第二十九話 三歳児の質問は、哲学より厄介だ
シャルロッテが三歳になった。
時間の流れが速い。ついこの前まで這い回っていた塊が、今は二本の足で走り回り、口を開けば質問が止まらない。
「りあん、おそらはなんであおいの」
「光の波長の問題だよ。短い波長の光が大気中で散乱しやすいから——」
「なんで」
「なんでと言われても、そういう物理法則で——」
「なんで」
「……神様がそう決めたからかな」
「かみさまってだれ」
三歳児の「なんで」は無限ループだ。論理で返しても感情で返しても、最終的に「なんで」に収束する。
ハイエルフの知識量をもってしても突破できない。人類が生み出した最強の論法かもしれない。
シャルロッテは予想通りフィレーネに似た。
顔立ちはアレクシスの整った輪郭を受け継いでいるが、目はフィレーネに似ていた。何かに興味を持った時にきらりと鋭くなる、あの目。
それから負けず嫌いなところ。転んでも泣かずに立ち上がり、唇を噛んでもう一度走る。
僕を見上げる角度まで、十二歳の頃のフィレーネに重なる時がある。
背筋が寒くなるような既視感だ。
「りあん、だっこ」
「お嬢様、僕は今お茶の準備中です」
「だっこ」
「五分だけ待って」
「いま」
交渉の余地がない。将来大物になるか、あるいはとんでもない暴君になるか。
どちらにしても、僕の責任が多少はあるだろう。甘やかしている自覚はある。
シャルロッテを片腕で抱え上げ、もう片方の手で紅茶を淹れる。この動作にも慣れてしまった。
前世の社畜スキル「電話しながらメモを取りながらエクセルを操作する」の上位互換だ。
フィレーネは大公家の若き女主人として、社交界での存在感は年々増している。氷の女公爵の異名は健在で、交渉の席では笑顔を見せず、数字と論理だけで相手を追い詰める。
だが家に帰ると、シャルロッテの前でころころ表情が変わる。母親の顔だ。
アレクシスとの仲も良好だった。派手な愛情表現はないが、朝食の席で自然に会話が弾み、夜は書斎で並んで本を読む。静かで安定した関係。人間の婚姻としては理想的な部類だろう。
幸せな家庭だ。間違いなく。
僕はその風景を、少し離れた場所から眺めている。執事として。いつも通りの距離で。
ある日の午後。
シャルロッテが庭で遊んでいる時、急に走るのをやめて振り返った。
「りあん」
「なに」
「りあんは、なんでおっきくならないの」
来た。
いつか来ると思っていた質問だ。想定より早い。三歳児の観察力を甘く見ていた。
「僕はエルフだから。エルフは人間と違って、ゆっくり成長するんだよ」
「ゆっくり?」
「うん。すごくゆっくり」
「どのくらい?」
「……君が僕くらいの見た目になるまでに、僕はたぶん一ミリも変わらないくらい」
「ふうん」
シャルロッテは三秒ほど考え込んで、それから笑った。
「じゃあ、シャルがおばあちゃんになっても、りあんはりあん?」
「そうだよ」
「やった。ずっといっしょだね」
走り去っていった。蝶を見つけたらしい。三歳児の関心は移ろいやすい。
ずっといっしょ。
その言葉の本当の意味を、この子はまだ知らない。ずっと一緒にいるということは、ずっと見ているということだ。
成長を。変化を。老いを。
そして——
(考えるな)
今日の庭は天気がいい。シャルロッテが蝶を追いかけて転んだ。泣かずに起き上がった。よし。
それだけでいい。今は。
五歳。
シャルロッテの教育を本格的に始めた。
読み書き、算術、基礎的な歴史と地理。フィレーネの意向で、貴族の子女としての教養は一通り身につけさせたいとのことだった。
家庭教師を雇う話もあったが、アレクシスが「まずはリアン殿に」と言った。
買いかぶりだ。僕は教師ではない。ただの執事だ。
……まぁ、ただの執事がフィレーネに読み書きと算術と交渉術を叩き込んだわけだが。まあ、それはそれ。
シャルロッテは聡かった。教えたことを一度で吸収し、翌日には応用してくる。
五歳で二桁の足し算を暗算し、六歳の頃には僕が出す文章題を「簡単すぎる」と突き返してきた。
「りあん、もっとむずかしいの」
「お嬢様、焦らなくても——」
「むずかしいの」
フィレーネの娘だ。間違いない。
違うのは、この子の方がよく笑うことだ。フィレーネは十二歳の時、怯えた目をしていた。家を失いかけ、一人で耐えていた。
シャルロッテにはそれがない。父がいて、母がいて、使用人がいて、そして——執事がいる。
恵まれた子だ。それが嬉しくもあり、少しだけ寂しくもある。
フィレーネの強さは孤独から生まれた。
シャルロッテの強さは愛情から生まれるのだろう。
どちらが良いという話ではない。ただ、違う花が咲く。
七歳の誕生日。
大公邸の大広間で、盛大な祝宴が開かれた。貴族の子女が二十人ほど招かれ、菓子と花と音楽で溢れていた。
シャルロッテは水色のドレスを着て、同い年の子供たちの輪の中心にいた。
社交性はアレクシス譲りだ。誰とでも自然に話し、年上の子にも臆さない。だが時折、輪を離れて僕の方に走ってくる。
「りあん、あのね、マリアがね——」
「お嬢様、お友達のところに戻りなさい。今日は貴女が主役です」
「でも——」
「大丈夫。僕はここにいます」
「……うん」
安心した顔で戻っていく。その後ろ姿を見送る。
水色のドレスが、子供たちの群れに溶けていく。小さな背中。でも、もう赤ん坊の頃のように頼りなくはない。
七年。
僕にとっては、指を鳴らす程度の時間だ。
だが、この七年で赤ん坊は少女になった。
泣くだけだった生き物が、笑い、怒り、考え、走り、問いかけ、時に僕の心を正確に射抜く言葉を放つようになった。
人間の七年は濃い。
アエテルヌムの七年では、せいぜい誰かがお茶を淹れ終わるくらいだ。比べるのも馬鹿らしい。
祝宴の片付けを終えた夜。フィレーネが書斎で紅茶を飲んでいた。
「リアンくん」
「はい」
「シャルロッテ、あなたに懐きすぎじゃない?」
「否定はしません」
「母親としては複雑なんだけど」
「それは僕の責任ではありません。お嬢様の趣味です」
フィレーネが笑った。少し歳を取った笑顔。十二歳の時の面影がまだ残っている。あと何年、この笑顔を見られるだろう。
考えるなと言ったのに、また考えている。
「ねえ、リアンくん」
「はい」
「ありがとう。シャルロッテのこと、大事にしてくれて」
フィレーネは紅茶を一口飲んで、窓の外に目を向けた。
「この紅茶は、何年経っても同じ味ね」
「当然です。僕が淹れてますから」
「そうね。……それが、すごく安心する」
静かな夜だった。虫が鳴いている。大公邸の庭で薔薇が最後の花を散らしていた。
来年もまた咲く。再来年も。十年後も。
僕は変わらず、ここで紅茶を淹れている。たぶん。
——たぶん、じゃない。必ず。
そう決めたのだ。面倒くさいけど。




