第四十九話 秋の紅茶は少しだけ苦い
夏が過ぎた。
秋風が吹き始めるとフィレーネの足取りが目に見えて重くなった。
夏の間に少しだけ戻っていた体力が、下がり始めた気温と共に音もなく削がれていくのがわかる。
庭のベンチまでの散歩が毎日の日課から二日に一度になった。やがて二日に一度が、三日に一度になった。
それでもフィレーネは暖炉の前の特等席に座って本を読み、古い友人たちに手紙を書き、僕の淹れた紅茶を飲んだ。
日常の骨格は決して崩れていない。
崩さないように必死に保っているのだ。大公夫人として生きてきたこの人の最後の矜持だった。
「リアンくん、今日のお手紙なんだけど」
「はい。どちらからでしたか」
「シャルロッテからよ。カイルの娘が、どうやら歩き始めたらしいわ。可愛らしい似顔絵が入ってるの」
カイルの娘。シャルロッテにとっては孫であり、フィレーネにとっては玄孫にあたる。
名前はルナというらしい。フィレーネはまだ、その子に会っていなかった。
「来年の春には、こちらに顔見せに連れてくるとシャルロッテお嬢様が仰っていましたよ」
「春ね。本当に楽しみだわ」
春。
フィレーネの口から出る「春」という言葉の重みが、年々変わってきている。
去年までは単なる季節の名前だった。遠足を待ちわびるような弾んだ響きがあった。
でも今は。
祈りに近い……。
十月。
庭の薔薇が、今年最後となるであろう花をひっそりと咲かせていた。
その日、フィレーネが珍しく自分から「出かけたい」と言い出した。離れの庭ではなく大公邸の巨大な本邸の方へ。
「ユリウスに、少しだけ用があるの」
「お呼びすれば、ユリウスさまからこちらへ来てくれます。その方がお体には——」
「わたしが行きたいの。いい年をした当主の執務室に老いぼれた母親が杖をついて乗り込む方が、なんだか格好いいでしょ?」
格好の問題ではない気がしたが、僕は止めなかった。彼女が自分の足で行くというなら、僕はその足を支えるだけだ。
ゆっくりとした歩みで本邸まで何とか出向いた。
ユリウスの執務室。書類の山に囲まれていた大公は、扉が開き、母が自ら歩いて入ってきたことに驚愕して椅子から立ち上がった。
「母上! お呼びくだされば、私がすぐに離れへ向かいましたのに——」
「いいのよ、大げさね。座ってちょうだい」
フィレーネが、当主のデスクの向かいにある客用の椅子にゆっくりと座った。
僕は斜め後ろの壁際に音もなく立つ。昔から変わらない、いつもの配置だ。
「ユリウス。今日は一つ、貴方に頼みがあって来たの」
「頼み、でしょうか。なんでしょう」
「クラウティアの旧屋敷。あの場所をあのままにしておいてほしいの」
ユリウスが少しだけ目を瞬いた。
「壊さないで、売らないで、そのまま残して。庭のラベンダーも。誰も住んでいないからって、他の用途に転用したりしないで」
「もちろんです。あそこは母上の——」
「わたしの、じゃないわ」
フィレーネがゆっくりと振り返り、壁際に立つ僕を見た。真っ直ぐに僕を射抜く。
「リアンくんの帰る場所よ」
不意を突かれた。
僕の思考が一瞬だけ完全に真っ白になった。
「わたしがいなくなった後……リアンくんが一人になった時、いつでも行ける場所を残しておきたいの。あの屋敷はわたしとリアンくんの始まりの場所だから。この子にとっての、唯一の家だから」
ユリウスは息を呑み、深く頷いた。
母の言葉の真意と、僕という存在の孤独を聡明な大公は正確に理解しているのだろう。
「お約束します、母上。大公家の名において、貴女とリアン殿の帰る場所は、永遠に残します」
「ありがとう」
フィレーネが微笑んだ。
用件はそれだけだった。自分のためではなく、僕のための一つの頼み。
「……」
帰り道、フィレーネは行きよりも深く僕の腕に体重を預けて歩いた。
足取りが重い。気丈な交渉で相当な体力を消耗したのだろう。
「少し、余計なことを頼んでしまったかしら」
「余計ではありません」
「あなたは強がりだから。そんなもの要らないって、怒るかと思った」
「言いません。僕も……嬉しいです」
「そう。よかったわ」
離れに戻り、安楽椅子に深く座り込んだフィレーネに紅茶を淹れた。
肌寒い秋の気温に合わせて、蒸らし時間をいつもよりきっちり五秒長くする。少しだけ渋みを立たせた香りの強い紅茶。
「リアンくん。一つ、聞いていい?」
「どうぞ」
「わたしの人生に、もしあなたが点数をつけるとしたら……何点くらいかしら?」
突然の質問だった。だが、出会った頃からこの人の質問はいつも突然だ。
「一介の執事は主人の人生を採点する立場にはありませんが」
「いいから。あなたの素直な主観で教えて」
僕はポットを置き、紅茶の入ったカップをソーサーに置いた。
考えるふりをした。だが、考える必要など全くなかった。
──答えは、もうずっと前から決まっている。
「八十点です」
フィレーネが目を丸くした。それから、堪えきれないようにぷっと吹き出した。
「八十点。ふふ……あの時と同じじゃない」
「はい。あの時と同じです」
「星露草の契約交渉をした後に言ったのよね。あなたは百点満点じゃなくて、八十点って」
「よく覚えておいでですね」
「忘れるわけないでしょ。あんなに頑張ったのに百点じゃなくて、すっごく悔しかったんだから」
「八十点には、ちゃんとした意味があります」
「知ってる。次があるからでしょ」
「はい。次がある。貴女の人生はまだ終わっていない」
フィレーネの目が少しだけ潤んだ。
泣いてはいない。ただ、温かい水が薄っすらと張っただけだ。
「ずるいわね。あなたって、本当に昔からずるい」
「有能な執事ですので」
「それ、もう人生で何回目よ」
「少なくとも、千回は超えているとだけ」
フィレーネが温かい紅茶を飲んだ。皺だらけの両手でティーカップを大切そうに包み込んで、ゆっくりと。
「八十点か。じゃあ、残りの二十点は——」
「これから先の分です」
「来年の春?」
「来年の春。再来年も。その先も」
フィレーネが声を出して笑った。深い皺の刻まれた顔で十二歳のあの夜と同じように、無邪気に。
「欲張りな採点ね」
「僕は欲張りなので。昔から」
「知ってる。こんなにずっと一緒にいれば、嫌でもわかるわ」
窓の外で枯れ葉が一枚、風に舞った。庭の最後の薔薇が散り始めている。
冬が来る。
彼女の体を削る、冷たくて長い冬がまたやってくる。
でも、その先には春があるのだ。約束の春が。
「リアンくん」
「はい」
「今日の紅茶、少しだけ苦いわ」
「秋の茶葉は渋みが強いんです。気温に合わせて蒸らし時間も長くしました」
「嫌いじゃないけどね。こういう苦いのも、悪くない」
僕は立ち上がり、暖炉に新しい薪を足した。パチパチと火が爆ぜて、温かい光が二人の顔を優しく照らした。
フィレーネが空になったカップを僕に渡し、目を閉じた。数回瞬きをして、すぐに規則正しい寝息が聞こえ始めた。
僕は空のカップを受け取り、彼女の膝の上の毛布をそっとかけ直した。
僕は穏やかな寝顔を見つめながら、これから来る冬支度のリストを頭の中で猛スピードで組み立てていた。
薪の在庫確認。肌触りの良い毛布の追加。体力を落とさないための綿密な食事の栄養計画。魔術による完璧な室温の管理。
やることは山ほどある。どれ一つとして妥協は許されない。
春まで。あと半年。
過酷な冬を越えよう。




