第四十二話 時間は優しくない
ユリウスが王立学園に入学した。入学試験は全科目首席。
魔術理論、歴史学、そして政治学。
すべての筆記試験で満点に近い数字を叩き出し、初日から教官に「私から教えることは何もない」と言わしめたという逸話は瞬く間に学園の語り草になったらしい。
机上の空論ではなく、大公邸で実際の領地経営を肌で学んできた彼にとって、学園の座学など確認作業に過ぎなかったのだろう。
僕が幼い頃から叩き込んだ基礎がしっかりしている証拠でもあるが、それは胸の中に留めておく。
そして同じ年、シャルロッテに第一子が生まれた。
元気な男の子で名前はカイル。レオンハルトの優しげで垂れ気味な目元と、シャルロッテの屈託のない大きな笑い方を受け継いでいた。
知らせを受けたフィレーネは届いた一通の手紙を読みながら、時間を置いて三回泣いた。
「おばあちゃんだって。わたしが。おばあちゃん……」
「おめでとうございます、おばあちゃん」
「誰がおばあちゃんよ! わたし、まだそんな年じゃないから!」
「えぇ……?」
涙を拭いながら怒るのか、喜ぶのか。相変わらず感情の処理が忙しい人だ。
後日、祝いの品を持ってシャルロッテの家を訪ねると、カイルを胸に大事そうに抱いたシャルロッテが玄関で待っていた。
すっかり母親の顔になっている。
かつては朝に弱くてドレスの裾を泥だらけにして木登りばかりしていたお転婆娘が、今は柔らかい布で赤ん坊を包み、慈しむような瞳で小さな寝顔を見つめている。
人間の成長というものは、いつ見ても劇的で魔法のようだ。
「リアン、抱いてあげて」
カイルはとても大人しい赤ん坊だった。シャルロッテの幼い頃とは大違いだ。夜泣きも少なく、僕が抱けばすぐにすやすやと眠りにつく。
「この子、リアンに抱かれると秒で寝るんだけど。なんでだろ?」
「腕の角度と、厳密な体温管理の問題です」
少しだけズルを使っている。本来、エルフの体温は人間よりも少しだけ低い。だから僕は、自身の体温をマナで微調整して、赤ん坊にとって最も心地よい最適な温度を常に維持しているだけだ。
ほんの少しの、執事としてのささやかな気遣いだ。
そして──。
大公邸の……フィレーネの時間が静かに進んでいく。
変化は決して劇的ではない。毎日欠かさず顔を合わせていると気付かないほどの、微細な砂粒のような積み重ねだ。
階段を上る速度が、去年より少しだけ遅い。
庭の散歩が三十分から二十分になった。
紅茶のカップをソーサーに戻す時、かつては無音だったのに今はほんの僅かに鳴ることがある。
読書の時に無意識に眉間に皺を寄せて目を細めるようになった。
どれも加齢として自然なことだ。
人間の体は変わる。永遠に同じ状態を保つことなどできない。当たり前のことだ。
その当たり前の事実が、目の粗いやすりとなって僕の胸を静かに削っていく。
「リアンくん、老眼鏡って……やっぱり格好悪いかしら」
「いえ。とても知的に見えると思いますよ」
「お世辞ね」
「事実です。僕の目に狂いが生じたことは一度もありません」
老眼鏡をかけたフィレーネは、確かに知的に見えた。
銀縁の眼鏡越しに書類を読む横顔は、かつて社交界で畏怖とともに囁かれた『氷の女公爵』の異名にふさわしい凛とした鋭さと気品があった。
美しさは形を変えただけで、少しも損なわれてはいない。
ただ──彼女に老眼鏡が必要になったという事実そのものが、僕の中に小さな棘として刺さって抜けないのだ。
アレクシスは老成した頼もしい大公になっていた。
髪は半分以上が白くなり、目尻や額に刻まれた皺も深くなった。それは彼が領民の生活を背負い、悩み抜いてきた勲章だ。
体は頑健で政務への意欲も全く衰えていない。為政者としての円熟期である。
「リアン殿」
「はい」
「ユリウスにそろそろ本格的な政務を教え始めたい。実地での教育を手伝ってもらえるか」
「かしこまりました。喜んで」
「それから──フィレーネのことだが」
アレクシスがふと、執務の手を止めて言葉を切った。
書斎の窓から庭を見下ろしている。視線の先には、フィレーネがユリウスと並んでゆっくりと歩いている姿が見える。
「最近、少し疲れやすいようだ」
「はい。午後の休息の時間を、以前より長めに取らせていただいております」
「……あぁ、ありがとう」
その一言に、大公としての威圧感や威厳はなかった。
ただ妻の体を心から案じる、一人の不器用な夫の震える声だった。
夏が来て、秋が来て、また冬が巡った。
フィレーネは、少しだけ丸くなった。体型の話ではない。性格の話だ。
若い頃の常に気を張っていたガラスのような鋭さが、陽だまりのような柔らかさに変わっている。
使用人への指示も穏やかになり、冷徹だった書簡の文面も丸みを帯びた。
声を荒らげて怒ることがすっかり減り、些細なことでふふっと笑うことが増えた。
「歳を取るとね、怒るのすら面倒になるのよ。体力を使うから」
「フィレーネ様が怒らないと、使用人たちが露骨に緊張感を失います。昨日も庭師がサボっていました」
「あなたが怖い顔をして睨みを利かせていればいいでしょ。大公邸の裏の主なんだから」
「この顔で怖い顔を作っても、効果は薄いかと」
「確かに。いつまで経っても可愛いだけね」
可愛いはやめてほしい。二百歳を超えたハイエルフに向かって言う言葉ではない。
ある冬の夜。
暖炉の前で、フィレーネが編み物をしていた。カイルへの贈り物だという、温かそうなオレンジ色の小さな手袋。
「リアンくん、ちょっとそこに座りなさいよ」
「執事は主人の前では──」
「いいから」
促されるまま向かいの安楽椅子に腰を下ろした。
暖炉の火がパチパチと鳴り、二人の影を琥珀色の壁に揺らしている。
「ねえ。わたしたち、もう長年以上一緒にいるのよね。あなたがクラウティアの屋敷に来てくれた日から」
「はい。正確な日数を申し上げましょうか?」
「結構よ。途方に暮れそうだから」
フィレーネが編み棒を動かしながら、ぽつりと言った。
「最近ね、朝起きるたびに思うの。ああ、今日もリアンくんの紅茶が飲めるって」
「毎朝、欠かさずお届けしていますから。それが僕の唯一にして最大の存在意義です」
「そうじゃなくて。今日も無事に飲める、ってことが嬉しいの。当たり前のことが、明日も当たり前にあるとは限らない……この歳になると、それが身に染みてわかるのよ」
「……」
カ編み棒が触れ合う音だけがしばらく続いた。オレンジ色の毛糸が、少しずつ手袋の形を成していく。
「わたしの父も母も……私ほどは生きられなかったわ。だから私がこんなに長く、穏やかな時間を過ごせていることが、時々不思議に思えるの」
空気が止まった。
「……フィレーネ様は、ご両親よりずっと健康です」
「そうかしら」
「そうです。僕が毎日の食事と生活習慣を完璧に管理しています。根拠のない楽観ではありません」
強い語気で返した僕を見て、フィレーネが顔を上げ小さく笑った。
安心したような、でも少しだけ寂しいような。複雑で美しい笑顔だった。
「あなたがいると、本当に安心する。昔からずっと」
「それが僕の仕事ですので」
「仕事ね。頑固なエルフくんだね」
フィレーネは穏やかな顔で、再び編み物に目を戻した。
暖炉の火が爆ぜた。薪が崩れ、赤い火の粉がふわりと舞い上がる。
僕は立ち上がり、無言で新しい薪を足した。火の勢いが戻り、彼女の手元を明るく照らす。
「リアンくん。来年の春、またあの屋敷に行きましょう」
「クラウティアの旧邸ですね。かしこまりました」
「再来年も。その次の年も」
「何度でも。お供します」
「約束よ」
「約束です」
編み棒の規則正しい音と、暖炉の薪が爆ぜる音。
この静かな夜のことを、僕は絶対に忘れない。
いや、ハイエルフの脳は忘れることなどできないのだ。
暖炉の心地よい温度。穏やかなフィレーネの横顔。編みかけの小さなオレンジ色の手袋。窓の外でしんしんと降る雪の白さと、微かに漂う薪の匂い。
その全部が、僕の脳髄に極彩色のまま鮮明に刻まれる。数百年、数千年経とうとも、決して色褪せることなく。いつでも昨日のことのように思い出すことができる。
それが幸福なことなのか、それとも呪いのように残酷なことなのか。
二百年を生きた程度のエルフの頭では、未だにその答えは出ない。
でも……たぶん……。
両方なんだろう。




