第四十三話 背中を追い越す日
ユリウス……大公家の嫡男にして次期当主は父を超え始めていた。
王立学園を当然のように首席で卒業した後、彼は息をつく暇もなくアレクシスの下で政務の実地訓練に入った。
僕が専属の補佐として付き、領地経営における複雑な帳簿の読み方から、腹の探り合いとなる外交書簡の作法、さらには貴族社会の裏のルールまで徹底的に教え込んだ。
僕にとっては、彼が二番目の教え子になる。一番目は他でもないフィレーネだ。
あの時は隙間風が吹き込む崩れかけたクラウティア邸の埃っぽい書斎だったが、今は重厚な絨毯が敷かれた大公邸の豪奢な執務室である。教える環境は天と地ほど違う。
だが、僕が教える内容の本質は一切変わらない。数字の裏に隠された真実を読め。綺麗事ではない泥臭い現実を見ろ。
そして何より──誰の言葉でもなく自分の頭で考え抜け。
ユリウスは……教え手である僕が背筋を冷たくするほど、怖いほど優秀だった。
フィレーネは泥臭いまでの努力型だった。幾度も壁にぶつかり、涙をこらえながら一つずつレンガを積み上げ、膨大な時間をかけて名君へと成長した。
しかしユリウスは根本的に違う。僕が一つ教えれば、その背景にある三手先、四手先の構造まで瞬時に読み解く。
僕が周到に用意した難解な課題に対しても、僕が想定すらしていなかった斜め上の極めて合理的な解法で平然と答えてくるのだ。
「リアン。この税制改革案ですが、南部と東部で税率を変えるべきではないですか。過去十年の降水量と土壌の生産性が全く違うのに、一律の税を課すのは不公平かつ非効率です。南部の税を一時的に下げ、余剰資金で灌漑設備を整えさせた方が、五年後の大公領の総税収は確実に上がります」
「……正解です。というか、その税制コントロールを教えるのは、僕のカリキュラムでは来月の予定でした」
「来月まで待つ必要がありますか」
ない。この天才に待つ必要など何一つない。
実地訓練の進捗をアレクシスに報告すると、大公は深く息を吐いて苦笑した。
「息子に追い抜かれるというのは……肩の荷が下りるような安堵と、自分の時代が終わりを告げる一抹の寂しさが混じった、なんとも言えない気分だな」
「喜ばしいことです。大公家の後継者として、これ以上ないほど申し分ありません」
「リアン殿にそう言ってもらえると安心する。……そろそろ、彼への引き継ぎを本格的に考える時期だな」
アレクシスはまだ壮健だった。剣を振るう腕は鈍っておらず、眼光も鋭い。だが為政者として美しく退く時期を見極める冷静さも、彼はしっかり持ち合わせていた。
「引退したら──」
「引退したら?」
「フィレーネと、少しゆっくりしたい」
不意に出た飾らない本音だった。アレクシスは照れたように、少しだけ白くなった髭を撫でた。
「領地の立て直しから始まって、ずっと走り詰めだったからな。若い頃は忙しくて、二人の時間が少なかった。ユリウスが大公を継いで座を退いたら、二人きりで……あてのない旅にでも出ようかと密かに考えているんだ」
「とても良いお考えだと思います。フィレーネ様もきっとお喜びになるでしょう」
「リアン殿も一緒に来てくれるか」
「喜んでお供いたしますが……水入らずのお二人の旅に、執事が同行するのは少々無粋ではありませんか?」
「無粋でも構わんよ。フィレーネが美味い紅茶を飲めないと機嫌が悪くなる。俺もだが」
これだからこの夫婦は。僕は呆れたように、しかし内心の嬉しさを隠しながら苦笑した。
ユリウスの目覚ましい成長は、大公邸の空気を少しずつ、しかし確実に変えていった。
政務の重要な会議でユリウスが発言する機会が増え、領民からの直接の陳情にも彼自身が対応するようになった。
単に理屈で切り捨てるのではなく、相手の苦境に寄り添う姿勢を見せながら、最も現実的な妥協点を探り当てる手腕は見事なものだった。
最初は「若様」と親しみと頼りなさを込めて呼ばれていたのが、いつしか畏敬を込めた「ユリウス様」に変わり、やがて領民たちの間でも「次代の若き大公」と囁かれるようになった。
アレクシスはそれを誇らしげに見ていた。そして、フィレーネも。
「あの子、なんだかどんどんアレクシスに似てきたわね。横顔の厳しさなんてそっくり」
「政務を処理する処理能力と冷徹さは、すでにアレクシス様以上かと。ただ、人間の機微に触れる柔らかさは、間違いなくフィレーネ様に似ています」
「あら。わたしにそんな柔らかさがあったかしら? 褒めすぎよ」
「事実です。ユリウス様は数字に強いですが、領民との対話では相手の隠した感情を読む力がある。それは両方から受け継がれた、彼だけの最大の武器です」
フィレーネが目を細めた。老眼鏡の奥にある灰青色の瞳は、遠くを見つめているようだった。
白髪はすっかり増えた。かつて氷のように鋭かった顔の輪郭も、少し柔らかく丸みを帯びた。
でも、その目の奥に宿る知性の光だけは十二歳の頃から何も変わっていない。
「ねえ、リアンくん」
「はい」
「わたしたちの子供が二人とも立派に巣立ったら、わたしの仕事ってこの先何が残るのかしら」
「フィレーネ様の仕事は子育てだけではありません。大公夫人としてのご公務が山のように──」
「わかってるわよ。でもなんだか急に、ふっと手が空いた気がして」
手が空いた。かつて、滅びゆく領地を救うためにペンを握りしめ、インクで指先を真っ黒にしていた彼女の手。
大公夫人として無数の重圧を跳ね除け、家族を守り抜いてきた小さな手が、今、すべての役割を終えて静かに膝の上で休まろうとしている。
ずっと走り続けてきた人が、人生で初めて立ち止まろうとしているのだ。
「アレクシス様が、大公を退いたらお二人で旅に出たいと仰っていましたよ」
「……聞いた。あの人、急にそんなロマンチックなこと言い出すのよ。年甲斐もなく照れるじゃない」
「照れている場合ではなく、具体的に行き先を考えましょう。荷造りから道中の護衛、宿の確保まで、僕が全て完璧に手配しますので」
「気が早いわよ、リアンくん」
「早い方が、景色のいい一番良い部屋の宿が取れます」
フィレーネが肩を揺らし、少女のように声を立てて笑った。
その日の深夜。僕は大公邸の冷たい屋根の上に上った。
マナで体温を保っている僕には心地よいが、屋根の瓦は氷のように冷え切っていた。
夜空を見上げる。今夜はひどく星が多い。冬の凍てつく空気はガラスのように澄み切っていて、瞬く星の光がナイフのように鋭く目を刺した。
ユリウスが大公を継ぐ。シャルロッテは愛らしい子供の母になった。アレクシスは引退を考えている。
そしてフィレーネは──穏やかに老いていく。
巨大な大公邸の時計の針が、確かに次の時代を指し始めている。
僕だけが、何も変わらない。屋根の上から見下ろすこの庭の景色だけが、早回しのようにどんどん変わっていく。
昔、フィレーネに言われた言葉を思い出す。
『わたしがお婆さんになっても、あなたは子供のままなんだね』
あの時よりもずっと深く、血の味がするほど、その言葉の重さと残酷さがわかるようになった。
いや、フィレーネはまだお婆さんではない。
よく笑うし、よく怒るし、僕の淹れた紅茶を美味しそうに飲むし、孫のために編み物だってする。
まだ、大丈夫だ。二人で過ごす時間は、まだたくさん残されている。
そう、自分自身に強く言い聞かせた。
そう言い聞かせないと──心の奥底から、どうしようもない感情が堰を切って溢れ出してしまいそうだったから。
「さて。感傷に浸る時間は終わりだ」
一つ息を吐いて、屋根から静かに降りた。明日の朝も、僕は完璧な温度で紅茶を淹れる。
フィレーネには、香りを立たせた華やかなブレンドを。
アレクシスには、頭を覚醒させるための渋みの強いものを。
ユリウスには、長時間の政務に耐えうる少し甘みを持たせたものを。
三つのカップに、それぞれの好みに合わせた茶を注ぐ。
それが僕の変わらぬ朝の儀式であり、僕の誇り高き仕事であり──この長い永遠の中で見つけた、僕の人生の全部だ。




