第四十四話 人生は瞬きだった
毎日、同じ温度で紅茶を淹れ続けた。
九十五度の完璧な湯。立ち上る湯気の向こう側で世界は早回しの幻燈機のように回っていた。
庭の薔薇が何度も咲いては散り、大公邸を行き交う足音が次々と入れ替わっていく。
ユリウスが凛々しい青年となって大公位を継ぎ、アレクシス様が満足そうに第一線を退く。
人間たちの時間は疾風のように駆け抜けていく。
ハイエルフの僕にとって、それは文字通り瞬きのような歳月だった。
──けれど、その一瞬の瞬きの中には。
面倒くさくて。
騒がしくて。
どうしようもなく温かい日々が確かに詰まっていたのだ──。
そして。
フィレーネが七十歳になった。
……とそう書くと。随分と時間を飛ばしたように見えるだろう。
実際、飛んだ。僕の体感では。
十数年前──ユリウスが大公位を継承した後。
アレクシスは第一線を退き、約束通りフィレーネと旅に出た。
いつかの時、こぼしていたその願いを彼は約束通り叶えたのだ。
二年かけて大陸の端まで巡る、長い長い道程。
僕はもちろん同伴した。
かつて請われた通り、荷物持ちと護衛、そして専属の紅茶係を兼任する旅だった。
重責から解放された旅の空の下で二人はよく笑った。取り戻せなかった時間を埋めるようなその光景は、僕にとっても悪くないものだった。
旅から戻り、大公邸の離れで穏やかな隠居生活を送るようになった後——
アレクシスは六十八歳で逝った。
病に倒れたわけではない。ただ、人間としての寿命の灯火が静かに燃え尽きただけだ。
それは本当に穏やかな最期だった。
秋の夜。少し冷え込んできたので、僕はいつもより蒸らし時間を長めにとった紅茶を淹れ、書斎へ向かった。
『アレクシスさま、紅茶をお持ち……』
扉を開けると彼は安楽椅子に深く腰掛けたまま、目を閉じていた。
『……』
膝の上には開かれた詩集があり、そこにはシャルロッテが幼い頃に描いた絵が挟まれていた。
──フィレーネ様を、幸せにしてください。
──肝に銘じます。
彼らが結ばれたあの日に交わした、男同士の短い誓い。彼はその約束を、生涯をかけて見事に果たし切ったのだ。
少しだけ白髪の混じった彼の寝顔は、僕が知るどの瞬間よりも満ち足りていた。
フィレーネは泣かなかった。
葬儀の間も、弔問客の対応も、一度も涙を見せなかった。元大公夫人は、最後まで背筋を伸ばしていた。
泣いたのは、全てが終わった深夜だった。
僕が厨房で紅茶を淹れていると、足音が聞こえた。
裸足の足音。
フィレーネが、寝巻き姿で立っていた。
「リアンくん」
「はい」
「アレクシスが、いないの」
その一言で、全部が崩れた。
フィレーネが厨房の床に座り込んで泣いた。声を殺して。肩を震わせて。
僕は何も言わなかった。隣に座って、温かい紅茶を差し出した。フィレーネがカップを受け取るまでに、長い時間がかかった。
やがて両手でカップを包んだ。いつもの仕草。子供の時から変わらない仕草。
その手が皺だらけになっていた。
「ごめんね。みっともないところ見せて」
「みっともなくありません」
「嘘つき」
「嘘ではありません。フィレーネ様は、今日も綺麗です」
「……ばか」
それから更に年月が過ぎた。
アレクシスを見送った後も、フィレーネは立ち止まらなかった。
当主となったユリウスを陰ながら支え、シャルロッテが連れてくる息子たちの成長に目を細め、大公家の母として、祖母として、静かにその役目を全うしていった。
だが、時間は誰にでも平等に……冷酷なまでに降り積もる。
僕という唯一の例外を除いて。
美しかった亜麻色の髪はすっかり雪のように白くなり、書斎で文字を追う時には老眼鏡が手放せなくなった。
庭を散歩する時間は少しずつ短くなり、階段を上る足取りは年々ゆっくりとしたものに変わっていった。
そして──フィレーネが七十歳を迎えた春のことだ。
「本邸は少し広すぎるわ。もう少し、小さな庭のある静かな場所で過ごしたいの」
彼女のささやかな願いで、大公邸の敷地内にある離れへの引っ越しが決まった。
ユリウスが当主として本邸を使い、フィレーネは小さな庭付きの離れで暮らしている。
使用人は最小限。日常の世話はもちろん、僕がしている。
シャルロッテは月に一度は必ず母を訪ねてくる。
長男カイルはもう成人済みで、すでに結婚している。
ユリウスは壮年。大公として申し分ない手腕を振るい、領地は過去最高の繁栄を見せている。妻と二人の子供がいる。
僕が知る人間の世代が、三つになった。
フィレーネ。シャルロッテとユリウス。その子供たち。
そして──マルコは死んだ。エリーゼも死んだ。
ハインリヒも、ギュンターも、ミーナも。フィレーネの人生に関わった人間たちが、一人、また一人と消えていった。
僕だけが残っている。全員の顔を、全員の声を覚えたまま。
七十歳のフィレーネは、穏やかだった。
白髪を綺麗に結い上げ、老眼鏡をかけ、離れの書斎で本を読む。
庭のラベンダーに水をやる。編み物をする。孫が来れば顔を綻ばせ、昔話を聞かせる。
足腰は弱っていた。杖なしでは長い距離を歩けない。階段は僕が手を貸す。冬は関節が痛むらしく、暖炉の前から動かない日もある。
だが、頭は明晰だった。目の光は衰えていない。紅茶の味の違いを今でも正確に言い当てる。
「リアンくん、今日の紅茶、蒸らし時間が二秒長くない?」
「御名答でございます。気温が低いので」
「うふふ、当たりね」
「五十八年飲み続けたのは伊達ではありませんね」
「五十八年……そんなになるのね」
フィレーネが窓の外を見た。冬枯れの庭。
薔薇の枝が裸になっている。春になれば芽吹く。毎年そうだ。
「リアンくん」
「はい」
「わたし、いい人生だったと思う」
不意打ちだった。
「急にどうされました」
「急じゃないわよ。七十年かけて出した結論」
「まだ結論を出すには早いです」
「そうかしら。もう十分よ。お腹いっぱい」
フィレーネが笑った。皺が深く刻まれた顔に、十二歳の面影が一瞬だけ重なる。
「あの屋敷で一人ぼっちだったわたしが、夫を持って、子供を二人育てて、孫まで見れて。贅沢すぎるくらい」
「フィレーネ様が自分で掴んだものです」
「あなたのおかげよ」
「僕は……」
「紅茶を淹れただけ、でしょ。知ってる。何百回も聞いたわ」
先に言われた。
「でもね、リアンくん。あなたの紅茶がなかったら、わたしは何も始められなかった」
崩れかけた屋敷の台所で淹れた紅茶。
あの一杯の味も、僕は覚えている。
「あの紅茶は、正直あまり美味しくなかったですけどね」
「でも、温かかった」
フィレーネがカップの縁に唇を当てた。ゆっくりと飲む。
「確かに今の方がずっと美味しいけど、あの時の一杯が一番好き」
返す言葉がなかった。
二百年以上生きてきて、言葉に詰まる回数が増えている。全部、この人のせいだ。
「春になったら、あの屋敷に行きましょう」
「……はい」
「約束よ」
「約束です」
暖炉の火が静かに燃えている。フィレーネの影が壁に揺れている。小さくなった影。
僕の影は変わらない。十歳の子供の影のまま。
二つの影が並んで揺れている。大きさが違う。形が違う。
でも、同じ火に照らされている……。




