第三十話 十二歳は、始まりの年齢だった
シャルロッテが十二歳になった。
その事実に気付いたのは、誕生祝いの花を選んでいる最中だった。薔薇の蕾を剪定しながら、ふと手が止まる。
十二歳。
フィレーネと出会った年齢だ。
あの日、マルコの荷馬車から降りて崩れかけた門の前に立った。雑草に埋もれた石畳。剥がれた漆喰。
そして——色褪せたドレスを着た怯えた目の少女。
もうずいぶん前になる。
僕にとっては昨日のことのように鮮明だ。ハイエルフの記憶は色褪せない。
あの日の湿度も、風向きも、フィレーネの声が微かに震えていたことも全部覚えている。
「リアン、花まだー?」
声がして我に返った。庭の向こうからシャルロッテが手を振っている。
水色のリボンで髪を結い上げた、活発な少女。顔立ちは年々フィレーネに似てきているが、表情の明るさはアレクシス譲りだ。
「今持っていきます」
剪定した白薔薇を十二本。一年に一本。
大広間には既に飾り付けが終わっていた。今年の誕生祝いは近隣の貴族の子女が沢山だ。
シャルロッテの交友関係は年々広がっていた。母親譲りの頭の回転と、父親譲りの人当たりの良さ。厄介な組み合わせだ。将来が怖い。
「りあん、ドレスのリボン曲がってない?」
「完璧です。僕が結んだので」
「自信満々だね」
「事実を述べているだけです」
シャルロッテが舌を出した。十二歳の少女としては、子供っぽい仕草だ。だが、そういうところが——いや、やめておこう。
祝宴は滞りなく進んだ。
シャルロッテは客人の間を巧みに渡り歩き、年上の貴族令嬢には礼を尽くし、年下の子には優しく接した。
アレクシスが目を細めている。フィレーネは少し離れた椅子に座って穏やかに見守っていた。
──フィレーネの腹はドレスの上からでもわかるほどに膨らんでいる。
第二子。
男の子だと侍医が言っていた。
予定は二ヶ月後。アレクシスは跡継ぎの誕生に安堵と緊張を隠しきれず、ここ数日はそわそわしている。
シャルロッテは「弟ができる」と大はしゃぎで、名前の候補を毎日三つずつ提案しては却下されていた。
今のフィレーネは、十二歳の時とは別人だ。当たり前だが。
かつての没落貴族の令嬢の面影は、もうどこにもない。
——いや。一つだけ変わっていないものがある。
紅茶を飲む時、両手でカップを包み込むように持つ癖。あれは十二歳の時からだ。
カップの温もりを少しでも長く手のひらに留めようとする仕草。今もそうしている。
僕はそういう些細なことばかり覚えている。覚えてしまう。消えない記憶というのは、祝福なのか呪いなのか。
祝宴が終わり、客人が帰った後。
シャルロッテは疲れて早々に寝室へ引き上げた。アレクシスは書斎で残務。使用人たちは片付けに追われている。
フィレーネが中庭に出ていた。
僕は紅茶を二つ持って後を追った。秋の夜は冷える。妊婦を夜風に当てるわけにはいかない。
「上着をどうぞ」
「ありがとう」
肩にショールをかけてやると、フィレーネは紅茶を受け取った。両手でカップを包む。いつも通り。
「シャルロッテ、十二歳になったのね」
「はい」
「早いわ。ついこの前生まれたばかりなのに」
「僕もそう思います」
ベンチに並んで座った。フィレーネの膨らんだ腹が、月明かりの中で柔らかな輪郭を描いている。
「ねえ、リアンくん」
「はい」
「十二歳の時のこと、覚えてる?」
「全部覚えています」
「全部って、大げさな」
「大げさではありません。本当に全部です。フィレーネ様が最初に僕に言った言葉も、あの屋敷の埃の匂いも、台所の壊れた蝶番の音も」
フィレーネが少し目を見開いて、それからふっと笑った。
「あの家、ひどかったわよね」
「ひどかったです。修繕リストも覚えてますよ」
「数えてたの」
「執事ですので」
「あの頃のわたし、何もできなかった。料理もお掃除も、お金の計算すら」
「スープを焦がして、僕に怒られてましたね」
フィレーネが声を立てて笑った。それから紅茶を一口飲んで、視線を庭の薔薇に向けた。
月に照らされた白い花弁が、夜風に揺れている。
「シャルロッテを見てると思い出すの。十二歳のわたしのこと。あの子はわたしよりずっと恵まれてる。家族がいて、お友達がいて、お金の心配もなくて。——それが嬉しいの。わたしが持てなかったものを、あの子は持ってる」
「フィレーネ様が作った環境です」
「違うわ。リアンくんが作ってくれたの。わたしは、あなたに教わっただけ」
「買いかぶりです」
「事実よ」
沈黙が降りた。虫の声が遠くに聞こえる。
フィレーネが、カップから手を離さないまま、ぽつりと言った。
「ねえ。わたし、もうおばさんよ」
「素敵なおばさまだと思いますよ」
「……そのうちに四十になる。五十になる。髪に白いものが混じって、顔に皺が増えて、背中が丸くなっていく。そしたらシャルロッテがわたしの歳になって、あの子にも子供ができて、その子もいつか大きくなって——」
フィレーネの声が、かすかに揺れた。
「その間ずっと、あなたはその姿のままなのよね」
答えなかった。答える必要がなかった。
「十二歳の頃はずっと思ってた。ずっと子供のままなんて羨ましいって。でも今は——」
フィレーネが僕を見た。灰青色の瞳。月明かりを映して、薄く光っている。
「それが、少し悲しい」
風が吹いた。薔薇の花弁が一枚、ひらりと落ちた。
「わたしはお婆さんになるのに、あなたは子供のまま。わたしがいなくなっても、あなたはここにいる。シャルロッテがお婆さんになっても、その子供がお婆さんになっても、あなたは——」
「フィレーネ様」
遮った。遮らないと、この先を聞いてしまう。聞いたら、たぶん僕は平静を保てない。
「紅茶が冷めます」
「……ずるい。そうやっていつもはぐらかす」
「はぐらかしてません。紅茶の温度管理は執事の最優先事項です」
フィレーネが鼻を鳴らした。信じていない顔。十二歳の時からずっと変わらない、僕の嘘を見抜く目。
「……一つだけ、言ってもいいですか」
「なに」
「フィレーネ様がお婆さんになっても、僕の紅茶の味は変わりません。シャルロッテお嬢様がお婆さんになっても。そのまた子供がお婆さんになっても」
立ち上がって、空になったカップを受け取った。
「それが悲しいことなのかどうか、正直僕にはわかりません。でも——僕にとっては、この家で紅茶を淹れる朝が続くことが、たぶん一番大事なことです」
フィレーネは何も言わなかった。ただ、目元を指先で拭った。泣いてはいない。たぶん。
僕は空を見上げた。
月が高い。星が多い。アエテルヌムの空には虫の声がなかった。紅茶の香りもなかった。誰かが「おやすみ」と言ってくれることもなかった。
フィレーネにとって、僕と過ごした時間は人生の大半だ。
だけど僕にとっては——瞬きにも満たない。
なのに、この重さはアエテルヌムでの二百年より遥かに重い。
風が頬を撫でた。胸の奥が、少しだけ冷えた気がした。
「さぁ、屋敷に戻りましょう。お身体に障りますので」
「うん」
今はただ、彼女との時を楽しもう。




