第五十七話 永遠の楽園は、やっぱり退屈だった
翌日、僕はアエテルヌムを当てもなく歩いた。
果てしなく続く緑の草原を越え、葉の一枚一枚が銀の光を放つ美しい森を抜け、水面が七色に輝く虹色の湖の畔を巡り、マナの結晶でできた水晶の丘に登った。
どこもかしこも息を呑むほどに美しかった。
すべてが完璧だった。空気は甘く澄み渡り、水は一切の不純物を含まず、見渡す限りの花々は枯れることを知らず永遠に咲き続けている。
そして完璧に退屈だった。
ここは何も成長していない。
種が芽吹き、花を咲かせ、やがて枯れて土に還り、また新しい命へと繋がっていく。そんな当たり前の成長と循環が、この世界には存在しない。
昨日と同じ今日が、そして今日と同じ明日が、ただ無限にコピーされていくだけだ。
激動の時代を駆け抜け、日々変化し成長していく人間の世界にどっぷりと浸かっていたからこそ、永遠の停滞が余計に不気味に感じるのかもしれない。
「……」
虹色の湖の畔を歩いていると、一人のハイエルフが静かな水面を見つめて座っていた。
透き通るような白髪を長く伸ばし、風景の一部のように完全に同化している。
彼は確か……この郷の年長者の一人だ。僕が産まれてからすぐに、一度だけ遠くから顔を見た覚えがある。
アエテルヌムの中心部にある銀色の塔に住まうハイエルフの中でも、特に原初の存在に近い長老議会の一人。
彼が一体何歳なのか、正確な数字は誰も知らない。アルヴァンのような五万歳ですら若手扱いされる狂った世界だ。
もしかしたら百万歳……? いや、もしかしたら一億歳……?
(いやいや、流石にそんなわけがないだろ)
もし億単位の年月、この世界とハイエルフが存在しているのだとしたら……人間界の科学力や文明だってもっと途方もないレベルまで発展しているはずだ。
(待てよ? 前世じゃ文明が始まってからせいぜい五千年~一万年程度だったはず。だとしたら、なぜこの世界は発展していないんだ……?)
……なんだかこれ以上深く考えたら哲学的な沼にはまって出られなくなりそうだから、僕は慌てて思考を打ち切った。
とにかく。
僕は彼ら長老の姿をこれまで殆ど見たことがない。彼らは基本的に銀色の塔の奥深くから出てこないからだ。
一体、何百年ぶりに外へ出てきたのだろうか。
「……」
彼は座ったまま微動だにしない。深い瞑想に入っているようだ。ハイエルフの長老クラスの瞑想は、一度始まると平気で数千年単位で続くことがあるらしい。
邪魔をしては悪いと思い、足音を殺して通り過ぎようとした。
だが、向こうから静かな声をかけてきた。
「リアンか。珍しいな、湖まで来るとは」
目を閉じたままの長老の声は、湖の底から響くように重かった。
どちらかと言うと珍しいのは貴方だと思うのだが……。
「ただの散歩です」
「散歩、か。お前の纏うマナは随分と騒がしい。……散歩と言えば、外の世界はどうだった」
噂が回っているらしい。アエテルヌムの情報伝達は呆れるほど遅いが、ゼロではない。
「騒がしくて、汚くて、不便で、面倒くさかったです」
「それは災難だったな」
「でも……楽しかった」
ぴたり、と長老を取り巻いていたマナの動きが止まった。
そして、彼はゆっくりと目を開け……初めてこちらを見た。
深い星空のような瞳の奥に、微かな好奇心が灯っている。
好奇心。
すべてを知り尽くした長老クラスのハイエルフとしては、極めて珍しい感情だ。
「楽しい、か。久しく聞かない言葉だ。この完璧な世界には、それを生み出す欠落も変化も存在しないからな」
「ここでは、一生使う場面がない言葉でしょうからね」
「違いない」
長老はわずかに口角を上げると、またすぐにゆっくりと目を閉じ、深い瞑想の世界へと戻っていった。
会話終了。
ハイエルフらしい合理的で無駄のない切り上げ方だ。
長老と別れ、水晶の丘の上に登って茶を淹れた。
持参した茶葉とアエテルヌムの純粋な清水で淹れた、完璧な一杯。
完璧で味気ない一杯。
冷めない紅茶をゆっくりと飲みながら、考えた。
ここにいれば永遠に安全だ。
病に冒されることも、老いに苦しむことも、愛する者を失う悲しみも、二度と会えない別れもない。
時間は透明な水のように静かに流れ、何も変わらず、何も失わない。
──でも、そんなものが『幸福』であるはずがない。
「次は……彼女の家を訪ねてみようか」
丘を下り、セレネイアの家を訪ねた。
白い石と美しい蔦で覆われた、こぢんまりとした小さな家。
中に入るとセレネイアは机の上に昨日と同じ楕円形の葉っぱを広げて、魔法で作った虫眼鏡のような道具で熱心に覗き込んでいた。
「リアン。珍しいわね。遊びに来たの?」
「うん。紅茶を淹れに来たんだ」
「あら……ありがとう」
彼女の家の厨房を借りて水を汲み、湯を沸かし、持参した茶葉で紅茶を淹れる。二人分。
向かい合って座り、セレネイアがカップを手に取って一口飲んだ。
その瞬間、彼女は目を丸くした。
「これ、何?」
「紅茶だけど」
「そんなことは知ってるわ。でも何かしら、この味。今まで何万年も生きてきて、飲んだどのお茶とも違う」
「人間の世界の茶葉だよ。アエテルヌムの水で淹れたから、ポテンシャルは極限まで引き出されてるはずだけど」
「そうじゃなくて。茶葉や水の問題じゃないわ」
セレネイアがカップの縁を指でなぞりながら僕をじっと見た。
「淹れ方が丁寧で優しすぎるのよ。ただ喉を潤すためのお茶じゃない。私じゃない、別の誰か……特別に愛おしい相手に飲ませるために淹れたような、そんな味がする」
的確だった。伊達に三万年も生きていない。鋭い感性には恐れ入る。
「当たり。とある人の為に、ずっと淹れてたんだ」
「へえ。どんな人?」
「優しい人。でも口うるさくて、負けず嫌いで、強がりで……でも──」
言葉が止まった。
セレネイアが真剣な顔で僕を見ていた。すべてを見透かすような目。
「泣いてるわよ、リアン」
「……泣いてない」
「泣いてる」
自分の頬に手を当てた。
冷たく濡れていた。声も出さずに、いつの間にか涙がこぼれ落ちていた。
「ごめん」
「謝ることじゃないわ」
セレネイアが僕の淹れた紅茶をもう一口飲んだ。
「美味しいわね。本当に、この紅茶」
「ありがとう」
「でも、少し寂しい味がするわ」
否定できなかった。
「リアン。あなた……もう、ここにはいられないでしょう」
完全に見抜かれていた。
セレネイアは千年も生きていない若造の僕の心など、葉脈の裏側より簡単に読めるのだろう。
「外の世界に、置いてきたものがあるのね」
「置いてきたんじゃなくて、失くしたんだ」
「失くした?」
「うん。大切な人が死んじゃった」
ハイエルフにとって、死は遠い概念だ。不老不死の種族には死が存在しない。
セレネイアが最後に他者の死を明確に認識したのは、一体いつだろう。数万年前か。それとも、これまでの人生で一度も認識したことがないのだろうか。
「そう。それで、悲しいのね」
「……悲しい。すごく。胸が張り裂けそうなくらい」
「悲しいのに、また外に行きたいの?」
「……うん」
「また誰かに出会っても、いつか必ず失くすかもしれないのに?」
「うん」
「どうして?」
どうして。
その答えはずっと前に知っている。僕のたった一人の主人が、人生をもって教えてくれたから。
「失くすのが怖いからって、離れるのは──もっと嫌だから」
セレネイアが笑った。
僕が知る限り、彼女の初めて見る笑い方だった。
驚いたように、感心したように、そしてほんの少しだけ、羨ましそうに。
「あなた、変わったわね。出かける前とはまるで別人みたい」
「……変わったかな」
「変わったわ。前のあなたは、退屈だ退屈だって文句ばかり言って、いつも死んだような目をしてた。でも、今のあなたは……悲しそうに泣いているけれど、ちゃんと生きてる顔をしてる」
生きてる顔。不老不死のハイエルフに向かって生きてる顔とは、なんという皮肉だろうか。
「人間の世界でもらったのね。その素敵な顔」
「……かもしれないね」
セレネイアがカップの紅茶を最後の一滴まで飲み干した。
「行ってらっしゃい、リアン。あなたの居場所は、もうここじゃないわ」
フィレーネと同じことを言う。シャルロッテと同じことを言う。
みんなして、僕の背中を押して外の世界へ送り出そうとする。
「ありがとう、セレネイア」
「お礼を言うようなことじゃないわ。……それより、もう一杯淹れてくれない? この紅茶、本当に美味しいから」
「──かしこまりました」
その言葉が自然に口から出た。
執事としての言葉。何十年も使い続けた、僕の誇り高き言葉。
湯を沸かし直した。二杯目の紅茶を丁寧に淹れながら、窓の外を見た。
アエテルヌムの空。永遠に同じ色の、変わらない空。
明日、ここを出よう。
人間の世界に戻ろう。
不完全で騒がしくて、あっという間に壊れてしまう、あの愛おしい世界に。
次に外の世界で誰に出会うかは、まだわからない。
また没落貴族のお嬢様かもしれない。商家の子供かもしれない。戦場を彷徨う孤児かもしれない。
わからない。
でも、紅茶を淹れよう。最高の一杯を。次の誰かのために。
僕は歩き続ける。
君が残してくれたこの心で、この世界を愛しながら。
──それでいいんだよね、フィレーネ。




