第五十四話 行きなさい、リアン
フィレーネが逝ってから一年が過ぎた。
僕は大公邸の離れにいた。
まだ、ここに。
日課は、あの日から何一つ変わらなかった。
朝、決まった時間に起きる。誰もいない離れの掃除を完璧にこなす。庭に出て、ラベンダーに水をやり、彼女が愛した薔薇の剪定をする。
それから本邸へ向かい、当主となったユリウスの執務を補佐する。
そして夕方、静まり返った離れに戻り、紅茶を淹れる。
彼女の分の紅茶を。
誰に頼まれたわけでもない。ただ、何十年も続けてきた習慣が骨の髄まで染みついていて……手が勝手に動くのだ。
最高級の茶葉の缶を開ける。湯を沸かす。茶葉を正確に量る。温度を合わせ、完璧な時間だけ蒸らし、カップに注ぐ。
──誰もいない空間で紅茶を注ぐ行為に、果たして何の意味があるのだろうか。
たぶん、ない。何の意味もない。
ないのに、やめられなかった。
やめてしまったら、僕の中にあるフィレーネとの時間が……本当に完全に終わってしまうような気がして。
「リアン殿」
ある日、本邸の執務室で書類を整理しているとユリウスが静かに声をかけてきた。
「来月、母上の一周忌の法要がある。その準備をお願いしたい」
「かしこまりました。滞りなく手配いたします」
「それから……一周忌が終わった後、少しだけ僕たちに時間をいただけるか」
「僕たち、ですか?何の件でしょう」
「……後日、改めて話します」
含みのある言い方だった。ユリウスがこういう話し方をする時は、彼の中に必ず絶対に譲れない重要な案件がある時だ。
長く厳しい政務で鍛え上げられた、油断ならない駆け引きの癖。誰に似たのかと言えば、間違いなく母親であるフィレーネだ。
一周忌の法要は大公邸の礼拝堂で静かに執り行われた。
領内の貴族たちを呼ぶ大規模なものではなく、純粋な家族だけの小さな式だった。
ユリウス一家、シャルロッテとレオンハルト、カイル一家。
祭壇の中央にはフィレーネの立派な肖像画が置かれていた。
三十代の頃に描かれたもので、亜麻色の髪を隙なく結い上げ、知性的な灰青色の目で真っ直ぐ前を見据えている。
だが僕は、この肖像画の裏側を知っている。
この立派な絵を描かせている何時間もの間、彼女は画家の見えないところで僕に向かって「ずっとじっとしてるの、すっごく疲れるんだけど」「あと何分で終わるの」と、五回も口を尖らせてぼやいていたことを。
式の後。
約束通り、ユリウスの執務室に呼ばれた。
ノックをして入ると、ユリウスの他にシャルロッテが既に待っていた。窓際の客用の椅子に静かに座っている。
彼女の美しい髪にも随分と白いものが増えた。
二人が揃っている。これは——大公家の政務の話ではない。純粋な家族の話だ。
「座ってくれ、リアン殿」
「僕は一介の執事ですので、立ったままで——」
「座って」
シャルロッテがピシャリと言った。有無を言わせない強い声。
怒った時のフィレーネにそっくりだった。
僕は抗うのをやめ、向かいにある椅子に座った。
ユリウスが真っ直ぐに僕を見て口を開いた。
「リアン殿。単刀直入に申し上げる」
「はい」
「この家を出ていただきたい」
執務室の空気が完全に止まった。
「解雇、ということですか。僕の働きに何か不手際が」
「違います。解雇ではありません」
ユリウスが強く首を振った。
「母上の最後の命令を、果たしていただきたいのです」
最後の命令。
——幸せになりなさい。わたしがいなくなっても。
春の庭で、彼女が残した言葉が脳裏に蘇る。
「リアン殿。あなたはこの一年間、毎日欠かさず、母上の為に紅茶を入れているそうですね」
「……」
「使用人たちが心配しています。無論、僕も。姉上も……」
シャルロッテが、立ち上がって僕のそばに歩み寄った。
「リアン。あなた、お母様が死んでから、一度も笑ってないでしょ」
「笑って……いない?」
「ええ、一度も。この丸一年、ただの一度も心から笑ってない。わたし、毎月あの離れに通ってあなたを見てるからわかるのよ」
言われて初めて気付いた。
笑った記憶がない。来客の応対や、孫たちに向けた業務上の完璧な微笑みを作ることはあった。
でも、それは心からの笑顔ではない。僕の感情は、あの日から完全に凍りついたままだった。
「あなたは、もうここにいちゃ駄目なのよ」
シャルロッテの声が小さく揺れた。怒っているのではない。泣きそうなのだ。
「お母様の匂いがいっぱい残ってる場所に、ずっと閉じこもっていたら——あなたは永遠に、あの春の庭で止まったままよ。あなたがここで時を止めてしまったら、お母様が悲しむわ」
「僕は、大公家の執事です。この家を離れる理由が——」
「理由なら、あるのです……」
ユリウスが引き出しから一枚の紙を取り出し、僕の前に静かに差し出した。
それはフィレーネの字だった。
力が弱り震えた筆跡。亡くなる直前、最後の数ヶ月の間に書かれたものだろう。
『ユリウスへ。
わたしが死んだら、少し時間を置いて、リアンくんを外の世界に送り出してあげて。
あの子は優しすぎるから、自分からは絶対に動けない。
お母さんの最後のお願い。一生に一度の、最大の我儘です』
紙に落ちたインクの文字が所々滲んでいた。水滴の跡だ。
書きながら泣いていたのだ。この人は。
残していく僕の孤独を想って、泣きながらこれを書いたのだ。
「母上はわかっていたのです。あなたが、自分からは決してこの大公家を離れられないことを。だから残された僕たちに託した」
手が震えた。
フィレーネの字。見慣れた、大好きな字。
子供の頃に、冷たい屋敷の書斎で必死に帳簿に書き込んでいた字と、筆の癖が少しも変わっていない。
「……本当は、お引き留めしたい」
ユリウスがぽつりと声を落とした。大公としての重厚な響きではなく、心細げな声だった。
「リアン殿。あなたは僕にとって、すべてを教え導いてくれた偉大な師であり、幼い頃から共に駆け回ってくれた兄であり……そして、何よりも敬愛する父のような存在でした」
ユリウスが膝の上で拳を握りしめた。
「できることなら、僕の命が尽きるその日まで、ずっとこの大公家で、僕のそばにいてほしい。母上がそうであったように、僕の最期も、あなたの淹れる紅茶で見送ってほしい。……それが僕の偽らざる本音です」
僕は小さく息を呑んだ。
目の前に座る、白髪交じりの厳めしい壮年の大公の姿に、かつて無邪気に僕の袖を引いてきた幼い少年の姿が重なった。
どれだけ背丈が伸びようと、顔に深い皺が刻まれようと──そんなものは関係ない。
僕にとって彼はいつまで経っても愛すべき子であり、可愛いユリウスのままだ。
「ですが母上の……いいえ、一人の女性の人生を最後まで見届け、すべてを捧げ尽くしてくれたあなたを、これ以上この大公邸という籠に縛り付ける権利は誰にもありません」
ユリウスがゆっくりと立ち上がった。
僕を見下ろす真っ直ぐな目。大公の威圧感ではない。それはフィレーネと同じ、美しく気高い灰青色の目だった。
「ヴァルシュタイン大公家当主として命じます。——本日をもって、リアン殿を、当家筆頭執事の任から解く」
「ユリウス様——」
「ただし」
ユリウスの声が震えた。
「この家の門は、いつでも……いつまでも開いています。あなたが旅に疲れ、戻りたくなった時、いつでも帰ってきてください。十年後でも、百年後でも、千年後でも。ヴァルシュタイン家は、代々必ずあなたを最高の賓客として迎えます。クラウティアの旧屋敷も、永久にあなたのものです」
「それは……」
「母上の遺言であり、僕の意思であり、この家の絶対の総意です」
シャルロッテが僕の前に来て、静かにしゃがみ込んだ。目線を真っ直ぐに合わせるために。
「リアン」
「……はい」
「行きなさい」
フィレーネと同じ目が、至近距離で真っ直ぐに僕を見ていた。
「お母様のための紅茶を淹れ続けるのは、もうおしまい。次の誰かのための紅茶を淹れに行きなさい。お母様が、そう言ってたでしょ」
——あなたの紅茶は、一人で飲むには勿体ないから。
彼女の声が耳の奥で鮮やかに蘇った。
「わたしたちは大丈夫よ。あなたが長い時間をかけて教えてくれた知恵があるから。だから……」
シャルロッテの目から大粒の涙がポロポロと溢れ落ちた。
笑いながら。顔をくしゃくしゃにして泣きながら笑っている。
フィレーネと同じだ。この母娘は本当に、どうしようもないくらい同じだ。
「だから、行って。あなたの淹れる、世界一美味しい紅茶を待ってる人が……きっとこの広い世界のどこかに、いるはずだから」
返事ができなかった。
喉の奥が焼けるように熱い。目の奥が痛い。
色々な感情が再び込み上げている。
「……かしこまりました」
声が掠れた。
統制を失った不器用な声で。
「フィレーネ様からの最後のご命令、確かに承ります」
ユリウスが目を逸らした。泣いてはいない。でも、必死に唇を噛んで肩を震わせていた。
シャルロッテは泣いていた。大公家の長女としての体裁など気にせず、堂々と。何も隠さずに僕の手を握りしめて。
窓の外で温かい春の風が吹いていた。
止まっていた僕の時間がもう一度、ゆっくりと動き始める──。




