第五十六話 ただいまは短かった
アエテルヌムの果てしない草原を十分ほど歩くと、最初の同胞に出会った。
「あら」
セレネイアだった。
腰まである美しい銀糸の髪を柔らかな風に流し、草原の真ん中にしゃがみ込んで足元の何かを熱心に見つめている。
三万歳を優に超える長寿のハイエルフだが、見た目は人間でいうところの二十代前半の瑞々しい女性にしか見えない。
「リアン。おかえり」
彼女は振り返りもしなかった。足音も立てていないのにマナの微細な揺らぎと気配だけで僕だとわかったらしい。
ハイエルフ同士ではごく当たり前のことなのだが、人間の世界の「目で見て、言葉を交わして相手を認識する」という不器用な習慣にすっかり馴染んでしまった今の僕には、超常的な感覚が新鮮に感じられた。
「ただいま。何を見ているの?」
「葉脈よ」
やっぱりか。
隣にしゃがんで覗き込むと、セレネイアの真っ白な手のひらに一枚の小さな葉が載っていた。深い緑色をした、ありふれた楕円形の葉だ。
「前に見せてくれたのと同じ葉?」
「そうよ。あの時あなたに見せたのは、表側の観察だったの。今は裏側。裏の葉脈の分岐パターンには、表とは根本的に異なる美しい法則性があってね……」
彼女が法則性のすべてを解明するまでに、あと七百年くらいかかるのだろうか。
人間からすれば気の遠くなるような話だが、無限の時間を生きるセレネイアにとっては明日の天気を予想する程度のささやかな趣味の一環に過ぎない。
セレネイアは再び葉っぱに視線を落とした。外界のすべてを遮断するような素晴らしい集中力である。真似したくはないけれど。
かつての僕には、彼女のこの時間の使い方が全く理解できなかった。
だが今は──ほんの少しだけ、わかる気がする。
たった一つのものをずっと見続けること。微細な変化を何一つ見逃さないこと。
それはフィレーネの雪のような白髪が一本ずつ増えていくのを、皺が一つずつ刻まれていくのを……ずっと見続けたのと同じことだから。
「セレネイア」
「なに?」
「ベンチの件。どうなったの?」
「ああ、あれね。まだ議論中よ。アルヴァンが基礎にする石材の産地とマナの含有量にこだわり始めてね」
議論がまだ続いているなんて。いや、ハイエルフの感覚からすれば、むしろ石材の産地まで話が進展した方だと褒めるべきか?
産地の話まで来たということは、数十年かけてベンチを作ること自体には合意されたのだ。あと千年もすれば立派なベンチが完成するだろう。
……するよね?
「そうなんだ。じゃあ、頑張って」
僕は短く返し、アエテルヌムの中心部にある銀色の塔に向かって歩き出した。
ハイエルフたちが暮らす静かな集落。
集落と言っても人間の騒がしい街とは全く違う。純白の石で造られた芸術品のような建物が広大な緑の中に疎らに点在し、隙間を完璧に手入れされた芝生と一年中咲き誇る花畑が埋め尽くしている。
ここには道という概念がほぼない。ハイエルフは好きな場所を好きなように歩く。誰も急いでいないし、急ぐ理由も永遠にないから最短距離を繋ぐための道をわざわざ整備する必要がないのだ。
塔の麓の広場に数人のハイエルフが集まっていた。
あの場所は確か、よく円卓を囲んで永遠と議論を交わすハイエルフたちがいたような……。
だが、そこにあったはずの巨大な円卓が影も形もなくなっていた。
「あれ、立派な円卓は?」
「撤去されたわ。テーブルの材質の経年劣化について異論が出て、意見がまとまるまで一旦消したの」
いつの間にかセレネイアが僕の隣を歩いていた。手にはまだ小さな葉っぱを持ったままだ。
「いつの話?」
「四十七年前よ。ついこの間のことね」
流石はハイエルフだ。記憶力が良すぎる。四十七年前のことを昨日のように語る。まったく意味のない記憶力だが。
「あ。葉脈の分岐についての、新しい概念が分かったかも。じゃあね、リアン」
不意にそんなことを言い残し、彼女は風のようにどこかへ行ってしまった。
風に吹かれる一枚の葉っぱみたいに気まぐれで、不安定で美しいハイエルフだ。
「……」
一人になり、広場の中心を見る。
そこでは、アルヴァンが数人の同胞に向けて何かを高尚な様子で語っていた。
長身で透き通るような金髪を持ったハイエルフの青年。
推定年齢、五万歳。
永遠の議論の進行役を務めるのが大好きな、この集落ではまだまだ若手の部類に入る青年だ。
「おや、リアンじゃないか」
アルヴァンが僕の視線に気付き、優雅な足取りで近づいてきた。その顔には一切の苦労を知らない穏やかな微笑みが張り付いている。
「外界への散歩は楽しかったかい」
僕が人間界に出ていったことを、彼は単なる長い散歩程度にしか思っていないのだ。
でも、なんで知ってるんだろう?
まぁ、セレネイアから聞いたのかもしれないし、マナの揺らぎで察知したのかもしれない。
「ええ。まあ、それなりに」
「それはよかった。ところで今、僕たちはこの郷の泉の水源についての新しい考察をしているんだけど、君も何か意見はあるかい?」
「泉の水源……? ベンチの議題はどうなったの?」
「あぁ、あれは中断しているよ。また三百年くらいしたら再開する予定だから、焦る必要はないさ」
中断してたのかよ……。これはベンチ完成までに五千年はかかりそうだ。
ていうか、何万年もここにある泉の水源についての考察って今更なんだろうか。
「あぁ、意見は急がなくていいよ。君も長旅で疲れているだろうから、千年くらいかけてゆっくり考えてくれればいい」
「はぁ」
千年。
たった一つの考察のために、千年。
フィレーネの濃密で激動だった人生の……一体何回分なんだ。
胸の奥が冷たい針で刺されたようにちくりと痛んだ。
「……考えておくよ」
「うん。頼むよ、リアン」
アルヴァンは満足げに深く頷いて、再び泉の話に戻っていった。
僕は広場を離れ、かつて自分が途方もない時間を過ごしていた場所に向かった。
巨大な大樹のうろの中に作った、僕の小さな部屋。
何一つ、変わっていなかった。木の扉の前に、少しだけ柔らかい苔が生えているくらいだ。
中に入った。完璧な木工魔術で作られた寝台と、机と、椅子。大公邸の自室と同じくらい見事なまでに何もない空間。
ハイエルフは基本的に物を持たない。時間が無限にあると物質に執着する理由そのものがなくなるのだ。
いつか朽ちるものを愛することは、永遠を生きる者にとって無意味だから。
窓を開けた。アエテルヌムの心地よい風が入ってくる。
暑くもなく寒くもない、穏やかな温度。完璧に調和された、不純物のない澄み切った空気。不快なものが、この世界には何一つない。
完璧だ。
完璧すぎて——息が詰まりそうだった。
人間の世界の風を思い出す。
市場の汗と香辛料が混ざったような騒がしい喧騒。
大公邸の厨房から漂うギュンターの作るシチューの匂いと煙。
冬の朝の、肺が凍りそうになる刺すような冷気。
春を告げる雪解けの泥の匂い。
不完全で雑多で、うるさくて汚くて……どうしようもなく温かかった風。
鞄を開けた。
大切に持ち帰ってきた最高級の茶葉の缶を取り出す。それから長年愛用してきた紅茶の道具一式。
湯を沸かそう。
ここにはアエテルヌムの清水がある。世界で最も純粋で一切の不純物を含まない奇跡の水。茶葉の本来の味を完璧に引き出すには、これ以上の環境はない。
小さな竈に火を入れた。清水を汲んだ。完璧な温度に沸かした。茶葉を1グラムの狂いもなく量った。秒単位で正確に蒸らした。
大公邸から持ち帰ったカップに黄金色の紅茶を注いだ。
部屋の椅子に座り、一口飲んだ。
美味い。
当然だ。水が最高品質で、空気も温度も湿度も、すべてが完璧に制御された魔法の空間なのだ。
茶葉の良さが余すところなく引き出された、理論上、世界で最も美味しく、最も美しい最高の一杯。
でも……最高のはずなのに、何かが決定的に足りない。
「……」
わかっている。
何が足りないかなんて……痛いほどわかっている。
僕が淹れた完璧な紅茶を飲んで「美味しい」と笑ってくれる声が足りないのだ……。
「今日の紅茶、少し渋くない?」と文句を言いながらも、最後まで飲み干してくれる主人の姿がここにはないのだ。
窓の外を見た。
アエテルヌムの美しい緑の草原が空の果てまで永遠に広がっている。
僕はここにいられるだろうか。
また百年。千年。一万年。この変わらない楽園で。
葉脈の裏側を観察し、石材の産地にこだわり、存在しないベンチの議論に参加し、泉の水源について千年かけて考え続ける永遠の生。
「無理だなぁ……」
ぽつりと、呟いた。
独り言が増えた。完璧なハイエルフにはあり得ない不完全な人間の癖だ。
でも僕は誰かに聞いてほしいのだ。声に出した言葉を。
「美味しい」でも「不味い」でも「うるさい」でもいい。
僕の行動に対して反応が返ってくる世界にいたいのだ。僕が生きていることを実感できる世界に。
冷めかけた最高級の紅茶を一息に飲み干した。
明日、少しだけ……この変わらない世界を歩いてみよう。
久方ぶりに帰ってきた故郷を、ちゃんと自分の目で見てみよう。
それから、決めよう。
次にどこへ行くのか。僕の淹れる紅茶を必要としてくれる、次の誰かを探しに。
フィレーネの最後の命令は、まだ果たしていない。
——幸せになりなさい。わたしがいなくなっても。
鞄の中から青いマフラーを取り出し、優しく手を触れた。
彼女が編んでくれた、編み目の不揃いな世界で一番温かいマフラー。
「難しい命令だよ、フィレーネ……」
窓の外でアエテルヌムの残酷なまでの永遠が、音もなく流れていた。




