくの……」
彼女は足元の草を一本引き抜き、指先でくるくると回した。
「最初は声を出して泣けたわ。二度目も泣けた。三度目も。百度目も、一応泣けた。でもね──何百回も、何千回もそれを繰り返していると、そのうち泣き方がわからなくなるの」
エレインが草から視線を上げて僕を見た。
──笑っている。
──でも、笑っていない。
声を出して笑っているのに、目の奥が暗い。
「……っ!」
光が完全に死んでいる。
この人は笑っていない。笑っているのに笑っていないのだ。
「泣き方を忘れるとね、今度は笑い方も怪しくなってくるの。自分が今嬉しいのか、悲しいのか、それすら自分でもわからなくなるのよ。感情がぐちゃぐちゃになって、自分が何者なのかもわからなくなる」
回していた草を手放した。草は風に乗って、遠くへ飛んでいった。
「そうなるとね、最終的にこんなふうになっちゃうのよ」
彼女は両手を広げた。僕に誇示するように。
「見ての通り、わたしはちょっとおかしいの。ハイエルフのくせに感情がうるさくて、皮肉ばっかり言うし、落ち着きがないし、長老たちや他の連中と全く話が合わない。……君と、そっくりでしょ?」
そっくりだった。
それはまるで……何万年か先を歩いた、僕自身の未来の姿のようで……。
「だから、叔母なの。血は繋がってないけど、同じ『病気』を持ってる。寿命がある下位生命体に触れすぎた、馬鹿が罹る病。絶対に治らない不治の病よ」
「……叔母じゃなくてもいいのでは? それなら、同じ病の母でも姉でも」
「今日は叔母の気分なのよ」
日によって違うのか……。
不意に彼女が立ち上がった。服についた草を払い、灰銀色の髪をかき上げる。
「君、また外に出るんでしょ」
「はい」
「止めないわ。止めても無駄だって知ってるから。あの熱を知ってしまったら、もうこんな冷たい楽園には戻れないものね」
エレインが僕の横を通り過ぎた。
すれ違いざまに、ぽんと僕の小さな肩を叩かれた。ハイエルフ同士の身体接触。この世界では、異例中の異例だ。
「一つだけ。先輩からの大事な忠告」
「……」
「あんまり下の子たちの世界に深く関わりすぎないことね。心が壊れるから」
数歩進んで足を止め、彼女が振り返った。
笑っていた。
飄々と。
どこまでも軽やかに。
「——わたしみたいにね」
笑顔が一瞬だけ揺れた。ほんの一瞬。
微かな揺らぎ。
でも僕には、はっきりと見えた。同じ喪失の病を持つ者にだけ見える、彼女の心に入った致命的な亀裂が。
エレインは再び背を向け、永遠に変わらない草原の向こうへと歩いていった。
灰銀色の髪が風に揺れている。
「君はどうなるのかな。うまく、やれるといいけど」
風に溶けた小さな後ろ姿は、どこか疲れていた。
途方もない悲しみと疲労の蓄積が、細い肩に重く積もっているのがわかった。
「……」
彼女と別れた後、僕は石のアーチに向き直った。
この門の向こう側に、また人間の世界がある。
「壊れる……か」
エレインの忠告が呪いのように耳の奥に残っている。
何度も何度も喪失を繰り返せば、いつか心が壊れる。感情が麻痺し、狂ってしまう。彼女みたいに。
怖くないと言えば、嘘になる。
永遠を生きる僕が、この先何千回、何万回と死を見送り続ければ、いつか僕の心も摩耗し、耐えきれずに砕け散る日が来るのかもしれない。
でも——壊れてもいいと思った。
僕の記憶の中にフィレーネの笑顔がある限り。
少し生意気な声が、僕の淹れた紅茶を包み込む温かい両手が、僕の中に消えない記憶として完璧に残っている限り。
僕は何度でも、彼女が愛したこの不完全な世界を愛することができる。
首に巻いた青いマフラーを握りしめた。
「行ってきます」
誰にともなく、たった一人の主に向けて呟き、僕は門をくぐった。
光が反転した。空気が変わった。時間の密度が、重力が、一気に変わった。
むせ返るような湿った森の匂い。騒がしい鳥の声。虫の羽音。遠くで川が勢いよく流れる音。
アエテルヌムの完璧な静寂とは対極にある、圧倒的な音と匂いの洪水。
不完全で残酷で、愛おしい世界が再び僕を力強く迎え入れた。
さて。
次は——どこへ行こうか。
誰のために、お湯を沸かそうか。




