第三十九話 花嫁の父は泣き、執事は紅茶を淹れる
シャルロッテの結婚式。
ここ数ヶ月、僕の業務量は過去最大を記録していた。フィレーネの結婚式の時も相当だったが、あれから十数年。今回の規模は当時と比べ物にならない。
招待客は千名を超え……会場は王都大聖堂。披露宴は大公邸の大広間。
花の手配、料理の選定、席次表の作成、楽団の手配、宿泊施設の確保、警備の配置──タスクリストが百を超えた。
前世の社畜時代のデスマーチが可愛く思えるレベルだ。
「リアン、死んでない?」
「エルフは過労では死にません」
「そうなの?」
「嘘です」
式の三日前。最後の打ち合わせを終えた夜、シャルロッテが僕の部屋を訪ねてきた。
珍しいことだった。この子が自分から僕の部屋に来るのは何か深刻な話がある時だけだ。
「お邪魔しまーす。……相変わらず何もない部屋だね」
「必要なものは揃っています」
寝台と、小さな机と、椅子が一つ。窓辺に鉢植えの薔薇。それだけの部屋。
この屋敷に長年いて、私物が増えないのは我ながらどうかと思うがハイエルフに物欲は薄い。
シャルロッテが椅子に座り、僕は寝台の端に腰を下ろした。
「あのさ」
「はい」
「ドレス、見てくれない?」
「明日の最終確認で──」
「そうじゃなくて。今。わたしが着てるところを、見てほしいの」
その目が真剣だった。悪戯の色がない。
「……かしこまりました」
隣室でドレスに着替えたシャルロッテが、戻ってきた。
白い。
純白のドレス。繊細なレースが肩から腕に流れ、裾が床に広がっている。亜麻色の髪を下ろしたままの簡素な姿だが、それで十分だった。
──フィレーネの結婚式の記憶が重なる。
同じように白いドレスを着て、同じように不安そうな目で僕を見た。
「どう?」
「……。綺麗で」
「なんか間があった」
「感慨に浸っていました」
「リアンが感慨って、珍しい」
珍しくない。ただ口に出さないだけだ。
シャルロッテがドレスの裾を摘んで、くるりと回った。子供みたいな仕草。花嫁が一瞬だけ五歳に戻る。
「ねえ、リアン」
「はい」
「わたしがいなくなっても、お母様のこと頼むね」
「いなくなるわけではないでしょう。ブラント家はそう遠くありません」
「そうだけど。毎日は会えなくなるから。お母様、最近ちょっと疲れやすいでしょ。無理してるの、わたしにはわかるの」
気付いていたのか。
「……お任せください」
「あと、ユリウスのことも。あの子、しっかりしてるように見えて、甘えるのが下手だから」
「存じています」
「あと、お父様。お酒飲みすぎないように見張って」
「それは以前から」
「あと——」
「お嬢様」
「……」
「全部、僕の仕事です。心配しなくて大丈夫ですよ」
シャルロッテが唇を噛んだ。目が潤んでいる。
「……りあん」
久方ぶりに、幼い発音で呼ばれた気がした。
「りあんがいるから、安心して出ていける。——ありがとう」
泣かなかった。唇を震わせていたけれど、涙は流さなかった。フィレーネの娘だ。泣くのは、本当に限界の時だけ。
「ドレス、皺になりますから脱いでください」
「はーい」
いつもの調子に戻った。着替えて部屋を出ていく間際、シャルロッテが振り返った。
「明日の紅茶、とびきりのやつね」
「言われなくても」
足音が廊下に消えた。
一人になった部屋で、窓辺の薔薇を見た。月明かりに照らされた白い花弁。
明後日には、この屋敷の足音が一つ減る。
♢ ♢ ♢
結婚式の朝。
天気は快晴。雲一つない秋空。これは偶然だ。僕が天候を操作した証拠はどこにもない。
大聖堂は花で埋め尽くされていた。白百合と薔薇。
バージンロードの先に、レオンハルトが立っていた。正装の軍服。ブラント家の紋章が胸に光っている。
この一年で騎士団の試験に合格し、騎士の身分を勝ち取った。僕が「二年で受かる」と言ったのを一年で成し遂げた男だ。
大聖堂の入口でアレクシスがシャルロッテの手を取った。父と娘。バージンロードを歩く。
アレクシスの横顔が見えた。現大公。堂々たる体躯。威厳のある顎髭。
目が赤い。
泣いている。盛大に。
「もう、お父様ったら!泣かないでよ……」
「シャルロッテ……今日だけは許してくれ」
大公が人前で泣くのは、外交上いかがなものかと思うが、今日は許される日だろう。
「泣くのはレオンハルトの特技なんだから。お父様の出番はないわよ」
シャルロッテがアレクシスの腕を引いて小声でそう言った。アレクシスが鼻をすすった。会場から温かい笑いが漏れる。
レオンハルトの前でアレクシスがシャルロッテの手を離した。その手がレオンハルトに渡る。
アレクシスが一歩下がった。その背中が、少しだけ小さく見えた。
「シャル……もう私の手から離れちゃうのね」
フィレーネは最前列で静かに座っていた。泣いてはいない。ただ、ハンカチを膝の上で握りしめている。
隣にユリウスが座っている。姿勢が正しい。表情は落ち着いているが、姉の姿から目を離さない。
誓いの言葉が交わされた。鐘が鳴った。拍手が大聖堂に響いた。
僕は一番後ろの柱の影に立っていた。従者の場所だ。
花弁が舞う中、シャルロッテとレオンハルトが並んで歩いてくる。新郎新婦。出口に向かって。光の中へ。
シャルロッテが、僕の前を通り過ぎる瞬間──ほんの一瞬だけ、こちらを見た。
「──」
唇が動いた。声は出していない。でも読めた。
『ありがとう』
僕は軽く会釈を返した。それだけ。それ以上のことは、従者はしない。
披露宴は大公邸で盛大に行われた。料理は完璧だった。
花も音楽も席次も給仕の動線も。全て僕が組んだ計画通りに進んだ。
深夜。客人が去り、新郎新婦が離れの寝室に引き取った後。
大広間の片付けを使用人たちに任せ、僕は厨房にいた。
湯を沸かしている。
フィレーネが来るだろう。確信があった。こういう夜、この人は眠れない。
案の定、足音が聞こえた。
「やっぱり起きてた」
「フィレーネ様こそ」
フィレーネが厨房の椅子に座った。今日は一日中笑顔を保っていたから、顔に疲れが滲んでいる。
紅茶を淹れた。いつも通りの味。いつも通りの温度。
フィレーネが両手でカップを包んだ。
「終わったわね」
「はい」
「シャルロッテ、綺麗だった。レオンハルト、泣いてたわね」
「アレクシス様もです」
「あの人は昔からああよ。政務では全然泣かないのに」
フィレーネが紅茶を一口飲んだ。
「リアンくんは、泣かなかったの」
「執事は泣きません」
「嘘」
バレている。大聖堂の柱の影で、一度だけ目元を拭った。一度だけ。
「……一度だけです」
「一度でも泣いたなら、十分よ」
フィレーネが笑った。疲れた、でも穏やかな笑顔。
「ありがとう、リアンくん。今日の式、全部完璧だった」
「僕はエルフの執事ですから」
人生の集大成みたいなやり取りだ。たぶんこの先もずっと同じことを言い合う。
フィレーネが紅茶を飲み干して、カップを置いた。
「さて、明日からは少し、静かになるわね」
「そうですね……」
「寂しく、なるかな」
「なるでしょうね」
「リアンくんは?」
「僕はいつも通りです」
「嘘つき」
嘘つきだ。わかっている。
「おやすみ、リアンくん」
「おやすみなさいませ、フィレーネ様」
足音が遠ざかった。
一人になった厨房で、使ったカップを洗った。フィレーネのカップ。縁に薄く紅茶の跡が残っている。
明日の朝、このカップにまた紅茶を注ぐ。明後日も。その先も。
ただ、テーブルの席が一つ空く。シャルロッテの席。
あの賑やかな朝が、少しだけ静かになる。
「……寂しいもんだな、人生って」
誰もいない厨房で、呟いた。
不老不死のくせに人生とか言っている。
笑える。
……笑えるはずだ。
でも、笑えなかった。
なんでだろう。




