第三十二話 学園に執事は要らないはずだった
事の発端はシャルロッテの一言だった。
「リアン、学園に来てよ」
「は?」
「だから、学園。来て」
朝食の席でトーストにジャムを塗りながら、この上なく軽い調子で言った。重大な提案をする時ほど軽く言うのはフィレーネ譲りの悪癖だ。
「理由を伺っても」
「来月から社交実習が始まるの。各家の作法の違いを実演する授業で、使用人を同伴してもいいって。むしろ推奨って」
「他の生徒も連れてくるんですか……」
「うん。侍女とか、護衛騎士とか。うちは——」
「僕しかいないと」
「そういうこと」
大公邸には五十人以上の使用人がいる。
だがシャルロッテ付きの筆頭従者は僕だ。他の誰かを連れていく選択肢は、この子の頭にはないらしい。
「お嬢様。僕の外見で学園に行くと、迷子の子供に間違われますが。それにエルフだし」
「大丈夫でしょ。エルフの生徒なら学園にも何人かいるし」
大丈夫かなぁ。
一週間後。僕は王立学園の門をくぐっていた。
正確にはヴァルシュタイン大公家令嬢付き従者という肩書きで、社交実習の期間限定で学園への出入りを許可された形だ。
王立学園は王都グランヴェルの北区にある。白い石造りの校舎が中庭を囲むように建ち、奥には訓練場と図書塔がある。
貴族と裕福な商家の子弟が通う、この国の最高学府だ。
門を入った瞬間、視線が集まった。
「ねえ、あの子誰?」
「エルフ? エルフだよね?」
「ちっちゃい……可愛い……」
「誰かの弟?」
予想通りだ。
「リアン、人気者じゃん」
「お嬢様、笑い事ではありません」
「いい年して照れてる」
いい年とはどの年だ。二百歳超の存在に言う台詞ではない。
社交実習の教室に入ると、既に十数名の生徒が従者を伴って着席していた。
侍女、護衛騎士、年配の家令——どれも大人だ。子供の姿をした従者は僕だけ。当然、視線が集中する。
担当教官の教授が僕を見て、一瞬だけ眉を動かした。
「ヴァルシュタイン嬢。こちらが貴女の従者かね」
「はい。筆頭執事のリアンです」
「……エルフか」
「はい」
ヴェーバー教授は何か言いかけて、飲み込んだ。賢明だ。外見で判断すると碌なことにならない。
実習が始まった。
内容は実践的だった。来賓を迎える際の従者の立ち位置、給仕の手順、主人と来客の会話中における従者の所作。
座学ではなく、実際に動いて覚える形式だ。
最初の課題は、紅茶の給仕だった。
「各家の従者は、自家の作法で紅茶を淹れ、給仕してください。生徒は他家の作法を観察し、違いをまとめること」
各従者が動き始めた。侍女が丁寧にカップを温め、騎士が不慣れな手つきで茶葉を量り、家令が手慣れた動作でポットを回す。
流石に騎士に給仕をしろというのは酷じゃないかな……。
僕はいつも通りにやった。
茶葉を量る。湯の温度を確認する——指先のマナで微調整。気付かれない程度に。ポットに注ぎ、蒸らし、カップに移す。
シャルロッテの前にカップを置いた。
教室が静かになった。
「なにそれ……すごい……」
最初に声を上げたのは、隣の席の令嬢だった。鼻を動かしている。
「香りが全然違う。同じ茶葉よね?」
「同じ茶葉です」
「なんで。なんでこんなに——」
教授がカップを手に取り、一口飲んだ。数秒間黙り込み、カップをソーサーに戻した。
「この茶を淹れるのに、何年の経験がある」
「さあ。数えていませんが、それなりに」
「諸君」
教授が教室を見回した。
「これが技術というものだ。覚えておきなさい」
シャルロッテが隣で得意げな顔をしていた。自分が淹れたわけでもないのに。
休み時間。
中庭のベンチで待機していると、生徒が集まってきた。最初は二人。次に四人。気付けば十人ほどに囲まれていた。
「ねえ、君って何歳なの?」
「何歳に見えますか」
「十歳くらい?」
「ありがとうございます」
答えになっていないが、追及されなかった。
「紅茶の淹れ方、教えてくれない?」
「ちょっとだけでいいから」
「僕は従者として来ているので、生徒への個別指導は——」
「リアン、教えてあげなよ」
シャルロッテが後ろから口を挟んだ。余計なことを。
結果として、休み時間の三十分で簡易的な紅茶講座を開く羽目になった。
湯の温度、蒸らし時間、注ぎ方の角度。基本だけ教えたが、生徒たちは妙に真剣だった。
「すごい、全然違う」
「これお母様に教えたい」
「うちの侍女より上手い……」
侍女より上手いのは当然だ。比較対象が間違っている。
その日から、僕の学園での立場は微妙に変わった。
「シャルロッテ様の従者」から「紅茶の先生」に。
さらに翌週には「掃除の達人」「裁縫の匠」「庭の魔術師」と称号が増えた。全部、余計なお世話の結果だ。
汚れた実習室を見かねて掃除したら感謝された。制服のほつれを直してあげたら噂になった。
中庭の花壇の配置を少し変えたら、園芸部の顧問が泣いて喜んだ。
「リアン、もう学園の有名人だよ」
「不本意です」
「嘘。ちょっと楽しそうだった」
「楽しそうに見えたなら、お嬢様の目が曇っています」
「はいはい」
シャルロッテはからかうように笑って、校舎の中に駆けていった。
その背中を見送る。彼女は友人に囲まれ、教師に期待され、学園生活を謳歌している。
——その輪の中に、最近やけに近い位置にいる男子生徒がいることに僕は気付いていた。
穏やかな目元。中堅貴族の子息。名前は確か……。
「リアンさん」
声をかけられた。振り返ると、その男子生徒が立っていた。
「初めまして。レオンハルト・フォン・ブラント、と申します」
丁寧な物腰。背筋が伸びている。目が真っ直ぐだ。嘘を言う目ではない。二百年分の経験が、そう告げている。
「シャルロッテ様には、いつもお世話になっています」
「お世話に……ですか」
「はい。国政学の授業でご一緒させていただいて。とても聡明な方ですね」
聡明。まあ、間違ってはいない。朝起きられないことを除けば。
「ありがとうございます。お嬢様にお伝えしておきます」
「あ、いえ、その——直接は、ちょっと」
耳が赤い。
……ああ、そういうことか。
面倒な季節が来たらしい。
人間というのは面倒な季節が来るのが早いものだ──




