第三十七話 だからバレたくなかったんだ
決闘の翌日。
放課後の学園は静かだった。社交実習の片付けを終え、シャルロッテの馬車を待つ間、僕は中庭の外れにある東棟の裏手を歩いていた。
人通りのない場所だ。石壁に蔦が這い、木漏れ日が地面にまだらな影を落としている。
気配を感じたのは、角を曲がった瞬間だった。
五人。石壁に沿って一列に並んでいる。全員、耳が長い。
エルフだ。
王立学園には、近くのエルフの森から留学している生徒が十数名いる。
外交関係の一環で、エルフの貴族の子弟が人間の学問を学びに来ている。彼らとは廊下ですれ違う程度で、特に接点はなかった。
その五人が僕を見た瞬間——一斉に膝をついた。
頭を深く垂れ、右手を胸に当てる。エルフの最敬礼。王族に対してのみ許される形式だ。
「……あの、何をしてるんですかね」
返事はない。五人とも微動だにしない。
「こんな子供の従者に頭なんか下げて。誰かに見られたら、皆さんの立場が困るでしょう」
彼らはエルフの貴族だ。対して僕は大公家の従者。対外的な地位で言えば、比べ物にならない。
しかも外見は十歳の子供だ。この光景を誰かに見られたら、変な噂が立つ。
先頭のエルフが顔を上げた。銀緑の髪を短く刈り込んだ青年。名前は確か——ファルネーゼ。エルフの名門出身で学年首席だったはずだ。
「貴き御方。貴方様の正体に気付けずにいた我々をお許しください」
「?」
一拍、間が空いた。
「……あぁ、なるほど」
昨日の決闘か。
レオンハルトとの立ち合いで、僕は極力魔力を抑えていたつもりだった。
だが、最後の一歩——あの踏み込みの瞬間、身体強化に使ったマナが僅かに漏れたらしい。人間には感知できない程度の、ごく薄い放出。
だが、エルフには感じ取れる。
そして、ハイエルフのマナはエルフのそれとは根本的に質が違う。水と海くらい違う。一滴でも漏れれば、エルフなら即座に気付く。
バレた。
「ハイエルフの御方が、何故このような場所に」
「遊んでるだけです」
「遊び、ですか」
「ええ。だから皆さんも、僕みたいな子供に頭を下げる必要なんてないので。立ってください。膝が汚れますよ」
五人は立たなかった。
「我々エルフにとって、ハイエルフ様は忠誠を誓う絶対の存在です。たとえ貴方様がどのような姿であろうと、どのような立場であろうと」
はぁ。
面倒だ。心底面倒だ。だからバレたくなかったんだ。
ハイエルフとエルフの関係を、人間の言葉で説明するのは難しい。
王と臣下というのが一番近いが、正確ではない。もっと根源的な——本能に刻まれた上下関係だ。
エルフの魂の奥底に、ハイエルフへの服従が組み込まれている。理屈ではない。血だ。
僕はそれが嫌いだった。
「あのねぇ。ハイエルフだって言っても、僕はまだ最年少の——二百歳くらいしか経ってない未熟者なんで。敬われるような存在じゃないです」
「リアン様。我々はまだ二百歳にも届いていない未熟者です」
そうだった。
エルフの寿命は人間の十倍程度。七百年から千年。目の前の五人は学生だから、おそらく百七十歳前後。人間で言えばシャルロッテと同い年くらいの感覚だ。
対してハイエルフは不老不死。寿命という概念がない。
理不尽な話だ。
「とにかく、立ってください。お願いですから」
五人がようやく立ち上がった。だが姿勢は崩れない。背筋が伸び、目は伏せたまま。
「どうか——我々に忠誠を誓わせてください」
「やめてください」
「ハイエルフ様にお仕えすることは、エルフにとって最高の栄誉です」
「マジでやめて」
「我々の剣と魔法を、リアン様に——」
「やめてって言ってるでしょ。日本語わかる? あ、日本語じゃなかった。共通語わかります?」
混乱で前世の言語が出た。二百年ぶりだ。
ファルネーゼが真剣な目で僕を見つめている。本能に逆らえと言っても、無理なのだろう。
彼らにとって、ハイエルフの命令は身体が勝手に従ってしまうものだ。
「僕は従者です。この学園では、ただの従者。それ以上でもそれ以下でもない。皆さんは皆さんの学業に集中してください。僕のことは忘れて——」
「尊き御方が人間の小娘に仕えているのは、あまりにも——」
空気が変わった。
自分でもわかった。体の奥から、冷たいものが這い上がってくる感覚。マナではない。もっと古い、もっと深い場所から来る何か。
「今、なんて言った」
声が変わっていた。自分の声なのに、聞き慣れない響き。低く静かで温度がない。
発言したのは五人の中で一番若いエルフだった。翡翠色の目をした少女。さっきまで真剣な顔をしていた目が今は戦慄で見開かれている。
「僕が誰と共にいようと、誰に仕えようと——それは僕が決めることだ」
一歩、前に出た。
五人のエルフが同時に後ずさった。後ずさったのではない。
身体が勝手に退いたのだ。ハイエルフの威圧に、エルフの本能が反応した。
「フィレーネ様を、シャルロッテ様を……僕の主人たちを小娘と呼ぶな」
石壁に蔦が這う静かな裏庭で、風が止んだ。木漏れ日が消えた。僕の周囲の空間が、微かに歪んでいる。マナが漏れている。抑えきれていない。
ファルネーゼの顔から血の気が引いていた。膝が震えている。立っていられるだけ立派だ。
他の四人は既に膝をついている。一人は額を地面に押しつけていた。
これがハイエルフとエルフの関係だ。
僕が死ねと命じれば彼らの身体は自ら命を絶つ。命令に逆らうことができない。
意思ではない。構造の問題だ。ハイエルフの言葉は、エルフの存在そのものを支配する。
──歪だ。
どうしようもなく、歪だ。
この力が嫌だ。前世で散々上司の理不尽に苦しんだ人間だったから、余計に。
そして今、僕はその力を——怒りに任せて、子供たちに向けている。
最悪だ。
深く息を吐いた。マナを引き戻す。空間の歪みが消え、木漏れ日が戻る。風が吹く。
五人のエルフは、まだ震えていた。
「ごめんよ」
頭を下げた。ハイエルフがエルフに頭を下げるのは、たぶん歴史上初めてだ。
「怒る必要なんてなかった。僕が悪い。不快な思いをさせて、本当に申し訳ない」
ファルネーゼが顔を上げた。目が潤んでいる。
恐怖か、それとも——
「リアン、様」
「その『様』もやめてほしいんだけど。無理か。無理だよね」
「……我々こそ、失礼を。リアン様の大切な方を侮辱いたしました」
「侮辱したのは彼女だけじゃないよ。人間を見下す言い方だった。エルフが人間より優れているなんて考えは、僕は好きじゃない」
五人が黙った。
「皆さんの忠誠心は理解しています。ありがたいとも思う。でも僕はただの執事です。紅茶を淹れて、掃除をして主人の愚痴を聞いて、たまにお嬢様を学園まで送る。それだけの存在です」
「で、ですが……貴方様は上位存在の……」
「持って生まれただけです。選んだわけじゃない。この力も、この寿命も」
翡翠色の目の少女が、おずおずと口を開いた。
「リアン様は……人間の傍にいて、苦しくはないのですか。彼らは、すぐに——」
「死ぬ、ですか?」
少女が頷いた。
「苦しいですよ」
言ってしまった。考えるより先に口から出た。
「苦しい。でも、苦しいから離れるなんて、もっと嫌だ」
沈黙。
裏庭に、遠くから鐘の音が聞こえた。放課後の終鈴。シャルロッテの馬車が来る時間だ。
「一つだけ、お願いがあります」
「なんなりと」
「僕のことは黙っていてください。この学園では、この街では……僕はただのエルフの従者です。子供の姿をした、ちょっと紅茶が上手い、ただの執事。それでいい」
ファルネーゼが深く頭を下げた。
「……御意に」
「あと、さん付けでいいですよ」
「それはお許しください。無理です」
だろうね。
僕は裏庭を後にした。角を曲がると、陽の当たる中庭に出る。生徒たちの笑い声が聞こえる。日常の音だ。
少し歩いてから、立ち止まった。
さっきの自分を思い返す。怒りに任せてマナを解放した、あの瞬間。フィレーネを侮辱されて、我を忘れた。
あれは失態だ。
彼らが悪いんじゃない。エルフの価値観ではハイエルフが人間に仕えるなど、太陽が地面に這いつくばるようなものだ。
驚いて当然。疑問を持って当然。
それを力で黙らせるのは、僕が一番嫌いなやり方だったはずだ。
「……反省」
呟いて歩き出した。
正門にシャルロッテが立っていた。鞄を肩にかけて、あくびをしている。
「遅いー。何してたの」
「少し用事がありまして」
「ふうん。じゃ、帰ろ」
馬車に乗り込む。シャルロッテが窓際の席に座り、すぐに居眠りを始めた。帰りの馬車で寝るのは日課だ。
小さな寝息。揺れる亜麻色の髪。
この子やこの子の母親を小娘と呼ばれた時の怒りを、まだ胸の奥に感じている。
僕はただ、平穏に暮らしたいだけなのに。
紅茶を淹れて、花を育てて、この家の人たちの日常を守る。それだけでいいのに。
馬車が石畳の上を走る。窓の外を、夕焼けの街が流れていく。
面倒なことが増えた。
でもまあ、いつものことだ。
面倒なことは、いつだって僕の方から向かってしまうのだ……。




