第四十六話 雪解けの朝に
三月。長く厳しかった冬が終わり、ようやく雪が溶け始めた。
屋根の庇から落ちる雪解け水の、規則正しい雫の音で朝が始まる季節だ。
離れの庭に分厚く積もっていた雪が少しずつ痩せていき、黒々とした土の色が覗き始めた。冷たい土を割って、薔薇の根元に小さな緑色の芽が見える。
春が来る。
「リアンくん、少し窓を開けて」
「まだ風が冷えます。お体に障りますよ」
「少しだけ。ほんの少しでいいから、風の匂いが嗅ぎたいの」
懇願するような声に負け、僕は窓を細く開けた。
確かに冷たいが、真冬のそれとは違う風が部屋に流れ込んでくる。湿り気を含んだ、土と水と、目を覚ました草木の匂い。
世界が息を吹き返す、生きている匂いだ。
フィレーネが安楽椅子に深くもたれながら目を閉じて、その空気を深く吸い込んだ。
「……ああ、春の匂いがするわ」
「はい」
「今年も、ちゃんと来てくれたわね」
当たり前の自然の摂理を奇跡のように大切そうに言う。
老いというものを知る人間にとっては、ただ季節が巡り、次の春を迎えられること自体が神様からの特別な贈り物になるのだろう。
「お散歩、行けるかしら」
「庭の雪が完全に溶けきって、足場が良くなったらお連れします」
「待ちきれないわ」
「もう少しの辛抱です。あと一週間もすれば」
一週間。二百年以上を生きる僕にとっては、瞬きの間の時間だ。
だが、今のフィレーネにとっては──わからない。
体力と時間を削りながら日々を過ごす今の彼女の一週間が、一体どれほどの重さと長さを持つのか、僕には想像することしかできない。
三月半ば。
庭の雪が完全に姿を消した。
その朝、フィレーネはいつにも増して早く目を覚ました。僕が朝の紅茶を持って行くと、寝巻きのまま既にベッドの端に背筋を伸ばして座っていた。
「おはようございます。今日は随分と早いですね」
「だって、庭の雪が溶けたでしょう?」
僕が窓を開ける前から、彼女は知っていた。ベッドから見える小さな窓。
そこから毎日、痛む体を起こして、庭の雪解けを確かめていたのだ。
「お散歩、行きましょう」
「朝食を召し上がった後に」
「今すぐ」
「朝食の後に」
「……はいはい。わかってるわよ」
渋々と僕の小言に従ったが、その日の朝食は五分で平らげた。老婦人とは思えない速さだった。
食欲が戻っている。これが春の持つ力なのだろうか。
杖を手にフィレーネが離れの扉を開けた。
朝の強い光が差し込む。長い冬の間、ずっと薄暗い暖炉の前にいた目には眩しかったのだろう。フィレーネが片手で庇を作り、目を細めた。
「……まぶしい」
「ゆっくりで構いません。土がまだ濡れていて滑りやすいですから」
僕はフィレーネの右側に立った。彼女の左手には杖。そして右側には僕。この配置が、いつの間にか二人の間で完全に定着していた。
庭は冬の名残と春の予兆が入り混じっていた。枯れた芝の間から鮮やかな新芽が顔を出し、丁寧に剪定した薔薇の枝には小さな赤い芽がたくさんついている。
クラウティア邸から株分けしたラベンダーも厳しい冬を越して、地際から力強い新しい葉を伸ばし始めていた。
「咲いてる。ラベンダー、生きてるわ」
「強い花ですから」
「わたしも負けてられないわね」
「勝ち負けの問題ではありませんが」
「気分の問題よ。まだまだ若者には負けないわ」
フィレーネがおかしそうに笑った。冬の間、あまり見られなかった無邪気な笑顔だ。
明るい日差しの中で見ると、顔に刻まれた皺の一本一本までが、柔らかく愛おしいものに見える。
十分ほど歩いて、庭の中央にあるベンチに座った。フィレーネの一番のお気に入りの場所だ。
ここからだと丹精込めた庭全体と、遠くの丘の稜線がよく見渡せる。
「ねえ、リアンくん」
「はい」
「約束、ちゃんと覚えてる?」
「もちろん。忘れるはずがありません」
「いつ頃行けるかしら?」
「四月に入れば、川の水量も安定します。でも、もっと暖かくなってからの方が──」
「四月ね。楽しみだわ」
フィレーネの目が、キラキラと輝いていた。明日の遠足を待ちわびる子供のような目だ。
来月。あと半月ほど。
それまでに、冬の間に落ちた体力を少しでも戻したい。
食事の栄養バランスを細かく見直し、天気の良い日は無理のない範囲で短い散歩を続け、夜は魔術を駆使して十分な睡眠を取らせる。
計画はある。僕は執事だ。主人のために完璧な計画を立てて、それを淡々と実行するのが仕事だ。
だが、どんなに完璧な計画を立てても、僕の魔術をもってしても……この世で一つだけ、どうにもならないものがある。
──時間だ。
三月下旬。
うららかな暖かい日が続き、フィレーネは毎日のように庭に出るようになった。
離れからベンチまでの短い往復。ほんの数十歩の距離だが、今の彼女にとっては大冒険に等しい。
ある日、ユリウスが見舞いに来た。
すっかり初老に差し掛かり、大公としての威厳を漂わせる彼はベンチで休む母の姿を見てホッと目を細めた。
「母上、お元気そうで何よりです」
「元気よ。春ですもの」
「来月、少しお時間をいただけますか。孫たちを連れて参りますので」
「まあ。リーゼとアルトも来るの?」
「ええ。リーゼが、どうしても曾祖母に会いたいと駄々をこねまして」
「曾祖母って。わたしそんな歳……いえ、そうね。紛れもなく曾祖母よね」
フィレーネが可笑しそうに苦笑した。孫の子。ひ孫。つまり四世代目だ。
ユリウスが帰った後、フィレーネがぽつりと呟いた。
「ひ孫がいるのよ、わたし。ねえ、信じられる?」
「……えぇ。フィレーネ様が全ての始まりかもしれませんね」
「違うわ。あなたが始まりよ。あなたがあの門をくぐってくれなかったら、シャルロッテも、ユリウスも、その子供も……孫も……絶対に存在しなかったのよ」
反論しようとして、やめた。この議論は何度繰り返しても決着がつかない。たぶん、永遠につかないだろう。
「春になったら」
フィレーネがまた言った。同じ言葉。冬の間から、もう何度目だろうか。
「あの屋敷に行って、庭のラベンダーの香りを楽しんで、あの古い台所に立って。それから……」
「それから?」
「あの屋根の上から、もう一度だけ空を見たいの」
「屋根はさすがに危険です。万が一にもお怪我をされたら──」
「あなたが支えてくれるでしょ。落ちないように、しっかり」
「……かしこまりました」
断れなかった。出会ったあの日からずっと、この人の真っ直ぐな頼みを断れたことなど、ただの一度もないのだ。
四月が近づいている。
庭の薔薇が、ふっくらと蕾を膨らませている。ラベンダーが美しい紫に色づき始めている。頬を撫でる風が、日ごとに温かくなっている。
春が来る。もうすぐ。
──お願いだから。
あとほんの少しだけ、待って欲しい。
僕は毎朝カップに紅茶を淹れながら、胸の内でそう祈るように思っていた。
誰に頼んでいるのかはわからない。
神様がいるなら。
季節を司り、人間の寿命を定めた何者かがいるのなら。
もう少しだけ。どうか、この人に時間を。
約束を果たすための、春の屋敷へ向かうための時間をください──。




