第三十三話 母と娘は、似ていることを認めない
学園から戻るとフィレーネが書斎にいた。
最近のフィレーネの日課は午前中にユリウスの教育を見守り、午後は書斎で過ごすことだ。
大公家の実務はアレクシスと専属の文官が担っているが、フィレーネは未だに領地経営の報告書に目を通す習慣を崩さない。
「お帰り、リアンくん。学園はどうだった?」
「お嬢様が試験に遅刻しかけるのを阻止する仕事が増えました」
「あの子、朝弱いわよね~。誰に似たのかしら」
「フィレーネ様も十代の頃は朝が苦手でしたが」
「わたし?そんなことなかったでしょ」
あった。冬の朝、毛布から引き剥がすのに十五分かかった日を僕は正確に覚えている。だが指摘すると長くなるので、紅茶を差し出すだけにした。
フィレーネが両手でカップを包んだ。いつもの仕草。
「ありがとう。今日はいつもより美味しい気がする」
「いつもと同じです」
「そう? 気分の問題かしら」
気分の問題ではない。今日は湿度が低いので、蒸らし時間を八秒延ばした。
その差を感じ取れるのは人生の大半を僕の紅茶を飲み続けた舌だからだ。本人に自覚はないだろうが。
書斎の窓から午後の陽光が差し込んでいた。フィレーネの横顔を照らす光の中に白髪が数本見える。半年前より増えた。
「ねえ、リアンくん」
「はい」
「シャルロッテのこと、少し相談があるの」
紅茶を飲みながら、フィレーネが切り出した。
「あの子、最近手紙をよく書いてるでしょう」
「ええ。自室で遅くまで」
「誰に書いてるか、知ってる?」
「心当たりはあります」
「レオンハルト・フォン・ブラント……でしょ」
知っていた。やはり母親の目は誤魔化せない。
「中堅貴族のブラント家の子息。家柄は悪くないけど、大公家の婚姻相手としては格が足りない。本人の資質はどうなの?」
「真面目で誠実で、背筋が伸びていて、嘘をつかない目をしています」
「褒めてるの?」
「観察結果を述べています」
フィレーネが紅茶をソーサーに置いた。指先で縁をなぞる。考え事をする時の癖だ。
「わたしはね、リアンくん。あの子に好きな人と結婚してほしいの」
「はい」
「でも、大公家の長女がそれを自由にできないことも知ってる。政略じゃなくても、周囲が黙ってない。アレクシスの耳にも、他家からの縁談がちらほら届いてるし」
「ユリウス様が嫡男ですから、シャルロッテお嬢様に跡継ぎの義務はありません。その分、多少の自由は——」
「そうね。だから望みはある。でも、猶予があるうちに——ちゃんと、あの子自身に考えさせたいの」
フィレーネが僕を見た。成熟した女性の目。十二歳の時の怯えも、二十二歳の時の鋭さも、その奥にちゃんと残っている。
でも今の瞳に一番多く含まれているのは、母としての温度だった。
「わたしの時は考える暇もなかった。気付いたらリアンくんが帳簿の読み方を教えてて、気付いたら伯爵家と交渉してて気付いたらアレクシスと……」
「順序立てて考える余裕がなかったのは、状況が切迫していたからです。フィレーネ様のせいではありません」
「……うん。だからこそ。シャルロッテには自分の足で歩いてほしいの。わたしみたいに誰かに引っ張ってもらうんじゃなくて」
引っ張った覚えはない。僕は道を示しただけで歩いたのはフィレーネだ。だが、この議論は何度やっても平行線なので今日は譲る。
「リアンくん」
「はい」
「あの子に、さりげなく聞いてみてくれない? レオンハルトのこと」
「僕がですか」
「わたしが聞くと構えるでしょ。お母様に恋愛のこと聞かれたくないって顔するの、目に見えてる」
「お嬢様の恋愛事情を聞き出す任務は、執事の職務範囲外だと思いますが」
「範囲内にして。大公家令嬢付き筆頭執事の特別任務」
「……かしこまりました」
断れるわけがない。この人に頼まれて断れたことは一度もない。
フィレーネがふっと笑った。
「あの子、あなたには何でも話すから。昔から」
「甘えているだけです」
「甘えられるって、信頼されてるってことよ」
紅茶を飲み干して、フィレーネが立ち上がった。最近、椅子から立つ時にほんの僅かに間が空く。
膝か、腰か。本人は気付いていない程度の、ほんの一瞬の躊躇い。
……僕の目はそういうものを拾ってしまう。
「ユリウスのおやつの時間ね。あの子、今日は算術の応用を頑張ったから、甘いものにしてあげて」
「かしこまりました。蜂蜜のビスケットでよろしいですか」
「ええ。あ、でもあんまり甘すぎないように。歯が……」
「心得ています」
フィレーネが書斎を出ていった。足音が廊下に遠ざかる。
一人になった書斎で、僕はフィレーネが座っていた椅子を見た。座面に残るかすかな温もり。窓の光。机の上に広げられた報告書。
この部屋の空気に、フィレーネの気配が染みている。
「……」
彼女が笑った回数。怒った回数。泣いた回数。紅茶を飲んだ回数。僕の名前を呼んだ回数。
──全部、僕の記憶に刻まれている。
消えない。ハイエルフの記憶は消えない。
それがどれほど残酷なことか、フィレーネは知らないだろう。
知らなくていい。
夕方。ユリウスにおやつを出した後、中庭で薔薇の手入れをしていると、フィレーネとアレクシスが並んで散歩しているのが見えた。
アレクシスがフィレーネの歩調に合わせて、ゆっくり歩いている。フィレーネが何か言って、アレクシスが笑う。
穏やかな光景だった。
数十年前に崩れた屋敷でスープを二人で啜っていた少女は、今、夫と並んで庭を歩いている。
僕が望んだ景色だ。
フィレーネが幸せであること。家族に恵まれ、穏やかに老いていくこと。
望んだはずの景色が、こんなに眩しいのは——たぶん、夕日のせいだ。
そういうことにしておく。
「リアン殿」
アレクシスが僕に気付いて手を挙げた。
「夕食の前に少し時間をくれないか。シャルロッテの件で相談がある」
フィレーネと目が合った。小さく頷かれる。夫婦で同じことを考えているらしい。
「かしこまりました」
僕は剪定鋏を置いて、二人の後を追った。
三つ並んだ影が夕日に伸びている。大きいのが二つと、小さいのが一つ。
この影の長さも少しずつ変わっていくのだろうか。
彼らは老いと共に小さくなり……。
僕の影だけが、いつまでも同じ大きさのまま──




