第五十五話 始まりの場所で、一杯だけ
大公邸を出る日の朝は拍子抜けするほどあっけなかった。
荷物は少なかった。
小さな革鞄が一つだけ。中に入っているのは、簡素な着替えが二着と、フィレーネが編んでくれた編み目の不揃いな青いマフラー。
それから長年愛用してきた紅茶の道具一式と、最高級の茶葉を詰めた缶。
たったそれだけ。
長い間、広大な大公邸で筆頭執事として過ごしてきたというのに。僕がこの家から持ち出す物理的なものはこれしかない。
元よりハイエルフの物欲の薄さもあるが……本当に大切なものは、どんなに大きな鞄を用意しても決して入りきらないのだ。
あの日一緒に星を見た窓辺の冷たさ。領地を救った日の彼女の笑顔。紅茶を飲んだ時の彼女の息遣い。
そのすべては僕の頭の中に、永遠に消えることのない極彩色の記憶として完璧なまま保存されている。
それ以上の荷物など必要なかった。
玄関に出ると、大勢の使用人たちがずらりと並んでいた。
見送りだ。僕が頼んだわけではない。ハインリヒの後を立派に継いだ執事のクラウスが、僕に内緒で勝手に手配したらしい。
「リアン殿。本当に……長い間、お世話になりました。あなたがいなければ、今の我々はありませんでした」
「いえ……お世話をされたのは僕の方です。頼りない執事長で苦労をかけましたね」
「そんなことはありません! 我々は皆、あなたから多くのことを……言葉では言い尽くせないほど多くのことを、学ばせていただきました」
堪えきれなくなった何人かの若いメイドや従者が、声を上げて泣いていた。
僕がフィレーネ様と共にこの大公邸に初めて足を踏み入れたあの日、ずらりと並んで出迎えてくれた昔の使用人たちは一人も残っていない。
ハインリヒも、ギュンターも、ミーナも、皆それぞれの人生を全うし、静かにこの世を去っていった。
今ここに並んでいるのは、すべて彼らの後にこの屋敷に入ってきた者たちだ。
僕が雑巾の掛け方から教え、仕事の厳しさを叩き込み、時には夜遅くまで恋の悩みや家族の相談に乗ってきた後輩であり、大切な教え子たちだ。
厨房でいつも鍋を焦がしては泣いていたマリア。庭の草むしりをサボってばかりいたトーマス。
僕は彼ら全員の名前を、その親の顔を、不器用だった新人の頃の姿を、そして立派な大人へと成長していく美しい過程を全部知っている。
血は繋がっていなくとも……彼らもまた、僕にとっては手のかかる可愛い子供のような存在だった。
でも、そんなに泣かなくていい。
僕は長生きな執事に過ぎないのだから。
ユリウスが、わざわざ正装で門まで送ってくれた。
「リアン殿」
「はい」
「いつでも……本当にいつでも、帰ってきてください。この大公家はあなたの家です」
「ありがとうございます。ユリウス様」
最後に固い握手を交わした。
ユリウスの手はごつごつとしていて大きくてとても温かかった。アレクシスによく似た手だった。
頼もしい温もりに、僕は彼がもう立派な一人の男であることを改めて確信し、密かに安堵した。
シャルロッテは姿を見せなかった。
実は昨夜のうちに、二人きりでの別れは済ませてある。「見送りなんて絶対に行かないわ。ひどい顔で泣くところを見られたくないから」と彼女らしく強がっていた。
門をくぐった。
振り返らなかった。振り返って彼らの顔を見てしまえば、そこで足が止まってしまうような気がしたからだ。
それは僕たちにとっても、フィレーネにとっても望む結末ではない。
街を抜け、広大な草原を歩く。
丘陵地帯に入る。暖かな春の野原を風を切って歩いた。足取りは驚くほど軽い。
この身体は肉体的な疲労を一切知らない。ただ前に進むことだけを考えれば、どこまででも歩いていける。
そうして──休むことなく歩き続けること、数日。
見慣れたなだらかな丘の頂上にたどり着いた。
クラウティアの旧屋敷。
錆びの落ちた鉄の門に、そっと手を触れた。朝の空気を吸った鉄柵は、ひんやりと冷たかった。
鍵は持っている。ユリウスから「あなたの家です」と大公家の正式な証書と共に渡されたものだ。
僕の家。いや、僕とフィレーネの家。
人間界でできた初めての僕の居場所。
この言葉の重さを、僕の心はまだ完全には受け止めきれていなかった。
鍵を開け、重い門を押して庭に入った。
むせ返るような香りがした。ラベンダーが咲いていた。
小さな紫の花が、春の風に吹かれて波のように揺れている。あの日見つけた最初のたった一株から、一体何十年経っているのだろう。
世代を重ね、種を飛ばし、今や庭の半分を埋め尽くすほどの見事な群生に広がっていた。
綺麗に手入れされた石畳の小径を歩いた。大公家の使用人が管理してくれていたおかげで、雑草は一本もない。壁の漆喰は白く保たれ、屋根の瓦は整い、窓ガラスは澄み切っている。
でも、決定的に人の気配がない。
十二歳の彼女が息を潜めて震えていたあの頃とは……空気が全く違っていた。
玄関の扉を開けた。
微かな埃の匂いが鼻を突いた。どれだけ外観が管理されていても、長年人が住んで息をしていない家には特有の寂しい匂いが染み付くものだ。
薄暗い廊下を歩いた。そして、かつての書斎へ。
机の引き出しを開けると、そこには古い革張りの帳簿が大切に保管されていた。
フィレーネが大公邸に持っていった思い出の帳簿とは別の……ここで勉強に使っていたものだ。
僕の几帳面な字で書かれた収支計算の例題と、フィレーネの幼く震える字で書かれた練習問題。
懐かしさに駆られ、パラパラとページをめくった。
『合格。明日から応用に入る』
当時の僕が赤インクで書いた、素っ気ない書き込み。
だが、そのすぐ横に。かつては無かったはずの小さな文字が書き足されていた。
『やった!』
それは、明らかに大人になってからのフィレーネの丸みを帯びた筆跡だった。
知らなかった。一体いつ書いたのだろう。大公邸に移ってから、何かの折にこの屋敷に戻ってきた時だろうか。
「やったね。フィレーネ……」
インクの色褪せた文字を指でそっと撫でると、乾ききっていたはずの涙が視界を滲ませた。
帳簿を閉じ、深く息を吐いて台所に向かった。
竈は長年使われていないが、綺麗に掃除されている。棚の位置は、あの日僕が片付けた時から変わっていない。同じ場所に黒ずんだ鍋が並んでいる。
外に出て水を汲んだ。地下水脈に通じる井戸は、まだ死んではいなかった。
竈に薪をくべ、火を起こした。マナは使わない。わざわざ古い火打ち石を使って火花を飛ばす。
時間がかかったが全く構わなかった。
今日の僕には魔術を使って急ぐ理由がどこにもない。むしろ、この不便な時間をゆっくりと愛おしみたかった。
湯が沸いた。鞄から茶葉の缶を取り出し、正確に量る。
カップは——棚の一番奥に、ぽつんと一つだけ残っていた。フィレーネが昔使っていたカップだ。
大公邸に持っていくのを忘れたのか、あえて残したのか。
持ち上げた。軽い。陶器の欠けた縁を、親指で愛おしくなぞった。
ここから始まったのだ。僕たちの途方もない時間が。全部。
沸いた湯を注いだ。蓋をして蒸らした。カップに移した。
台所の小さなガタつくテーブルに座った。向かいの椅子は空っぽだ。
淹れたての紅茶を一口飲んだ。
不味い。
当然だ。急ごしらえの環境に、長年使われていなかった井戸水。茶葉の鮮度こそ最高級だが、大公邸の完璧に調整された一杯とは比べ物にならない。僕の味覚からすれば落第点だ。
でも——温かい。
「フィレーネ」
誰もいない、埃の匂いのする台所で。
たった一人で、彼女の名前を呼んだ。
「行ってきます」
不完全な紅茶を最後の一滴まで飲み干した。
カップを丁寧に洗った。布で拭き、元の棚の奥にそっと戻した。
屋敷を出て、重い玄関の扉を閉めた。
丘を下る前、振り返って……一度だけ屋敷の全景を見た。
小さな家だった。
フィレーネがいつか言っていた通り。世界の広さを知った今ならわかる。
本当に小さな、僕たちの始まりの箱庭だった。
そうして鬱蒼とした森の深部へと入っていく。
木漏れ日が湿った地面にまだらな影を落としている。名も知らぬ鳥が鳴いている。小さな獣の気配。虫の羽音。風が葉を揺らす音。
何十年も前、ここに来た時のことを思い出す。
アエテルヌムの門から人間界に初めて足を踏み出した時、僕はその音と匂いの圧倒的な洪水に戸惑った。
でも今は静かに感じる。
人間の世界の怒りや悲しみや喜びが入り混じった……愛おしい喧騒に慣れてしまった僕の耳には、森の自然の音は穏やかすぎた。
歩きながら考えた。
これから、どうする。
フィレーネの最後の命令は「幸せになりなさい」。
シャルロッテの言葉は「次の誰かの紅茶を淹れに行きなさい」。
次の誰か。僕の淹れる紅茶を待っている誰か。
それを探す、当てのない旅に出るのだろう。
だが、その前に。
森の最奥に、苔むした巨大な石のアーチがある。時忘れの郷への門。
──アエテルヌム。
僕が生まれ、途方もない時間を無為に過ごし、そしてついに逃げ出した場所。
帰りたいのかと自分自身に問うてみた。答えはわからない。郷愁のようなものとは少し違う。
ただ……人間界で生きる前に、一度だけ立ち寄りたいと思った。
人間の世界で一人の女性の生涯に寄り添い、人間一人分の人生の重さを痛いほど味わった自分が。
今、永遠の楽園を今どう感じるのか。それを確かめておきたかったのだ。
昼寝から目覚めた時に挨拶した同郷のセレネイアは、まだ飽きもせず同じ葉脈の観察を続けているだろうか。悩んでいたベンチのデザインは決まっただろうか。
たぶん、どちらもまだだ。あそこでは僕が不在だった数十年など、文字通り一日にも満たない瞬きのような時間なのだから。
森がさらに深くなった。木々の種類が古代のものへと変わる。空気の密度が明らかに変わる。
大気中のマナの濃度が肌がピリピリするほどに跳ね上がっている。
近い。
やがて見えた。
深い緑に沈む、苔むした巨大な石のアーチ。太い蔦に何重にも覆われた古い門。その向こう側に世界そのものが歪むような淡い光が揺らめいている。
絶対的なマナを持つハイエルフという存在にしか感知できず、起動することもできない次元の境界線。
門の前で足を止めた。
鞄の持ち手を握り直した。
「久しぶりだ」
門の石柱に手を触れた。石は氷のように冷たかった。
僕の魔術に呼応し、莫大なマナが指先を通じて流れ込んでくる。
懐かしい感覚。故郷の、純粋で圧倒的なマナ。
一歩、踏み出した。
強烈な光が僕の視界を包み込んだ。
空気が変わった。時間の密度が、重力が、世界の理が一瞬にして反転した。
ゆっくりと目を開けると──どこまでも蒼く澄み切った空と、無数の美しい巻雲と、地平線の彼方まで続く果てしない緑の草原が広がっていた。
「……」
アエテルヌム。時忘れの郷。
見渡す限り、何も変わっていなかった。
当たり前だ。ここは永遠の楽園なのだから。
柔らかな風が草原を渡る。甘く、陶酔するような花の香り。遥か遠くに世界を支えるような世界樹の巨大なシルエットが見える。
何も変わらない世界。
死も、老いも、別れも存在しない──永遠の停滞。
でも、僕は。
僕だけは確かに変わったのだ。
「さて。とりあえず、挨拶でもするか」
誰に言うでもなく呟き、永遠の草原を歩き出した。
鞄の中に入れた茶葉の缶が一歩踏み出すたびに小さな音を鳴らしていた。




