第二十七話 赤ん坊は僕の天敵だった
シャルロッテが生まれて一週間。
僕は確信した。この生き物は、僕がこれまで対峙したあらゆる存在の中で最も手強い。
傭兵は力で黙らせられた。伯爵家は法と交渉で退けた。アエテルヌムの退屈すら逃走という手段で克服した。
だが、赤ん坊には通じない。何一つ。
深夜二時。泣く。
ミルクを与える。泣き止む。寝る。
三時。泣く。おむつを替える。泣き止む。寝る。
四時。泣く。理由がわからない。抱き上げる。泣き止まない。背中をさする。泣き止まない。部屋の温度を変える。泣き止まない。
「なんで泣いてるの、君」
返事があるわけがない。生後一週間の人間に言語能力を求めるのは、さすがに無茶だ。
結局、三十分ほど抱いて廊下を歩き回ったら寝た。
理由は不明。抱かれて揺られると眠くなるらしい。人間の赤ん坊の仕様書が欲しい。切実に。
フィレーネは産後の肥立ちが良く、三日目には「もう動ける」と言い出したが、僕とクレーメンスとアレクシスの三者連合で阻止した。
「リアンくん、過保護」
「過保護ではありません。適切な産後管理です」
「同じことじゃない」
「全然違います」
違わないかもしれない。が、認めたら負けだ。
夜間の世話は僕が引き受けた。理由は単純で、ハイエルフに睡眠はほぼ不要だからだ。
人間の乳母を雇う話も出たが、フィレーネが「最初の一ヶ月くらいは自分で」と譲らなかったため、夜はフィレーネが授乳し、それ以外の時間を僕が担当する形に落ち着いた。
アレクシスは手伝いたがったが、翌日の政務に差し支えるので却下した。
「せめて休日だけでも」
「休日に寝不足の顔で政務の会議に出られると、大公家の評判に関わります」
「……厳しいね、リアン殿」
「執事ですので」
不満そうだったが納得はしたらしい。この人は筋の通った話には素直だ。良い性格だと思う。
シャルロッテの世話は控えめに言って戦場だった。
ミルクの温度管理。これは得意分野だ。マナで分子レベルの温度均一化をかければ常に最適な三十七度を維持できる。人間の乳母より正確である自信がある。
おむつ替え。これは慣れた。最初の二回は手間取ったが、三回目からは十五秒で完了する手順を確立した。
前世の社畜時代に培った業務効率化が、まさかおむつ替えに活きるとは思わなかった。
問題は泣き声だ。
シャルロッテの泣き声は、僕のハイエルフ耳には轟音に等しい。
しかもこの子は肺活量だけは大公家の血筋を感じさせる立派さで、一度泣き出すと屋敷の端まで響く。
対策として自分の鼓膜周辺にだけ薄い遮音膜を張ることにした。完全に遮断するのではなく、音量を人間と同程度まで減衰させる。これで耳は守れる。
問題は遮音膜を張っていても、泣いているという事実が胸に刺さることだ。これはマナでは防げない。
二週間が過ぎた頃、変化があった。
「あう……」
シャルロッテが僕の顔を目で追うようになった。
正確には、まだ焦点は合っていないだろう。生後二週間の乳児の視力では先がぼんやり見える程度のはずだ。
だが、僕が近づくと泣き止み、離れると泣く。抱き上げると、小さな手が僕の襟を掴む。
「僕の銀髪が光って見えるだけだと思うけど」
思うけど。
思うけど、悪い気はしなかった。
「リアンくん、シャルロッテに好かれてるわね」
フィレーネが午後の陽光の中でそう言った。体調はだいぶ戻り、ソファに座って紅茶を飲めるまでに回復している。
シャルロッテは僕の腕の中で、拳をしゃぶりながらおとなしくしていた。
「好かれているのではなく、慣れているだけです。夜中に一番長く一緒にいるのが僕ですから」
「それを好かれてるって言うのよ」
「そういうものですか」
「そういうもの」
フィレーネが紅茶のカップ越しに笑った。十年前と変わらない笑い方。ただし、目元に母親の柔らかさが混じっている。
人は変わる。良い方に変わる時、その変化はとても静かだ。
一ヶ月が経った。
シャルロッテは順調に育っていた。泣き声はさらにうるさくなった。成長を喜ぶべきか、耳を心配すべきか。
僕の日課は完全にシャルロッテ中心に再編されていた。
朝五時に起床——というか、起きたふりをして——シャルロッテの部屋の室温と湿度を確認。六時にフィレーネを起こし、授乳の準備。
七時にアレクシスの身支度を整え、朝食の手配。八時から十二時まで通常業務をこなしつつ、一時間おきにシャルロッテの様子を確認。
午後はフィレーネの補佐と、シャルロッテの沐浴。夜はフィレーネとアレクシスが寝た後、シャルロッテの夜泣きに対応。
控えめに言って、前世の社畜時代より忙しい。
だが決定的に違うことがある。この忙しさの先に、誰かの笑顔がある。
残業の先にあるのが上司の無茶振りではなく、フィレーネの「ありがとう」と、シャルロッテの——まだ笑顔とは呼べない口元の痙攣みたいな何か。
それだけで不思議と足が動く。
ある晩、シャルロッテの夜泣きに対応した後、窓辺に立った。
春の夜風が心地よい。庭の薔薇が、月明かりの下で白く咲いていた。
この子はあっという間に大きくなる。寝返りを打ち、ハイハイし、立ち上がり、歩き、走り、言葉を覚え、笑い、泣き、怒り——十八年もすれば、立派なレディになる。
僕は変わらず、ここにいる。この姿のまま。
腕の中のシャルロッテが小さな寝息を立てていた。拳を握ったまま。何をそんなに力んでいるのか。生まれたばかりなのに。
「君のお母さんもそうだったよ」
誰にも聞こえない声で、呟いた。
「最初からずっと、拳を握って戦ってた」
シャルロッテの手が僕の小指に触れた。
反射だ。新生児把握反射。触れたものを握る、本能的な動作。意味はない。
意味はないのに振りほどけなかった。
「面倒な仕様だな、人間って」
春の風が薔薇の香りを運んできた。




