第三十一話 お嬢様は、朝が弱い
何年経っただろうか。
シャルロッテ・フォン・ヴァルシュタイン、十七歳。
王立学園の二年生にして、大公家の長女。成績優秀、剣術は中の上、社交術は母親譲りの一級品。
非の打ちどころのない貴族令嬢——と言いたいところだが、致命的な欠点が一つある。
朝に弱い。
「お嬢様、朝です」
「……んー」
「お嬢様」
「あとごふん」
「五分前にも同じことを仰いました」
「……あとごふん」
僕はカーテンを開けた。秋の朝日が容赦なく寝室に差し込む。シャルロッテが毛布を頭まで引き上げた。
「お嬢様。本日は一限目に国政学の試験があると伺っていますが。単位を落とすとまずい科目なんですよね」
毛布が跳ね上がった。
「なんで先に言わないの!」
「先に言いました。昨晩と、五分前と、その五分前に」
シャルロッテが恐ろしい速度で着替え始めた。僕は朝食のトレイをテーブルに用意する。
焼きたてのパン、温かいスープ、チーズ、果物。それから紅茶。フィレーネと同じ銘柄だがシャルロッテは砂糖を二杯入れる。
五分後、制服姿のシャルロッテが飛び出してきた。王立学園の紺色の上着に白いブラウス。亜麻色の髪を適当に一つに結んでいる。適当すぎる。
「お嬢様、髪」
「いい、時間ない!」
「大公家の令嬢が鳥の巣を頭に載せて登校するのは困ります。三十秒ください」
「三十秒で何ができるのよ!」
できる。僕を誰だと思っている。
手櫛で髪を整え、リボンで結い直す。前髪の流れを調整し、襟元を正す。二十八秒。
「前から思ってたけど、リアンって人間じゃないでしょ」
「エルフです。ご存知でしょう」
「そういう意味じゃなくて……あぁ、もういいわ!」
シャルロッテはパンを咥えたまま階段を駆け下りていった。大公邸の正面に、学園までの馬車が待っている。
「行ってきます!」
「いってらっしゃいませ」
嵐のような朝が終わった。毎朝これだ。
馬車が門を出るのを見届けてから、僕は屋敷に戻った。一階の廊下で小さな影とすれ違う。
「おはようございます、リアン」
「おはようございます、ユリウス様」
ユリウス・フォン・ヴァルシュタイン。五歳。大公家の嫡男。
この子は姉と正反対だ。朝は六時に自分で起き、寝間着を畳み、顔を洗い、身支度を整えてから食堂に現れる。
五歳で。
信じられるだろうか。
「姉上は今日も遅刻ですか」
「遅刻ではありません。ぎりぎり間に合う予定です」
「ぎりぎりは遅刻と同義だと、お父様が仰っていました」
五歳の言葉ではない。アレクシスの教育の賜物か、生来のものか。たぶん両方だ。
小さな紳士は食堂の椅子に姿勢良く座り、ナプキンを膝に広げた。
「本日の朝食は何ですか」
「オムレツとトースト、季節の果物です」
「ありがとうございます」
完璧な受け答え。逆に心配になるくらいだ。もう少し子供らしくてもいいんだが——まあ、人のことは言えない。僕も外見年齢より中身が老けている側の存在だ。
朝食を終え、ユリウスの家庭教師が到着するまでの間に、僕は大公邸の日常業務をこなした。
フィレーネの朝の紅茶を届け、アレクシスの書斎に本日のスケジュール表を置き、庭師に薔薇の剪定指示を出し厨房のギュンターと昼食の献立を確認する。
アレクシスは書斎で執務中だった。
中年になった大公は若い頃の柔和な青年の面影を残しつつ、顔つきに重みが加わっていた。顎に短く整えた髭を蓄え、目元には薄い皺が刻まれている。
二年前に先代から正式に大公位を継承し、今は名実ともにヴァルシュタイン大公家の当主だ。
「リアン殿」
「はい」
「シャルロッテは間に合ったかな?」
「馬車には乗りました。間に合うかどうかは馬の速度次第です」
アレクシスが苦笑した。書類に目を落としたまま、ペンを走らせている。字が端正だ。この人の字は昔から綺麗だった。
「今日の夕食は家族で摂りたい。シャルロッテが戻り次第、食堂に集めてくれ」
「かしこまりました」
「それから——」
午後になり、フィレーネが中庭でユリウスに本を読み聞かせているのを窓から見た。
陽光の中のフィレーネは穏やかだった。亜麻色の髪に、ほんの少しだけ白いものが混じっている。
一本、二本。本人はまだ気付いていないかもしれない。
僕は気付いている。気付いてしまう。
夕方。シャルロッテが帰宅した。
「ただいまー!!」
「おかえりなさいませ。お父様が夕食は家族でと仰っています」
「やった、今日は何?」
「仔羊のローストです」
「最高!」
食堂に家族四人が揃った。アレクシスが上座に、フィレーネが隣に。シャルロッテとユリウスが向かい合い、僕は壁際に控える。いつもの配置。
シャルロッテが試験の手応えを得意げに語り、ユリウスが「姉上は勉強を始めるのが遅すぎます」と正論を述べ、アレクシスが笑い、フィレーネが「二人とも食べなさい」と窘める。
賑やかな食卓だ。
僕はその光景を、壁際から眺めている。
崩れかけた屋敷の台所で二人きりで食べたスープの味を思い出しながら。
あの時は二人だった。
増えた。テーブルを囲む人間が。笑い声が。食器の音が。
それが嬉しくて、同時に——時計の秒針が聞こえる気がした。
「リアンくん」
フィレーネの声に、意識が戻った。
「お代わり、いただける?」
「もちろんです」
スープを注ぎ足す。フィレーネが両手でカップを包んだ。十二歳の頃から変わらない仕草。
変わらないものが一つあるだけで、こんなに安心する。
僕の紅茶とフィレーネのこの癖。二つだけで十分だ。
今はまだ。




