第三十四話 古い帳簿はよく笑う
翌日の午後、僕はフィレーネに呼ばれて書斎に向かった。
行ってみるとフィレーネは机の上に古い革張りの帳簿を広げていた。背表紙が擦り切れ、紙が黄ばんでいる。見覚えがあった。
「フィレーネ様。それは……」
「うん。クラウティア家の帳簿。昔のやつ」
僕が最初にフィレーネに算術を教えた時に使った帳簿だ。
崩れかけた屋敷の書斎で埃まみれの机に並んで座って、一行ずつ数字を追ったもの……。
多数ある帳簿のうちの一つだ。
「なんでこれがここに」
「実は引っ越しの時に持ってきてたの。捨てられなくて」
フィレーネがページをめくった。インクが滲んだ数字の列。
最初の数ページは僕の字だ。その後に、フィレーネの字が始まる。震えた筆跡。数字の形が不揃いで、所々に書き損じがある。
「ひどい字……」
「当時は精一杯でしたよ」
「わかってる。わかってるけど、改めて見ると恥ずかしいわね」
ページを進めると字が少しずつ変わっていく。線が安定し、数字の大きさが揃い、計算式が正確になっていく。
「ここ見て」
フィレーネが指さしたページの端に小さな書き込みがあった。僕の字だ。
『合格。明日から応用に入る』
「これ見た時、すごく嬉しかったの。覚えてる?」
「覚えています。フィレーネ様が飛び上がって、インク壺を倒しました」
「それは覚えてない」
「僕は覚えています。インクの染みを取るのに三十分かかりました」
フィレーネが声を立てて笑った。それから次のページをめくる。収支の計算。買い付けの計画書。星露草の取引記録。
一つ一つが、あの頃の日々を呼び起こす。
「ねえ、リアンくん。最初に星露草を売りに行った日のこと覚えてる?」
「エリーゼさんの薬房で、フィレーネ様が自分で価格交渉をした日ですね」
「声が震えてたでしょ」
「震えてました。でも、ちゃんと言い切りました」
「あの時、八十点って言ったの覚えてる?」
「……次があるという意味で」
「意地悪だなって思った」
「教育方針です」
「今ならわかるけどね」
フィレーネはページから目を上げて、窓の外を見た。大公邸の庭。
手入れの行き届いた薔薇と芝生。あの頃の荒れ果てた庭とは何もかもが違う。
「シャルロッテの話をしようと思って、この帳簿を引っ張り出したの」
「お嬢様の?」
「うん。あの子にも、こういう経験が必要なんじゃないかって。自分の手で何かを掴む経験。わたしにとっての帳簿や星露草みたいな」
「恋愛の話ではなく?」
「恋愛も含めてよ。でもね——わたしが本当に変わったのは、恋をした時じゃない。あの帳簿の数字が合った時。自分の足で街に出て、自分の声で交渉した時。そっちが先だった」
フィレーネの声は静かだったが、確信に満ちていた。彼女が自分で辿り着いた結論。反論の余地がない。
「シャルロッテには、レオンハルトのことより先に自分が何をしたいのか見つけてほしい。誰かの隣に立つ前に、一人で立てるようになってほしい」
フィレーネは黙って帳簿の表紙を撫でた。指先が古い革の上を滑る。
「リアンくん」
「はい」
「あなたは、全部覚えてるのよね。わたしが忘れてしまったことも」
「エルフの記憶は消えませんので」
「それって——」
フィレーネが言葉を切った。何かを言おうとして、別の言葉に変えた。
「わたしがいなくなった後も?」
空気が変わった。
書斎の時計が秒を刻む音だけが、しばらく続いた。
「はい」
「そう」
フィレーネは立ち上がり、窓辺に歩いた。夕日が差し込んでいる。亜麻色の髪に混じった白が金色の光に透けている。
「わたしは忘れていくのに、あなただけが全部背負うのは不公平よね」
「不公平ではありません。僕が覚えていたいから覚えているだけです」
「それ、余計に重いんだけど」
振り返ったフィレーネの顔は笑っていた。でも目の縁が少し赤い。
「ねえ。一つお願いしていい?」
「なんでしょう」
「シャルロッテにも、わたしにしてくれたことと同じことをしてあげて。目に見えないけど、一生消えないもの」
「既にしているつもりですが」
「知ってる。知ってるけど、改めてお願いしたいの。母親として」
フィレーネが帳簿を閉じた。古い革の表紙がぱたりと音を立てた。
「この帳簿、シャルロッテに見せようかな」
「いいと思います。お嬢様はきっと笑いますよ。フィレーネ様の字を見て」
「やっぱりやめようかな」
「見せるべきです。お嬢様にとって、これ以上の教材はありません」
フィレーネが唇を尖らせた。大公夫人がする表情ではないが、こういう時だけ十二歳に戻る。
「紅茶、もう一杯もらえる?」
「かしこまりました」
厨房に向かう廊下で、ユリウスとすれ違った。
「リアン。母上は書斎ですか」
「はい。紅茶を持っていきますので、ユリウス様もご一緒にいかがですか」
「では、お言葉に甘えます」
子供の台詞ではない。だが、この子はこれでいい。
紅茶を三つ淹れた。フィレーネの分、ユリウスの分、それから——一つ余分に。
書斎に戻ると、フィレーネがユリウスを膝に乗せて帳簿を見せていた。
「これがね、お母さんが昔書いた数字。ひどいでしょ」
「母上、この三と五の区別がつきません」
「うっ」
「リアンが教えたのですか」
「そうよ。リアンくんはね、お母さんの先生だったの」
ユリウスが僕を見上げた。真っ直ぐな目。
「リアンはすごいですね」
「すごくありません。ただの執事です」
「ただの執事は、母上にあんな字を書かせません」
五歳にして既に皮肉が利く。誰に似たのか。僕ではないことを祈る。
フィレーネが笑い、ユリウスが微笑み、書斎に夕日が差し込んでいる。
余分に淹れた紅茶は、僕が窓辺で飲んだ。
一人で飲む紅茶は味気ない。自分で淹れたくせに。
でも、この部屋に漂う二人分の笑い声が十分すぎる味付けになっていた。




