第四十五話 春を待つ人
冬が長かった。
今年の冬は例年よりひどく寒く、分厚い雪が庭を白く覆い尽くしている。離れの暖炉は一日中、絶やすことなく焚き続けた。
薪の消費量が倍になったが、そんなことは構わない。フィレーネの部屋が少しでも寒いなどという事態は執事として絶対に許容できない。
更に気付かれない程度に魔術で空間を暖かくしているから、温度や湿度は完璧なはずだ。
でも……老齢の人間の体には、底冷えするような冬の空気そのものが堪えるらしい。
フィレーネは暖炉の前に置かれた特等席の安楽椅子から、動かない日が増えた。膝掛けを二枚重ね、老眼鏡をかけて分厚い本を読む。
ページをめくる音は時折止まり、気付けば本を膝に置いたまま静かに眠っている。
規則正しい呼吸は穏やかだ。肌の血色も悪くない。ただ、起きている時間より眠る時間が、少しずつ目に見えて長くなっている。
「フィレーネ様、昼食の用意ができました」
「……ん。もうそんな時間?」
「ええ。十二時を少し過ぎています」
「あら。さっき朝ごはんを食べたばかりのような気がするのに」
三時間前だ。時間の感覚が少しずつ曖昧になっている。心配するほどではない。加齢に伴うごく自然な変化だ。
自然な変化なのだと、一日の中で何度も自分に言い聞かせている。
昼食は温かい根菜のスープと、柔らかく焼いたパン。食べる量は壮年期の半分ほどになったが、時間をかけても必ず残さず食べる。
「リアンくん、このスープ、とっても美味しいわ」
「ギュンターのレシピをそのまま引き継いだものです」
「ギュンター……懐かしいわね。あの人が作る少し濃いめのシチュー、わたし本当に好きだった」
「僕も好きでした」
ギュンターが亡くなったのは、もう随分と前のことだ。
大公邸の厨房で最後まで大きな声を張り上げ、倒れる直前まで包丁を握り、鍋の前に立ち続けた不器用で誇り高い男だった。
彼の遺したレシピは、ノートの切れ端から一滴の調味料の割合、火加減の秒数に至るまで、全て僕の脳裏に完璧に記憶されている。
人間が忘れていくものを留めておくのが、僕の役目だ。
午後。雪が小降りになった頃に、シャルロッテが馬車で訪ねてきた。
シャルロッテは歳を重ねてから、更にフィレーネによく似てきた。
亜麻色の髪には白いものが混じり始め、よく笑う目元には深い笑い皺が刻まれている。だが、活気と瞳の奥にある快活な光はまだ健在だ。
「お母様、元気にしてる?」
「元気よ。あなたこそ、なんだか少し痩せたんじゃない?」
「カイルのお嫁さんが気が利きすぎて、お姑さんの出番が全くないのよ。暇すぎて痩せちゃうわ」
「贅沢な悩みね」
母と娘が楽しげに笑い合う。僕は人数分の紅茶を運んだ。フィレーネの分、シャルロッテの分、そして僕の分……。
シャルロッテが「リアンも突っ立ってないで座りなさいよ」と昔のように言うので、仕方なくテーブルに着く。
帰り際、シャルロッテが玄関で外套を羽織りながら僕を呼び止めた。
「リアン」
「はい」
「正直に教えて。お母様、本当のところはどう?」
さっきまでの弾むような声とは違う。娘としての甘えを捨てた、年老いた母を案じる大人の女性の切実な声だった。
「大きな問題はありません。病の気配もない。ただ、体力は確実に落ちています。起きているより、眠る時間が長くなりました。今年の厳しい冬が想像以上に体に堪えているようです」
「そう」
「春になって暖かくなれば、また庭を歩けるようになると思います」
「うん。……春が来るまで、お母様をお願いね。リアン」
「もちろんです」
シャルロッテが馬車に乗り込んだ。車窓から静かに手を振る姿が、ふと幼い頃の記憶と重なった。
あの頃は、馬車の窓から身を乗り出して落ちそうになりながら「いってきまーす!」と大声で叫んでいたのに。
今は微笑みながら、手袋越しに小さく手を振るだけだ。
人は変わる。成熟し、老いていく。
変わらないのは僕だけだ。
一月。そして二月。
雪が絶え間なく降り続いた。フィレーネは離れから殆ど出なくなった。
だが退屈はしていないらしい。本を読み、古い友人たちへ手紙を書き、暖炉の前で編み物をする。
孫やひ孫たちへの贈り物だという小さな手袋やマフラーが、籠の中に少しずつ増えていく。
「リアンくん、今年はあなたの分も編みたいわ」
「僕はエルフですので、寒さには耐性が……」
「いいから。何色がいいかしら?」
「……では、白で」
「銀髪に白いマフラーじゃ、雪に埋もれて見えなくなるわよ」
「それはそれで、かくれんぼに便利です」
「意味不明。却下よ。あなたの瞳に似合う青にする」
主人の鶴の一声で勝手に決まった。三日後、深い青色のマフラーが出来上がった。
編み目は昔ほど均一ではない。指の力が弱くなっているのだろう。ところどころ目が緩んでいて、形も少し歪だった。
完璧な仕上がりとは言えないマフラー。
でも……信じられないほど温かい。
「ありがとうございます。大切に保管します」
「大切に仕舞い込まなくていいわよ。毎日首に巻いて、使い倒しなさい」
「では、大切に使い倒します」
「どっちよ、もう」
フィレーネがおかしそうに笑った。
そうして──二月の終わり。
「ん……?」
夜中にふと目が覚めると、微かな明かりが漏れていた。フィレーネの部屋だ。
こっそり様子を見に行くとフィレーネが寝巻きの上にショールを羽織り、窓辺に座っていた。
月明かりの中、静かに外を眺めている。
「眠れませんか」
「びっくりした。リアンくん、足音くらい立ててちょうだい」
「すみません。気配を消すのは昔からの癖で」
隣に立った。窓の外は一面の銀世界だ。冴え冴えとした月が明るく、積もった雪が青白く光っている。
「何を見ていたんですか」
「庭。この雪のずっと下に、あの薔薇の根があるでしょう」
「はい」
「あんなに冷たい土の中で……春になったらちゃんと咲くのかなって、少し心配になっちゃって」
「咲きますよ。毎年、見事に咲いていますから」
「そうね。毎年ね」
フィレーネが冷たい窓ガラスにそっと手を当てた。ガラス越しの冷気が、深く皺の刻まれた指先に伝わっているはずだ。
「ねえ、リアンくん」
「はい」
「春になったら……約束、守ってね」
「クラウティアの屋敷に行く約束ですね」
「うん」
「もちろんです。長旅に耐えられるよう、船も完璧に整備してあります」
「……ふふ。あなた、本当に準備がいいわね」
「執事ですので。お嬢様の願いを叶えるのが仕事です」
フィレーネが目を閉じた。月明かりが、雪のような白髪を柔らかく照らしている。
「早く春が来ないかな」
独り言のような声は老婦人の声ではなかった。
十二歳の少女の声だった。
崩れかけた屋敷の冷たい窓から外を眺めて、凍えながら、誰も来ない道をひたすらに待っていた、あの頃の声。
「来ますよ。もうすぐです」
「うん」
「さあ、お布団に戻りましょう。すっかり冷えてしまいます」
「もう少しだけ」
「駄目です。風邪を引きます」
「……はいはい。相変わらず小言が多いわね」
渋るフィレーネを寝室に送り届けた。分厚い布団をかけ、暖炉に新しい薪を足す。
「おやすみ、リアンくん」
「おやすみなさいませ、フィレーネ様」
「春になったら……」
「はい。約束です。必ず」
フィレーネが安心したように目を閉じた。数回瞬きをして、すぐに規則正しい寝息が聞こえ始めた。
僕は暫くその場に立ち尽くしていた。
月明かりに照らされた寝顔。今までの時間と苦労が深い皺となって刻まれた顔。
でも、寝顔の輪郭は屋敷で出会った十二歳の時と何一つ変わっていない。
穏やかで、無防備で、僕を完全に信頼しきった顔だ。
春は来る。必ず来る。
雪は溶け、薔薇は芽吹き、あの屋敷の庭のラベンダーは再び紫に染まる。
それまで僕がすることは、いつもと同じだ。
暖炉の火を絶やさず、マナで部屋を暖かく保ち、完璧な紅茶を淹れ、この人の隣に居続ける。
ずっとそうしてきたように。
窓の外で音もなく雪がまた降り始めていた。




