第二十八話 最初の言葉が、それかよ
シャルロッテが生まれて半年。
この半年で学んだことがある。赤ん坊というのは日ごとに別の生き物になる。
一ヶ月目は泣くだけの塊だった。二ヶ月目で僕の顔を追うようになった。三ヶ月目で声を出し始めた。
意味のない母音の羅列。「あー」とか「うー」とか。四ヶ月目で寝返りを打った。五ヶ月目で物を掴むようになった。僕の髪を。力いっぱい。
そして六ヶ月目。
「あば」
「……」
「あばばば」
「それは何かの主張かな」
シャルロッテは僕の顔を見上げて、よだれまみれの笑顔を浮かべた。控えめに言って美しい光景ではない。
なのにフィレーネは可愛いと言う。アレクシスも可愛いと言う。ハインリヒですら目尻を下げる。人間の審美眼は謎だ。
いや——まあ、可愛いけど。客観的に見れば。たぶん。
離乳食が始まった。
これが厄介だった。ギュンターと相談し、裏ごしした野菜のペーストから始めたのだが、シャルロッテは好き嫌いが激しかった。
にんじんは食べる。かぼちゃも食べる。ほうれん草は口に入れた瞬間、全力で吐き出す。僕の白いシャツに向かって。
「ほうれん草は栄養価が高いんだけど」
べちゃ。
「聞いてないね。うん、知ってた」
フィレーネが横で肩を震わせていた。笑いを堪えているのが丸わかりだ。
「フィレーネ様、笑わないでいただけますか」
「笑ってない」
「肩が揺れてます」
「揺れてない」
揺れている。十年来の付き合いを舐めないでほしい。
結局、ほうれん草はりんごと混ぜることで解決した。甘味を加えると食べる。現金な味覚だ。
誰に似たのか——たぶんアレクシスだ。あの人は甘い菓子に目がない。
七ヶ月目に入り、シャルロッテはハイハイを覚えた。
これが問題だった。
移動手段を得た赤ん坊は、もはや兵器だ。
目を離した三秒後にはテーブルの脚を舐めている。五秒後には花瓶に手を伸ばしている。十秒後には階段の方向へ突進している。
僕は大公邸の全階段に柵を設置した。一晩で。もちろんマナで。翌朝ハインリヒが「いつの間に工事を」と首を傾げていたが、「以前から発注していたものです」と答えておいた。
以前とはいつかと聞かれたら困るが、聞かれなかった。ハインリヒは深追いしない男だ。助かる。
角のある家具には布を巻いた。床の隙間は埋めた。
小さな装飾品は棚の上に移動させた。大公邸の一階は、完全にシャルロッテ仕様に改装された。
アレクシスが書斎で書類仕事をしている時、扉の隙間からシャルロッテが這って侵入したことがある。
アレクシスは気付かず、足元にたどり着いたシャルロッテが靴紐を引っ張り、書類が机から雪崩れた。
「リアン殿、助けてくれ」
「お嬢様の好奇心は止められません。諦めてください」
「執事としてどうにかならないのか」
「執事の管轄外です。父親の管轄です」
アレクシスは諦めた顔でシャルロッテを抱き上げた。シャルロッテは書類の端をしゃぶっていた。大公家の政務文書を。たぶん外交関連のやつだ。
歴史的な瞬間かもしれない。大公家の外交文書に乳児のよだれが染みたのは、おそらく建国以来初めてだろう。
そして——九ヶ月目。
その日は普通の朝だった。僕がシャルロッテを抱いて窓辺に立ち、庭の薔薇を見せていた。
「ほら、赤い花。薔薇だよ。ば、ら」
別に言葉を教えているわけではない。ただの習慣だ。抱いている時に黙っているのも変だから、目に入ったものを話している。それだけ。
シャルロッテが僕の顔をじっと見た。
最近、この子の視線には妙な力がある。焦点が合うようになって、黒に近い濃紺の瞳が真っ直ぐにこちらを捉える。アレクシスの目の色だ。
「ぃ——」
「ん?」
「り……」
まさか。
「りあ」
「…………」
「りあん」
僕は固まった。
シャルロッテが口元にうっすらと笑みを浮かべた。
「りあん」
二度目は、もう少しはっきりしていた。
……最初の言葉がママでもパパでもなく、執事の名前って。この子は空気を読むという概念を持たずに生まれてきたらしい。
足音がした。振り返ると、フィレーネが扉の前に立っていた。
いつから聞いていたのか。口元を手で押さえている。
「フィレーネ様、あの、これは——」
「聞いた」
「偶然だと思います。音の並びが発声しやすかっただけで——」
「リアンくん」
「はい」
「嬉しくないの?」
嬉しくないわけがなかった。
だが、嬉しいと言ったら何かが決定的に変わる気がした。執事と主家の子供という、その距離が。
「業務に支障が出ますので、感想は控えます」
「ふうん」
フィレーネは信じていない顔で微笑んだ。全部見透かされている。十年来の主従関係を舐めるなということだろう。
お互い様だ。
その夜、シャルロッテを寝かしつけた後、僕は窓辺で月を見上げた。
秋の月は低い位置にある。大きくて、少しだけ橙がかっている。
りあん。
二百年生きてきて、名前を呼ばれることに特別な感情を抱いたことは殆どなかった。
名前は記号だ。個体を識別するための便宜上の音の並び。ハイエルフにとってはそれ以上の意味はない。
でも、あの小さな口から出た言葉は記号とは思えなかった。
面倒くさい。本当に、人間というのは面倒くさい。生まれて九ヶ月で、もう僕の心を揺らしにかかる。
「君のお母さんと同じだ」
シャルロッテの寝息が小さく規則的に聞こえている。
僕はその音を聞きながら、月が沈むまで窓辺にいた。




