第五十二話 最後の紅茶を、貴女に
三月。
長く凍てついていた雪が、ついに溶けた。雪解け水の規則正しい雫の音が静かな朝の訪れを告げる。
長く厚い雪の下に閉ざされていた庭の湿った黒い土が、柔らかな春の日差しを浴びて顔を出した。
丹精込めて手入れをしてきた薔薇の枯れ枝には小さな芽が力強く膨らみ始め、根付いたラベンダーの株からは瑞々しい緑が恥ずかしげに顔を覗かせていた。
春が来た。
生命が芽吹く季節だ。
フィレーネはまだここにいた。僕のそばに。
「リアンくん……」
二月の終わりから彼女が目を開けている時間はさらに短くなっていた。
一日のほとんどを深い眠りの中で過ごし、起きている時間は朝と夕方にそれぞれ三十分ほど。
だが、目を開けるたびに彼女が最初に発する言葉は決まっていた。
「春は……?」
「来ました。雪が完全に溶けています」
「そう……」
笑った。
力のない、でも心底安堵したような確かな笑みだった。
彼女の魂は春という季節を……僕との約束だけを命綱にして、世界に繋ぎ止められている。
シャルロッテが離れに泊まり込むようになった。ユリウスも山のような政務を放り出して毎日欠かさず顔を出す。
レオンハルトが不器用な手つきで自ら摘んだ美しい花を持ってくる。カイルが孫のルナを抱いて連れてくる。
いつもは静寂に包まれていた離れの小さな部屋に、入れ替わり立ち替わり、彼女を心の底から愛する家族たちが訪れた。
フィレーネは一人一人に柔らかな微笑みを向けた。
声は消え入りそうに小さくなっていたが、最後に紡ぐ言葉は確かだった。
リーゼに。
「あなたには鮮やかな春の色のドレスが一番似合うわ。これからも、たくさん笑ってね」
アルトに。
「お勉強、頑張ってるって聞いたわ。偉いわね。でも時々は木登りもして、泥だらけになって遊ぶのよ」
カイルに。
「シャルロッテお母さんを大事にしなさいね。あの子は強がりだけど、本当は寂しがり屋だから」
ルナには何も言わなかった。
小さな柔らかい手を皺だらけで冷たい両手で包み込み、新しい命の温もりを確かめるように見つめていた。
レオンハルトには。
「わたしの自慢の娘を……シャルロッテを大切にしてくれて、本当にありがとう。あなたでよかった」
レオンハルトはいつも通り大粒の涙をこぼし、言葉もなく何度も深く頷いていた。
ユリウスには。
「立派な大公になったわね。お父様も、きっと空の上から、今のあなたを誇りに思っているわ……」
「……はい、母上」
ユリウスはそれだけを絞り出し、ベッドの縁に顔を伏せた。
巨大な領地を束ね、誰よりも冷静でなければならない大公の押し殺した嗚咽が部屋に響いた。
シャルロッテには——永遠とも思える長い時間、無言で手を握り合っていた。
最後に何を話したのかは僕にもわからない。あえて聞かなかった。
魔術を使えば容易に聞き取れたが、決して聞いてはならない。それは理解出来た。
一人、また一人と愛する家族に言葉を残し、見送るたびにフィレーネの表情はどこか透明になっていくような気がした。
この世のすべての未練を、一つずつ丁寧に手放しているように。
──数日後。
朝、日課の紅茶を持って部屋へ入ると、フィレーネがすでに目を開けていた。最近では珍しく僕が声をかける前に自ら起きている。
「おはようございます、フィレーネ様」
「おはよう、リアンくん」
声に少しだけ張りがあった。昨日よりも明らかに。
でも──
それは蝋燭の火が燃え尽きる直前に見せる儚い輝きだ。
それを理解しているからこそ、僕の心臓は鷲掴みにされたように収縮した。
「今日は……とても調子が良さそうですね」
「うん。なんだか、体が軽いの」
淹れたての紅茶を渡した。フィレーネが自分の手でカップを持った。
最近は自力で持ち上げられなかったというのに。今は両手でしっかりと包み込み、細く息を吹きかけて一口飲んだ。
「美味しい。いつもの、わたしの世界で一番大好きな味」
「はい……いつも通りです」
「窓、開けてくれる? 全部」
「全部ですか……?」
「ええ。全部よ」
迷った。
でも。
僕は言われるままに部屋の窓を大きく開け放った。
風が一斉に部屋の中へ流れ込んでくる。
冬の冷たさの奥底に確かな春の温度が隠れている。雪解けの湿った土の匂い。目を覚ました若草の匂い。世界が力強く生きている匂いだ。
フィレーネが息を吸い込んだ。
「いい匂い」
「そう……ですね」
「庭、見たいな。歩きたい」
「フィレーネ様、それは——」
「お願い」
断れなかった。
出会ったあの日から。
僕は最後まで、この人の真っ直ぐな瞳の「お願い」だけは、ただの一度も断れないのだ。
どんなに無理な注文でも、結局は叶えてやりたいと思ってしまう。
ベッドから彼女を降ろし、一番暖かい分厚い上着を丁寧に着せ、靴を履かせた。
「フィレーネさま、お手を」
「うん」
杖を渡す。僕が右側に立つ。
一歩。
フィレーネの足が、床を踏みしめた。
二歩。三歩。
廊下を歩く。ゆっくりと。
一歩踏み出すごとに、小さな体が大きく揺れる。
軽かった。命の重さすら感じないほどに、彼女は光に透けてしまいそうだった。
玄関の重い扉を開けた。
溢れんばかりの春の光が、僕たちを優しく包み込んだ。
「まぶしい」
「はい」
「でも、とっても気持ちいい」
庭に出た。乾き始めた石畳を一歩ずつ、確かめるように進む。
薔薇の枝には赤い芽。クラウティア邸から運んできたラベンダーの株からは新しい緑の葉。
長く厳しい冬を越えた無数の命が、そこかしこで息を吹き返している。
「フィレーネさま、お座りください」
「ありがとう……」
庭の中央にあるベンチに辿り着いた。
ゆっくりと座らせる。僕も隣に座った。
フィレーネが眩しそうに空を見上げた。高く青い空に、白いちぎれ雲が流れている。
どこかで小鳥が鳴いている。春の風がラベンダーの株を優しく揺らし、淡い香りを運んでくる。
「リアンくん」
「はい」
「春が来たわね」
「はい。来ました」
フィレーネが僕を見た。
「!」
灰青色の瞳が、僕を見ていた。
十二歳の時、暗く冷たい屋敷で出会った時と……全く同じ色。
大公夫人として駆け抜け、母となり、祖母となり……老いを受け入れてもなお、最後まで一度も何一つ変わらなかった美しく気高い色。
「あの屋敷には——ごめんね。もう、行けそうにないわ」
心臓が高鳴った。
「ま、まだ行け……」
「リアンくん」
僕の言葉を遮る。すべてを受け入れた声だった。
「いいの。ここで十分。あなたと一緒に、こんなに綺麗な春を見られたから。わたしの人生にこれ以上の贅沢は必要ないわ」
風が吹いた。フィレーネの雪のような白髪が、光を受けて輝きながら揺れた。
「ねえ、最後にもう一つだけ我儘言っていい?」
「……はい」
「紅茶が飲みたいわ。ここで。あなたが淹れた、最高の紅茶を」
「かしこまり……ました」
立ち上がろうとした僕の袖を、フィレーネの細く骨ばった指が掴んだ。
「急がなくていいから。ちゃんと、戻ってきてね」
「すぐ戻ります。絶対に」
厨房に向かった。いつもと同じ手順。
しかし、一つ一つの動作が、永遠のように感じられた。
最高級の茶葉の入った缶を開ける。湯を沸かす。茶葉を正確に量る。
──僕の魔術は絶対だ。
指先一つで森を焼き、川の流れを変えることができる。人間から見れば、それは神の御業に等しい力だろう。
だが、僕の持つどれほど強大な力をもってしても……彼女の心臓を動かし続けることはできない。
不老不死の完璧な肉体を持つ僕が、この世界でたった一人。
一番生きていてほしい人間の命を、あと一日、あと一時間すらも繋ぎ止めることができないのだ。
消えゆく命を前に、美味しい紅茶を淹れることしか許されていない。
手が震えた。
ポットを持つ右手がどうしようもなく小刻みに震えている。三百年近く生きてきて、これほどまでに己の肉体を制御できないことはなかった。
深呼吸した。魔術で無理やり筋肉を硬直させ、強引に震えを止めた。
完璧な一杯を。
最後の——いや、今日の一杯を。
この世界で一番美味しい紅茶を、愛する彼女のために。
トレイにティーカップを載せて庭に戻ると、フィレーネはベンチに座ったまま静かに空を見上げていた。
絵画のように穏やかな横顔。春の陽光に照らされて、白い髪が金糸のように光っている。
「お待たせいたしました」
「ありがとう」
カップを手渡した。フィレーネが両手で包んだ。震える手で。でも、しっかりと。
一口、飲んだ。こくりと小さな音が響いた。
「美味しい」
「ありがとうございます」
「貴方と出会ってから、毎日飲んで……一度もはずれがなかった。本当にすごいことよ」
「当然です。僕が淹れていますから」
「ふふ、自信満々ね。本当に変わらないわね、あなたは」
「変わりません。これからも。ずっと」
フィレーネがカップをゆっくりと膝の上に置いた。
「リアンくん」
「はい」
「わたし、本当に……幸せだったわ」
「……」
「忘れないでね、わたしのこと」
「忘れません。忘れられません。僕の記憶は決して貴女を——」
「そうじゃなくて」
フィレーネが微笑んだ。泣いてはいない。涙の代わりに、すべてを許容するような柔らかな光が目に宿っている。
「ただの記録としてじゃなくて。わたしとあなたが一緒に生きた温かい時間として……心で覚えていて欲しいの」
フィレーネの冷たい手が僕の右手に重なった。
何の力も入っていない、春の風に乗る羽のように軽い手。
「夫を愛せたわ。子供たちを愛せた。領民たちを、この世界を……心の底から愛せた。あなたが、わたしを温めてくれたから」
「僕はただ紅茶を淹れていただけです。すべては、フィレーネ様ご自身の——」
「ううん。あなたが、わたしの魔法だったの」
彼女がはっきりと僕の目を見た。
老いて濁ることなく、澄み切った色。
「だからね、リアンくん」
「はい」
「約束して」
約束。
永遠を生きる僕への約束。
「わたしがいなくなっても……これからの長い時間を懸命に生きて。そしてどうか……この世界を愛して生きて」
「フィレーネ様……」
「また誰かのために紅茶を淹れて、誰かを温めてあげて。そして──他でもない貴方が幸せになりなさい。わたしのいない世界でも」
風がピタリと止んだ。
庭の木々が静まり返り、世界が呼吸を止めたかのようだった。
そして、僕は言った。
「──やだ」
震えていた。
僕の声は統制を失って、駄々を捏ねる子供のように無様に震えていた。
「忘れることなんてできない。僕の記憶は永遠なんだ。僕はこの先、何百年、何千年生きようとも……キミのいない世界を、今までと同じようには愛せない」
素の僕の口調を聞いて、フィレーネは一瞬きょとんとした後……吹き出して言った。
「ばか。そこは『かしこまりました』でしょ」
「今回ばかりは、有能な執事にはなれない。なりたく、ない」
何百年も完璧に張り付いていた執事の仮面が、音を立てて崩れていくのがわかった。
フィレーネが困ったように……でも愛おしそうに笑った。
彼女の両腕がゆっくりと持ち上がり、震える僕の小さな背中に回された。
「……」
軽い。でも、何よりも温かい力で僕を抱き寄せる。
「泣かないで、リアンくん」
母親が幼い子供をあやすような、優しく甘い声がした。
彼女の掌が僕の背中をぽんぽんと叩く。
「わたしの時間はここで終わるけれど。あなたの中に残るわたしは絶対に消えたりしないわ」
「……」
「大丈夫。あなたは強いもの。わたしの自慢の、世界一の執事だもの。だから安心して明日を生きて。わたしがいなくても、絶対に大丈夫だから」
背中を撫でる温かい手つきに、僕はただ子供のようにしがみつくことしかできなかった。
十二歳の冷たい冬の夜。
崩れかけた屋敷の台所で、不安に震える彼女の背中を撫でて慰めたのは僕の方だったはずなのに。
僕はずっと彼女の保護者であり、絶対の庇護者であるはずだったのに。
だけど、この時……今、この瞬間。
僕は気付いた。
(──あぁ、そうか)
いつの間にか。彼女は僕よりもずっと大人になっていたんだ。
人間として数え切れないほどの経験を積み、母となり、祖母となり。
そして今……永遠を生きるはずの僕を、迷子の子供を抱きしめるように……優しく包み込んでいる。
時の流れが僕だけを置き去りにして、彼女をこんなにも気高く、大きな存在へと成長させていたのだ。
──ならばこそ、僕は最後まで完璧な執事でいなければならない。
少なくとも、今この瞬間だけは。
彼女の親指が、僕の濡れた頬をそっと撫でた。
「ごめんね……眠くなってきちゃった」
手が力を失い、僕の肩へと滑り落ちた。
フィレーネの頭がゆっくりと傾き、僕の小さな肩にもたれかかる。
「少し眠るわ……」
「はい……お休みなさいませ。フィレーネ様。お疲れさまでした」
「おやすみ。リアン……」
ゆっくりと目を閉じた。
穏やかな顔だった。
痛みも、苦しみも、恐れも、後悔も、何一つない顔。
絶望の淵から這い上がり、愛を知り、過酷で美しい世界を全力で生き抜いた一人の気高き人間の顔。
春の風が戻ってきた。紫色のラベンダーが揺れた。薔薇の赤い芽が光を弾いた。
「……」
僕の肩にもたれるフィレーネの呼吸が、ゆっくりと。
ゆっくりと……間隔を広げ。
やがて。
完全に静かになっていった。
鼓動が止まり、最後の温もりが冷たい春の空気に溶けていく。
——それから、どれだけの時間が経っただろうか。
風は止まず、柔らかな春の日差しは、僕たちのいるベンチを暖かく照らし続けていた。
どこかで鳴いていた小鳥がラベンダーの茂みに降り立ち、また空へと飛び立っていく。
僕は肩にもたれかかるフィレーネの体をそのままにして静かに前を見つめていた。
彼女の小さな頭から伝わってくる、徐々に失われていく命の温度。
それを全身で感じながら、僕の脳裏には彼女と共に駆け抜けた、人間からすれば途方もなく長く、エルフからすれば瞬きのような数十年の記憶が鮮やかに蘇っていた。
崩れかけたクラウティアの旧屋敷。
誰も来ないと絶望し、一人きりで泣いていた十二歳の少女。
『ここに、いてくれるの?』
星露草の契約。アレクシスとの出会い。
氷の女公爵と呼ばれ、領地のために誰よりも泥水をすする覚悟で立ち上がった気高い横顔。
『わたしがお婆さんになったら、本当にまだいてくれる?』
シャルロッテが生まれ、ユリウスが生まれ、家族が増え、大公邸が笑顔で満たされていった日々。
いつだって僕が振り返れば彼女がいた。
「リアンくん」と少し生意気で、でも優しい声で僕の名前を呼ぶ声があった。
どんなに時代が移り変わっても、僕の淹れる紅茶を誰よりも美味しそうに飲んでくれる、ただ一人の主人がいた。
彼女の膝の上にあるカップの紅茶が、春の空気に触れて完全に冷え切っていた。
光に満ちた命が溢れる春の庭で。
「フィレーネ」
彼女の名を呼んだ。
二人きりの庭で。
もう二度と軽口で返してはくれない名前を。
フィレーネの最後の紅茶は、半分だけ残っていた。
「ねぇ、フィレーネ……」
堪えきれなくなった頬を伝う熱い雫が、ぽつりと落ちた。
ずっと胸の奥に張り付いていた有能な執事という殻が、音を立てて崩れ落ちる。
ここにはもう、主を看取る執事も不老不死の完璧なハイエルフもいない。
大好きな女の子を見送る、一人の少年しかいなかった。
「八十点じゃなかったよ」
彼女の耳元に届くように。
春の風に溶けて、彼女の魂に届くように。
囁いた。
「最初からずっと、百点だったよ……」
返事はなかった。
心地よい春の風が吹いている。
ラベンダーが優しく揺れている。
僕の肩にもたれたままのフィレーネは笑っているように見えた。




