第四十八話 ある夏の午後に
屋敷から大公邸の離れに戻った後、フィレーネは少しだけ元気を取り戻した。
落ちていた食欲が戻り、僕が用意した食事を完食する日も増えた。
庭の散歩も毎日欠かさず続け、屋敷の思い出を反芻するようにラベンダーに水をやり、少しずつ膨らんでいく薔薇の蕾を数え、お気に入りのベンチに座って高く澄んだ空を見上げる。
長く苦しかった冬の分を取り戻すような、穏やかで満ち足りた春の日々だった。
ある日、ユリウスが孫たちを連れてきた。
リーゼとアルト。
どちらもユリウスによく似た、品の良い銀灰色の髪を持つ幼い兄妹だ。ひ孫たちを前にしたフィレーネの顔は柔らかく綻んだ。
「曾おばあちゃま!」
元気いっぱいのリーゼが、弾むような足取りでフィレーネに飛びついた。
勢いにフィレーネの華奢な体がよろめいて、僕は咄嗟に後ろから気付かれないように背中を支えた。
「こら、リーゼ。曾祖母上にいきなり飛びつくのは——」
「いいのよ、ユリウス。怒らないで。さあ、もっとおいで」
フィレーネが細い腕を伸ばし自分の膝にリーゼを乗せた。重量が今の彼女には少し重そうに見えたが、抱きしめる顔はたまらなく幸せそうだった。
一方のアルトは少し人見知りなのか、もじもじとユリウスの大きな足の後ろに隠れている。
「アルト様、温かい紅茶はいかがですか。お子様向けに蜂蜜とミルクで甘くしてありますよ」
僕がしゃがみ込んで差し出すと、小さな手が恐る恐るティーカップを受け取った。
ふーふーと息を吹きかけて一口飲み、丸い目を大きくする。
「……おいしい」
「ありがとうございます。お気に召して光栄です」
「ちっちゃいのに、すごいね」
ちっちゃい……まあそう見えるだろう。僕の見た目は、少し背の低い十歳の少年のままだからだ。
彼から見れば、ちょっと年上のお兄ちゃんでしかない。
ユリウスが困ったように咳払いをした。
「アルト。無礼だぞ。この方はリアン殿だ。母上に長年お仕えしている、我が家にとって大変恩義のある方だ」
「長年?」
「そうだ」
「おにいちゃんなのに?」
「リアン殿はエルフだから、人間とは違って歳を取らないんだ」
「ふうん。べんり」
便利ではない。この会話は一体これまで何度繰り返してきたのだろうか。
世代を超えて、その子供、さらにその子供から同じことを言われる。無邪気な言葉が、エルフと人間の決定的な違いを定期的に突きつけてくる。
まぁ僕はエルフではなく、ハイエルフだが。
フィレーネがリーゼの柔らかな髪を撫でながら、僕を見てふふっと笑った。
その目が「また同じこと言われてるわね」と語っている。出会ってからこれだけの時間を積み重ねた僕と彼女くらいになると、視線を交わすだけで十分な会話ができる。
それからしばらく経って。
少し葉桜になりかけた頃、シャルロッテが泊まりがけで訪ねてきた。
壮年を迎えたシャルロッテは、手入れの行き届いた髪を思い切って短く切っていた。とてもよく似合っている。
かつて木登りばかりしていた頃の活発な印象が戻って、実年齢よりずっと若々しく見えた。
「お母様、顔色いいじゃない」
「春だからね。今年の冬はちょっと辛かったけど」
「リアンのおかげでしょ」
「まあね。リアンくんがいなかったら、冬は越せなかったかもしれないわ」
その言葉に堪らず僕は口を挟んだ。
「……ご謙遜を。大げさですよ」
「大げさじゃないわよ。暖炉の薪、わたしが冷えないように一晩中起きて足してくれてたでしょ。それに、見えない魔法で部屋の空気を……あぁいや、なんでもないわ」
気付いていたのか。魔術による微細な温度管理。
まぁ、彼女にはバレても別にいい。彼女に今更隠し事などない。
その夜、シャルロッテとフィレーネが離れの居間で遅くまで話し込んでいた。
僕は少し離れた厨房で翌日の朝食の仕込みをしていたが、静まり返った夜の空気の中ではハイエルフの耳には二人の声が全部筒抜けだった。
聞くつもりなど毛頭ないのだが、拾いたくない感情まで聞こえてしまう。
「お母様、本当に元気? 無理してない?」
「してないわよ。過保護なリアンくんが、絶対に無理させてくれないもの」
「それはそうだけど。……ねえお母様、最近、手紙の字が変わった気がして」
「そう?」
「うん。少し、震えてるっていうか……昔みたいに真っ直ぐじゃないから」
わずかな沈黙が落ちた。
「歳よ、シャルロッテ。どれだけ気丈に振る舞っても、年老いたら人間の手はこうなるの」
「うん。わかってる。わかってるんだけど」
「泣かないの。わたしはまだ元気よ。来年の春もまたあの屋敷に行くって、リアンくんと大事な約束をしてるんだから」
「約束?」
「毎年行くの。あの子と二人で。わたしたちの、始まりの場所に」
シャルロッテが何か言おうとして、ぐっと息を飲み込んだのが気配でわかった。迫り来る母の喪失を予感し、それでも気丈に振る舞う母の前で涙を見せまいと必死に堪えているのだろう。
代わりに彼女は震える声で別のことを言った。
「……リアンがいてくれて、本当によかった」
「うん。本当にね。わたしの人生の一番の幸運よ」
僕は野菜を刻む包丁の手を止めなかった。聞こえていないふりを、ただひたすらに続けた。
そして──短かった春が過ぎ、夏が来た。
じっとりとした暑い日が続いたが、フィレーネは比較的元気だった。
冷え込む冬より、温かい夏の方が体の節々の痛みが和らぎ、幾分楽らしい。
庭の散歩も距離が少し伸び、ベンチの先にある小さな花壇までゆっくりと歩けるようになった。
ある夏の午後。いつものベンチで、フィレーネと並んで座っていた。
庭の薔薇が満開だった。目にも鮮やかな赤、純真な白、柔らかなピンク。
僕が密かにマナで手入れをしていることもあり、花の数は年々増えている。むせ返るような甘い香りが、夏の風に乗って漂ってくる。
フィレーネが目を細めて、愛おしそうに花を見ていた。老眼鏡はかけていない。本を読むときは手放せないが、遠くの景色は裸眼の方がまだよく見えるらしい。
「ねえ、リアンくん」
「はい」
「わたしね、最近よく夢を見るの」
「どんな夢ですか」
「十二歳の時の夢。あの冷たい屋敷で、あなたが来る前の……誰もいなくて、独りぼっちで泣いている夢」
「……よく見るんですか。おつらいなら、安眠のための薬草を──」
「違うの。週に二、三回は見るかしら。でもね、不思議と嫌な夢じゃないのよ。当時はあんなに怖くて絶望していたはずなのに、夢の中では全然怖くなくて。だって、待っていれば必ずあなたが助けに来てくれるって、夢の中でもわかってるから」
満開の薔薇の花弁が一枚、風に乗ってふわりと飛んだ。
「それでね、夢の通りにあなたが来てくれるの。夢の中のあなたはね、今隣にいるあなたと全然変わらないの。綺麗な髪で、ちょっと生意気で涼しい顔をして。『フィレーネ様、温かい紅茶をどうぞ』って」
「夢の中でも、僕はせっせと紅茶を淹れているんですね」
「ふふ、あなたはそういう子でしょ」
フィレーネが子供のように笑った。
「夢から覚めて、ゆっくり目を開けると、いつだってあなたが最高の紅茶を持ってベッドの横に立ってるの。夢と全く同じ顔で。何十年経っても、変わらない姿で。それが、なんていうか——」
彼女は言葉を探すように、少しだけ空を見上げた。強い日差しを遮るように、風が薔薇の枝を揺らした。
「安心するの。すごく」
「……光栄です」
「光栄って。あなたってば、相変わらず固いわね」
「では——嬉しいです。僕も」
「うん。そっちの言葉の方がいい」
ひらひらと一匹の蝶が飛んできた。純白の蝶だ。満開の薔薇の花から花へ、幻のようにふわふわと渡っていく。
フィレーネが目を細め、白い蝶の軌跡を静かに目で追った。
「ねえ、リアンくん」
「はい」
「わたしが死んだら——」
「フィレーネ様」
「聞いて。最後まで」
咄嗟に言葉を遮ろうとした僕を、穏やかな声が止めた。
怒っているのではない。縁起でもないと叱っているのでもない。
ただ、どうしても今……この言葉だけは聞いてほしいという切実な声だった。
「わたしが死んだら、泣いてもいいからね」
「……」
「有能な執事は主人の前で決して泣かないとか、エルフは人間の死に慣れているとか、そういう意地は要らないから。泣きたかったら、声を出して泣いて。置いていくわたしに怒りたかったら怒って。一人になって寂しかったら、寂しいって素直に言って」
「フィレーネ様、僕は——」
「それから」
フィレーネが膝の上に置かれた僕の手に、自分の手をゆっくりと重ねた。
皺だらけで骨ばった、枯れ木のように小さな手。
「それから、わたしがいなくなっても……また誰かのために、紅茶を淹れてね」
蝶が飛んでいった。満開の薔薇の向こう側、夏の眩しい光の中へ、白い影が静かに消えていく。
「あなたの淹れる紅茶は、一人きりで飲むには……あまりに勿体ないから──」
返事ができなかった。
何百年も生きてきて、何千、何万回と流暢に言葉を紡いできたはずのこの口が。
乾ききって何も言えなかった。ハイエルフの完璧な肉体がほんの少しの震えすら制御できない。
重なったフィレーネの手が、じんわりと暖かく感じた。夏の午後の優しい温度。
確かにそこにある、生きている人間の命の温度だ。
「……考えておきます」
沈黙の果てに僕の口からようやく絞り出せたのは、間の抜けた掠れた返事だった。
「考えておく、じゃないわよ。今、ここで約束して」
「……約束、します」
「よろしい」
フィレーネが満足そうに手を離して、んーっと小さく背伸びをした。
「さ、お部屋に戻って紅茶にしましょうか。今日は少し暑いから、冷たく冷やしたのがいいな」
「かしこまりました。すぐにご用意いたします。少しお待ちください」
立ち上がって、一足先に厨房へと向かった。
歩き出し、数歩進んだところで途中で一度だけ振り返った。
「……」
ベンチに座ったフィレーネが眩しそうに薔薇の花壇を眺めている。
小さくなった背中。雪のように白い髪。彼女を包み込む、永遠のように眩しい夏の陽光。
この景色を、絶対に覚えておこう。
どんなに長い時が過ぎ去っても、世界が形を変えてしまっても。
永遠に消えることのないハイエルフの記憶の一番大切で、一番深く温かい場所に。




