第四十七話 船旅は永遠のように
四月。約束の月が来た。
その朝、フィレーネは鏡の前に座り、自分で髪を結い上げていた。僕が後ろから手伝おうとすると、鏡越しに首を横に振った。
「今日は自分でやるわ」
「かしこまりました」
時間はかかった。かつては滑らかに動いていた指先が、今は思うように動かないのだろう。
何度も結び目が緩み、その度に小さく息を吐いてやり直していた。
でも僕は手を出さず黙って待った。完璧な身支度を整えるのが執事の仕事だが、今日は違う。
この人が自分自身の力で「あの日の姿」になりたいのだと分かっていたから。
雪のように白い髪を一つにまとめ、飾り気のない簡素な紐で結んだ。
大公夫人としての豪奢な結い上げとは違う、質素な姿。でも、フィレーネには昔からその飾らない姿が一番よく似合う。
「どう?」
「お綺麗です」
「お世辞は聞き飽きたわよ」
「貴女と出会ってから、僕が一度でもお世辞を言ったことがありますか」
フィレーネが鼻を鳴らした。全く信じていない顔。でも、どこか嬉しそうな……いつもの顔だった。
ユリウスとシャルロッテには、この外出を事前に伝えてある。二人とも強く反対はしなかった。
ただ、出発の直前にシャルロッテが僕の袖をきつく引いて、ひどく不安げな小声で言った。
「何かあったら、すぐに連絡してね」
「もちろんです」
「お母様に、無理だけはさせないでね」
「わかっています」
わかっている。彼女の体がどれほど限界に近いかなど、毎日そばにいる僕が一番よくわかっている。
だが……彼女の人生の集大成とも言えるこの旅を止める権利など、僕にはないのだ。
河岸に着いた。大公邸の敷地の外れにある小屋に、あの船は変わらず眠っていた。
かつて僕がマナで分子結合を強化して作った小さな平底船。数十年経った今も、水に浮かべれば新品のように滑らかだ。
フィレーネをゆっくりと船に乗せた。杖を預かり、彼女の細い腕をしっかりと支えながら。
船べりに柔らかい座布団を二枚重ねて置き、背もたれ代わりに上質な毛布を丸めた。
さらに分厚い上着を一枚羽織らせる。四月の陽気とはいえ、川の上の風は老体にはひどく冷える。
まぁ、気付かれないよう魔術で彼女の周囲の空気だけを完璧に温めているのだが。
「準備万端ね」
「当然です。誰の執事だと思っているのですか」
船を出した。櫂は使わず、僕が水中のマナで水流を直接操り、船体を滑るように押し上げていく。
川面に春の陽光が踊っている。両岸の木々は瑞々しい新緑に萌え、桜に似た白い花が所々に咲き乱れていた。
溢れんばかりの生命の気配が、冬の重い沈黙を完全に塗り替えている……。
「綺麗……この船から見える景色は、わたしがお婆さんになっても、ずっと綺麗なままね」
「フィレーネ様も、ずっと綺麗なままですよ」
「あら。口説いてるの?」
「えぇ。もちろん」
フィレーネが少しだけ不思議そうな顔をして、それから困ったような微笑みを浮かべて言った。
「あと五十年早く口説いてくれたらよかったのに……」
「今、なにか仰いましたか?」
「いいえ、なんでも」
僕は口元を少しだけ緩め、マナを操って優雅に船を進ませた。
そして──ベルデの街に着いた。
小さな市場は今は巨大な広場に成長している。土だった道は立派な石畳に変わり、見上げるような商店が並び、無数の人々が行き交う。
船を降り、手配しておいた馬車に乗り換える。
フィレーネは馬車の窓に顔を近づけ、過ぎ去っていく街の景色を感慨深げに眺めていた。
「マルコの雑貨屋、まだあそこにあるのね」
「はい。今は彼のお孫さんが立派に店を継いでいます」
「そう。マルコ……大きくて、お節介で、いい人だったわね」
「はい。迷子になってた僕を最初に拾ってくれた恩人です」
「あなたを拾ったんじゃなくて、あなたに拾われたのかもね、あの人は。あなたの恩恵を一番に受けたんだから」
それはさすがに言いすぎだ。でも、僕はあえて否定しなかった。今日は、過去の些細な事実について議論をする日ではない。
暫く馬車に揺られると、見覚えのあるなだらかな丘が見えてきた。
丘の上にあるクラウティアの旧屋敷。
「御者さん、ここで降ろして」
「え?奥様……しかし……」
屋敷の門前ではなく、丘の下の街道で、フィレーネが不意にそう言った。御者も不安げに彼女を見る。
「ここで降りたいの。この丘の道を、自分の足で登って、あの家に行きたいの」
僕はやめた方がいいと本能的に思った。今の彼女の体力で、この坂道はあまりに過酷だ。
でも……彼女の真っ直ぐな灰青色の瞳を見ると、どうしても止められなかった。
「フィレーネ様、こちらへ」
馬車から降りる彼女の小さな手を取り、そっと降ろした。杖を渡す。見上げれば、丘の上まで緩やかだが長い坂道が続いている。
「……歩けますか?」
聞いてから、しまったと思った。フィレーネは「歩けるかどうか」と老いを突きつけられるような質問をされるのが昔から嫌いだ。
案の定、むっとしたように唇を尖らせた。
「歩けるわよ。わたしの足腰を舐めないで」
「舐めていません。失礼いたしました」
「ふん」
彼女は歩き出した。ゆっくりと。一歩一歩、地面を踏みしめ、杖をつきながら。
もちろん杖を持たない反対側の手は、僕がしっかりと繋いで支えている。
丘を上りきるのに、たっぷり二十分かかった。以前の彼女なら五分もかからず駆け上がっていた距離だ。
でも、フィレーネは途中で一度も立ち止まらなかった。肩で息をし、額に汗を滲ませながらも、決して歩みを止めなかった。
やがて、冷たい鉄の門の前に立った。
屋敷は昔のまま変わっていなかった。
大公家の管理下で最低限の維持と修繕がされているため、外壁の漆喰は白く保たれ、屋根の瓦も整い、門も錆びていない。
でも、決定的に人の生活の気配がない。時が止まった空間だ。
「ただいま」
小さな声だった。隣にいる僕の耳にしか届かない、掠れた声。
重い門を開けて、庭に入った。群生したラベンダーが咲いていた。あの時と同じ、紫の小さな花が春風に揺れている。
「まだ、咲いてるのね」
「ラベンダーは生命力の強い花ですから。お嬢様が植えた最初の株から、途切れることなくずっと繋がっています」
「ずっと……」
フィレーネがゆっくりと屈み込み、紫の花に顔を近づけた。膝を曲げるのが辛そうだったが、僕はあえて手を出さなかった。
「いい匂い。昔と全く同じ」
玄関の重い扉を開けた。綺麗に拭き清められた廊下を歩く。帳簿と向き合った書斎。そして、台所。
台所の前で、フィレーネが立ち止まった。
「ここで、あなたが最初にスープを作ってくれたのよね」
「はい。あり合わせの干し野菜と塩漬け肉のポタージュ。それから卵とチーズのガレット。ハーブをたっぷりと練り込んだ、焼きたてのパンです」
「まあ。メニューまで全部覚えてるの?」
「えぇ。エルフの記憶力は完璧ですので。その時のフィレーネ様が、あまりの匂いに涎を垂らしながら食べていたことも、鮮明に記憶しております」
「……涎なんか垂らしてないわよ!」
怒ったように笑いながら、更に探索を続ける。
ィレーネの旧寝室。
旧寝室の窓辺に立った。
丘と森と、果てしなく続く空が見える。
同じ景色。
ずっと、ずっと変わらない同じ景色だ。
「リアンくん」
「はい」
「屋根に、上りたいんだけど」
「……本気ですか」
「本気よ。冬の間に約束したでしょ?」
約束した。確かに僕は「かしこまりました」と答えた。執事として、主人の命令は断れない。
「……僕がお運びします。少しだけ反則の魔術を使いますよ」
「いいわよ。今更わたしに隠すこともないでしょう」
「まぁ……はい」
フィレーネの体を、横抱きに抱え上げた。軽い。驚くほどに軽い。
いつの間に、この人はこんなにも小さく、軽くなってしまったのだろうか。胸の奥が締め付けられた。
マナで空中に見えない足場を固め、窓から屋根へふわりと出た。
傾斜のある赤い瓦の上に、持参した分厚い毛布を何重にも敷く。そこへフィレーネをそっと座らせた。
「わあ……」
フィレーネが、少女のように息を呑んだ。
屋根の上から見下ろす景色は、あの頃と何も変わっていなかった。
鬱蒼とした森。活気付いたベルデの街。光を反射して流れる川。どこまでも広がる緑の丘陵。
そして——空。
春の空が果てしなく、どこまでも高く広がっている。ちぎれた雲が白く流れ、名も知らぬ鳥が風に乗って高く飛んでいる。
「綺麗」
「はい、本当に」
フィレーネが僕を見た。皺の刻まれた、老婆の目。けれど、その奥にある灰青色の瞳の輝きは。
絶望の中で空を見上げていた、十二歳のあの日の彼女と、全く同じ色をしていた。
「リアンくん」
「はい」
「ありがとう。ここに連れてきてくれて」
「フィレーネ様の御望みなら、僕はなんだってしますよ」
風が吹いた。少しだけ冷たくて、心地よい春の風。フィレーネの真っ白な髪がふわりと揺れた。
庭のラベンダーの香りが、丘の下から屋根の上まで昇ってきた。
「ねえ。少しだけ、寄りかかっていい?」
「どうぞ」
フィレーネが僕の小さな肩にゆっくりともたれかかった。軽い。春の風に乗る羽のように、儚く軽い。
「あったかいわね、あなた」
「冷えないように、体温を調整していますので」
「魔術?」
「はい」
「反則よ」
「有能な執事の嗜みです」
フィレーネが小さく笑った。それから、安心したようにゆっくりと目を閉じた。
屋根の上で二人並んで空を見ていた。
正確には、フィレーネは目を閉じているのだから見てはいない。
でも、同じ春の風を頬に感じ、同じラベンダーの匂いを吸い込み、同じ温度の空間にいる。
それで十分だった。
彼女が歩んできた長く尊い人生、僕が彼女に仕えてきた途方もない時間、その全てが……この静寂の瞬間に詰まっている気がした。
「帰りたくないな」
ぽつりと、彼女が呟く。
「長居すると、風邪を引きます」
「いいじゃない。少しくらい」
「駄目です。シャルロッテ様にも怒られます」
「頑固ね」
「執事ですので」
フィレーネが静かに目を開けて、高く澄んだ空をもう一度見上げた。
「来年も、また来ようね」
「はい」
「約束よ」
「……約束です」
それは、僕と彼女の間で交わされた、何度目の約束だっただろうか。
いや、何度でもいい。
僕はこの約束を果たしたい。
来年も、再来年も。
残酷な時間が許す限り、何度でも……。




