第四十話 屋敷は広くなり、紅茶は二杯になった
シャルロッテが嫁いで大公邸は静かになった。
劇的に何かが変わったわけではない。使用人はたくさんいるし、アレクシスは相変わらず忙しいし、ユリウスは日々背が伸びている。賑やかさで言えば、十分だ。
ただ、朝食の席にぽっかりと空いた椅子が一つある。それだけのことだ。
それだけのことが──思いのほか大きい。
「リアンくん、シャルロッテから手紙」
「何と?」
「『レオンの寝相が最悪。助けて』ですって」
「それは助けようがありません」
「あと、『リアンの紅茶が恋しい。レオンが淹れてくれるけど薄い』」
「……今度、レオンハルト殿に淹れ方を仕込みましょうか」
シャルロッテからの手紙は週に一通届いた。中身は大抵くだらないことだ。
市場で変な形の南瓜を見つけた。隣家の猫が窓から入ってきた。レオンが騎士団で昇進した。そういう些細な日常の報告。
フィレーネはその手紙を全て、書斎の引き出しに丁寧に保管していた。
月日は流れた。
季節が三度巡り、ユリウスが麗しい青年になった頃。大公邸の日常は穏やかに推移していた。
アレクシスは大公としての貫禄は十分で、領地経営にも安定感がある。
白髪が目立ち始めたが、本人は「渋みが増した」と笑っている。渋みというか単に老けただけだと思うが。
ユリウスは順調に成長していた。大公家の嫡男にふさわしい聡明さと礼儀正しさ。
家庭教師を論破するのが日常になりつつあり、来年には王立学園への入学が控えている。
そしてフィレーネは更に成熟した女性になっていた。
変わったことと言えば——白髪が増えた。それだけだ。
体調は良好。食欲もある。笑い方も変わらない。紅茶を両手で包む癖も健在。
ただ、以前より少しだけ歩く速度がゆっくりになった。
階段を上る時に手すりに触れるようになった。庭を散歩する時間が短くなった。
老いというには早い。人間の寿命を考えれば、まだ折り返しにも達していない。
でも……始まっている。ゆっくりと。確実に。
僕にだけ見える速度で、フィレーネの時間が進んでいる──。
「リアンくん」
「はい」
「最近、あなたの視線が気になるんだけど」
「何のことでしょう」
「わたしが階段上る時、じっと見てるでしょ」
「転倒防止の確認です」
「まだそんな歳じゃないんだけど」
「執事の習慣です。お気になさらず」
フィレーネが疑わしそうな目をした。鋭い。この人の勘だけは数十年経っても衰えない。
「……わたしが年を取るの怖いの?」
「怖くありませんよ」
「嘘」
そう、嘘だ。
──怖い。
一日一日、少しずつ変わっていくこの人を、目を逸らさずに見ている。
「紅茶、もう一杯いかがですか」
「話を逸らした」
「逸らしていません。おかわりの確認です」
「もう……いただくわ」
紅茶を淹れ直した。蒸らし時間をいつもより三秒長くする。午後の気温が下がっているから、少し濃いめの方が美味しい。
フィレーネがカップを受け取り、一口飲んで目を閉じた。
「……美味しい。今日のは特に」
フィレーネが目を開けて僕を見た。
何かを言いかけて、やめた。代わりに紅茶をもう一口飲んだ。
「ねえ、リアンくん」
「はい」
「来月、クラウティアの屋敷に行きたいの」
思わず手が止まった。
「クラウティア家の屋敷は、今は大公家の管理下で──」
「わかってる。でも、行きたいの」
「何故急に?」
「急じゃないわ。ずっと思ってたの。シャルロッテが嫁いで、少し時間ができたから」
フィレーネは窓の外を見ていた。遠くを見る目。遥か前の景色を、瞳の奥に映しているような目。
「始まりの場所に、一度戻りたくなったの」
始まりの場所。
崩れかけた屋敷。
剥がれた漆喰。
錆びた門。
そして──色褪せたドレスを着た十二歳の少女。
「……かしこまりました。手配いたします」
「ありがとう。二人で行きましょう」
「二人?」
「アレクシスは政務で忙しいし、ユリウスは勉強があるでしょ。わたしとリアンくんだけでいいわ」
「では馬車を手配しましょうか」
「ううん。リアンくん、あの船まだある?」
「船?」
「ほら、川を下って王都に行った時の。あなたが作った丈夫なやつ」
あれか。まだある。河岸の小屋に保管してある。
木材をマナで分子結合させた船体は、二十年経っても劣化しない。やりすぎた気もするが。
「ありますよ。多分百年後もあると思います」
「じゃあ、行けるわね」
フィレーネが笑った。悪戯っぽい笑い方。この表情は十二歳の時からまったく変わらない。
来月。あの屋敷に戻る。
フィレーネと二人で。
昔来た同じ道を逆に辿る。
「……」
何がそんなに嬉しいのか、自分でもよくわからない。
ただの出張だ。執事が主人に同伴する、業務の一環だ。
──それなのに、紅茶を淹れる手がいつもより軽い。
「リアンくん、鼻歌歌ってない?」
「歌っていません」
「絶対歌ってた」
「空耳です」
歌っていたかもしれない。




