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転生エルフ執事は、何度でも主人の最期に紅茶を淹れる ~不老不死の悠久のお仕えスローライフ~  作者: 季未
第四章 最後の紅茶を、貴女に

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第五十一話 もう少しだけ

年が明けた。


一月。分厚い雪の底に微かな光の変化がある。


日が少しだけ長くなった。風はまだ氷のように冷たく、まだ冬のただ中だ。でも世界は確実に、春に向かって傾き始めている。


フィレーネはベッドの中で過ごす時間が長くなった。


決して起き上がれないわけではない。


朝、僕が静かに声をかければゆっくりと目を開けるし、紅茶を差し出せば、震える両手でしっかりと受け取ろうとする。


ただ、起きている時間が決定的に短くなったのだ。


午前に二時間。午後に一時間。それ以外は静かに目を閉じて眠っている。


それは穏やかな眠りだった。


苦しそうな様子や、痛みに顔をしかめることはない。呼吸は小さく安定しているし、顔色も極端に悪くはない。


ただ——彼女の中に燃えていた命の灯火が音もなく、少しずつ小さくなっていくような静寂だけがあった。


「リアンくん」


ある朝ベッドの中から呼ばれた。

呼び方が戻っていた。家族が集まった夜の「リアン」は、一度きりの特別なものだったらしい。


「はい」


「春まであと、どのくらいかしら?」


「二ヶ月と少しです」


「二ヶ月か。長いのね」


「すぐですよ」


「あなたの言う『すぐ』は信用ならないわ。どうせエルフの途方もない時間感覚でしょ」


小さな声で笑う。軽口が出る日は調子がいい証拠だ。こういう日は、張り詰めた僕の胸も少しだけ息ができる。


「紅茶、飲めますか」


「飲むわよ。あなたの淹れた紅茶を断る日なんて、永遠に来ないわ」


ベッドの背を少し起こし、柔らかいクッションをいくつか挟んで体を支えた。温かいカップを手渡す。フィレーネが両手で包み込む。出会った日から変わらない、大切そうに紅茶を飲む仕草。


だが指の力は弱くなっていて、カップが微かに震えていた。僕はカップの底に自分の手を添えた。


「手伝ってもらわなくても、まだ持てるわよ」


「念のためです。火傷をされては一大事です」


「相変わらず過保護ね」


一口飲んで、フィレーネがほっとしたように目を閉じた。


「美味しい」


「ありがとうございます」


「ねえ、リアンくん。この紅茶の味、どこかに記録してある?」


「記録、ですか?」


「そう、レシピよ。お湯の温度とか、蒸らし時間とか、茶葉の量とか。全部」


「僕の頭の中に、完璧なデータとして全て入っていますが」


「ダメよ。ちゃんと紙に書いて。誰かに渡せるように」


カップを支えていた僕の手が、ピタリと止まった。


「なぜですか」


「だって、この世界であなた一人しか淹れられないなんて、もったいないじゃない。この美味しい味を知っている人間が、もっと増やした方が貴方も楽しいでしょ?」


違う。この人が言いたいのは、そういうことではない。


この完璧な紅茶の味を、次の世代に繋げられるように。


彼女がいなくなって、僕が一人きりになっても——僕が生き甲斐をなくしてしまわないように。


この人は自分がいなくなった後の僕の心配をしているのだ。


ベッドから起き上がるのすら辛いというのに。永遠を生きる執事の、果てしない孤独を案じているのだ。


「……かしこまりました。詳細を書いておきます」


「ありがとう。シャルロッテにも、必ず一部渡してね。あの子なら、きっと上手く淹れられるようになるから」


「はい」


二月。


フィレーネは、一日の殆どをベッドの上で過ごすようになった。


食事はもう固形物を飲み込むのが難しくなり、流動食に近いものになった。ギュンターのレシピを応用した栄養価の高いスープ、極限まで柔らかく煮た野菜、甘みを引き出してすり潰した果物。


量は壮年期の五分の一にも満たない。それでも彼女は、僕がスプーンで口に運ぶそれを毎日時間をかけて、最後の一滴まで残さず食べた。


「完食です。偉いですね」


「子供扱いしないでよ」


「していません。純粋な称賛です。フィレーネ様は立派です」


「嘘ばっかり」


シャルロッテが週に二度、泊まりがけで本邸から通うようになった。ユリウスも多忙な政務の合間を縫って、三日に一度は必ず顔を出す。


みんな、わかっているのだ。


言葉にはしない。縁起でもないからと誰もしない。


でも、家族がこの離れに集まる頻度が不自然なほどに増えている。


それだけで彼らの無言の覚悟を悟るには十分だった。


二月の終わり。


その朝は……部屋の空気が、いつもと少し違った。


「フィレーネ様。おはようございます」


僕が朝の紅茶を持って部屋に入ると、フィレーネが窓の方を向いていた。ベッドに横たわったまま、顔だけを窓の光に向けて。


「おはよう。リアンくん」


声が小さかった。掠れて、いつもよりずっと遠くから聞こえるような声。


「紅茶です。お目覚めの一杯を」


「ありがとう。ちょっと、体を起こして……」


細い背中を支えて起こした。幾重にもクッションを当てて姿勢を安定させる。カップを渡そうとした。


だが、フィレーネの手が力なく震えていた。もはやカップそのものを持ち上げることができない。


「僕が持ちます。そのまま、どうぞ」


「ごめんね……」


「謝ることではありません」


カップの縁をフィレーネの乾いた唇に運んだ。静かに傾ける。一口。


フィレーネの喉が動き、ゆっくりと、大切に飲み込んだ。


「……美味しい」


「ありがとうございます」


「今日のは……特別に、美味しいわ」


「いつもと同じですよ」


「嘘。絶対に、いつもより美味しい」


いつもと同じだ。


茶葉の選定も、お湯の温度も、秒単位の蒸らし時間も。何一つ変えていない。


変わったのは——飲む側なんだろう。


彼女の命が一杯の紅茶の温もりを、世界で一番尊いものとして受け取っているからだ。


もう一口。もう一口。


ゆっくりと、愛おしむように時間をかけて、フィレーネは紅茶を飲んだ。


半分ほど飲んだところで、彼女は小さく首を横に振った。


「ごめん。もう、お腹いっぱい」


「十分です。よくお飲みになりましたね」


「また、子供扱いして……」


「していませんよ」


空になったカップを置き、フィレーネをゆっくりと横たえた。首元まで布団をかけ直し、暖炉に新しい薪を足す。室温と湿度を完璧に確認する。


いつもの手順。いつもの、変わらない動作。


「リアンくん」


「はい」


「窓、少しだけ開けて」


「まだ外は冷えますが……」


「少しだけ。お願い」


本当は絶対に開けない方がいい。身体に堪える。


だが……彼女のお願いを……今の彼女のお願いを断れるわけがない。


言われるままに、窓を細く開けた。二月の刃物のように冷たい風が部屋の中に入ってくる。


だがその中に——微かにだが春の匂いが混じっていた。雪の下で息を潜める湿った土と命の匂い。


「もうすぐ春ね」


「はい。もうすぐです」


「あの屋敷……行けるかな」


「……行けますよ。暖かくなったら、すぐに」


「約束——」


「約束です。何度でも行きましょう」


フィレーネがゆっくりと目を閉じた。色を失った唇が微かに動いた。


「リアンくん……」


「はい」


「ここにいて……」


「います。どこにも行きません。ずっと」


「手、つないで……」


布団から出された手を両手でしっかりと握った。


小さくて冷たくて、骨ばった手。僕はマナを使い、僕自身の体温を少しだけ上げた。僕の手から彼女の指先へと、ゆっくりと熱が伝わり温まっていく。


「あったかい……」


「はい」


「あなたの手は、いつも本当にあったかいわね」


「実は魔術です。船の時だけじゃなくて……いつも昔から少しズルをしていました」


誤魔化すようにそう言った僕に、目を閉じたまま、フィレーネがふわりと微笑んだ。


「知ってる。最初から全部知ってたわよ」


心臓が大きく跳ねた。


「廊下がいつも暖かいのも。隙間風が吹かないのも。あの凍えるような冬に、紅茶がいつだって完璧な温度だったのも……。全部、あなたの見えない魔法でしょ」


「……お気付きでしたか」


「馬鹿ね。人生の殆どを一緒にいて、気付かないわけないじゃない」


知っていた。


全部。


僕が彼女に気付かれないように使っていた魔術を。彼女を守るために張り巡らせていた、見えない気遣いを。


知っていて、彼女は何も言わなかった。ずっと静かに受け入れてくれていたのだ。


「子供のころから、独りぼっちだったわたしをずっと守ってくれた、不思議な力……貴方の優しい力……わたしを導いてくれる、光……」


「なんで、今まで——」


「言う必要が、なかったから。魔法だろうとなんだろうと、あなたはわたしのリアンくんでしょ。それだけで十分だったの」


僕の手を握る彼女の指の力が、ほんの少しだけ強くなった。


「ありがとう。わたしの執事さん……」


絞り出すようなその言葉を最後に、フィレーネは静かに眠りの淵へと沈んでいった。


穏やかな寝息。規則的な呼吸。苦痛の一切ない、安らかな顔。


僕は繋いだ手を握ったまま、石像のようにそこから動かなかった。


動けなかった。


窓の隙間から入り込む冷たい風に、確かな春の匂いが混じっている。


もうすぐだ。もうすぐ、春が来る。


重い雪が溶け、屋敷の庭の薔薇が芽吹き、ラベンダーが紫の花を咲かせる。


──もうすぐ。


あともう少しだけ。


「……お願いだから」


繋いだ手に額を押し当て、誰にも聞こえない声で僕は祈るように呟いた。


「春まで、生きて」

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