第五十三話 夢の中の、あの家で
夢を見た。
あの家にいた。崩れかけた漆喰の壁。軋む音すら立てない錆びついた門。背丈ほどもある雑草に埋もれた石畳。
剥がれた屋根瓦の隙間からは、吸い込まれそうなほど青い春の空が覗いている。
僕は薄暗い台所に立っていた。見覚えのある黒ずんだ竈。壊れた棚の蝶番。埃だらけの床。
湯を沸かしている。市場で買った安物の茶葉。縁の少し欠けた不格好なカップ。
「リアンくん」
背後から呼ばれて振り返ると、フィレーネがいた。
十二歳の少女だった。色褪せてところどころ擦り切れたドレス。痩せた小さな肩。警戒心と寂しさが入り混じった、灰青色の瞳。
でも……彼女は笑っている。
あの頃には見せなかったような、安心しきった無邪気な笑顔で。
「紅茶、まだ?」
「今、淹れます。お湯が沸くまで少し待ってください」
「早くしてよ。お腹すいた」
「紅茶でお腹は膨れませんが」
「いいの。リアンくんの紅茶は特別だから」
沸いた湯を注いだ。蒸らす。カップに移す。いつもの手順。僕の体に染み付いた絶対の手順。
差し出した。フィレーネが小さな両手で受け取る。冷え切った指先を温めるようにカップを両手で大切に包み込む。
「美味しい」
「ありがとうございます」
「ねえ、リアンくん」
「はい」
「わたし、ちゃんとやれた?」
幼い顔のまま、彼女は最後の質問をしている。
夢の中では、時間も記憶も、すべてが優しく混ざり合うのだ。
「やれましたよ。完璧でした。文句のつけようのない、百点満点です」
「嘘。あなた、あの時、八十点って言ったじゃない」
「あれは僕の強がりです。嘘でした」
「ひどい。ずっと騙してたの?」
「……すみません」
「許さない」
「では、どうすれば許していただけますか」
フィレーネが紅茶をもう一口ゆっくりと飲んで、埃をかぶった窓の向こうを見た。
崩れかけた荒れ果てた庭。雑草の海の中に、小さなラベンダーの芽が力強く紫色の顔を覗かせている。
「もう一杯、淹れて」
「かしこまりました」
「それから、明日も」
「はい」
「明後日も」
「はい」
「ずっと。……ずっとよ」
「……はい」
フィレーネが笑った。あどけない笑顔。
あぁ、そうだ。
僕の姿は、このあの日から少しも変われない。
でも、彼女の笑顔の輝きも、あの時から最後まで何一つ変わらなかったじゃないか。
「ありがとう、リアンくん。わたし……すっごく幸せだったよ」
夢の中の景色が少しずつ白い光に侵食されていく。
台所の輪郭が薄れる。竈の形が消える。窓からの光がすべてを飲み込むように広がっていく。
「フィレーネ様」
「なに?」
「僕は貴女が——」
言葉が出なかった。永遠の時を生きる存在のくせに、夢の中でさえ一番肝心な言葉に詰まる。
「知ってる」
フィレーネが言った。春の風に溶けるような、遠くなっていく声で。
「全部、知ってるわ」
光がすべてを白く包み込んだ。
「だって、わたしも──」
♢ ♢ ♢
目を開けた。
天井が見えた。大公邸の離れにある、自分の部屋の天井。見慣れた完璧な木目。朝の冷たい光が、窓から静かに差し込んでいる。
「フィレーネ……」
春の朝だった。
窓の外で鳥が鳴いている。雪解け水が屋根を伝い、心地よい音を立てている。遠くの方で、誰かが朝の支度のために薪を割る小気味良い音がする。
体を起こした。いつもと同じ部屋。いつもと同じ静かな朝。
ただ——淹れたての紅茶を届けるべき相手だけが、この世界のどこにもいない。
フィレーネが息を引き取ってから、三日が経っていた。
葬儀は昨日、執り行われた。
ユリウスが大公として喪主を務め、偉大なる大公夫人にふさわしい荘厳で厳かな式だった。
領内だけでなく王都からも貴族が押し寄せ、参列者は五百名を超えた。国王陛下からも深い哀悼の意を示す弔問の使者が訪れた。
僕は巨大な葬儀場の最後列の、一番隅に立っていた。
そこが従者の場所だ。出会った日からずっと変わらない、僕の定位置。
シャルロッテは子供のように声を上げて泣き崩れた。レオンハルトが、妻の肩を抱きながら大粒の涙をこぼしていた。
ユリウスは当主としての威厳を保ち、人前で涙は見せなかったが……立派な弔辞を読む声は、たった一度だけ震え、途切れた。
リーゼとアルトも目を真っ赤に腫らしていた。一番幼いルナだけが何が起きているのかわからずに、母親の腕の中できょろきょろと不思議そうに周囲を見回していた。
僕は泣かなかった。
フィレーネが旅立った後、少し涙を流したがそれっきりだ。
まだ……僕の中の何かが、現実を拒絶していた。
葬儀が終わったその夜、静まり返った離れの厨房に僕は一人で立っていた。
無意識だった。体が、何十年もの習慣に支配されていた。
最高級の茶葉の缶を開ける。湯を沸かす。茶葉を正確に量る。温度を合わせる。蒸らす。完璧なタイミングで、カップに注ぐ。
フィレーネのための紅茶。
いつものカップ。彼女の一番のお気に入りのカップ。
それをトレイに載せ、誰もいないテーブルにそっと置いた。
向かいの安楽椅子に座る人はいない。
完璧な湯気が立ち昇る。部屋いっぱいに、春摘みのダージリンの華やかな香りが広がる。
誰も飲まない紅茶が音もなく、ゆっくりと冷めていく。
その間、僕はただテーブルの前に座って、そのカップをじっと見つめていた。
完璧な温度だったはずの紅茶から湯気が消え、香りが落ち、表面に薄い膜が張り——やがて完全に冷え切った。
そんな時間の経過が。
もう二度と彼女がこれを口にすることはないという現実を、僕の脳髄に叩き込んだ。
涙が出た。
「あ……あぁ……っ」
目の縁から溢れた熱いものが止めどなく頬を伝って、顎からポタポタと落ちた。
テーブルの上に次々と小さな染みを作っていく。
三百年近く生きてきて、完璧な感情統制が泥と化して崩れ落ちた。
完全に冷めきった紅茶に向かって僕は掠れた声で呟いた。
「泣いてもいいって……言いましたよね……」
返事はない。
当たり前だ。もう小言を言ってくれる声も、呆れたように笑ってくれる声も、どこにもない。
窓の隙間から冷たい夜の風が吹き込んだ。春を待つ土の匂いとラベンダーの微かな香りが、どこからか届いた。
泣いた。
小さな両手で顔を覆い、肩を激しく震わせて。
誇りも、執事としての仮面もすべてかなぐり捨てて、ただひたすらに泣いた。
癇癪を起こした子供のように。迷子の子供のように。
たった一人の愛おしい人間のために。
どれくらいそうして泣き続けていたか、わからない。
窓から差し込む光の角度が変わり、部屋の中が青白い朝の光に満たされた頃、ようやく僕の涙は枯れ果てた。
静かに立ち上がって、完全に冷めきった不完全な紅茶を流しに捨てた。
カップを洗う。丁寧に。割らないように。いつもと同じように。
「おやすみなさい、フィレーネさま」
毎晩、必ず交わしていたいつもの言葉をもう一度だけ。
それから部屋の窓を大きく開け放った。新しい春の空気が冷たかった部屋を勢いよく満たした。
庭のラベンダーが、ひっそりと咲き始めていた。小さな紫の花が朝日に照らされて優しく揺れている。
フィレーネはもういない。
でも、彼女が愛したラベンダーは咲いている。
僕が世話をした薔薇は、強く芽吹いている。
シャルロッテがいて、立派なユリウスがいて、孫がいて、ひ孫がいる。
フィレーネという一人の少女から始まった命の連鎖は、確実にこの世界に続いているのだ。
『幸せになりなさい。わたしがいなくなっても』
彼女はそう言った。
難しくて残酷な命令だ。最後の命令が、何よりも一番難しい。
でも——執事は主人の命令に必ず従うものだ。
厨房を出た。
世界は今日も、美しい春の朝だ。
まだ、やることがある。
彼女が愛し、残してくれたこの世界で……僕には、まだやることがある。
まだ……。




