第二十六話 その泣き声は、世界で一番うるさかった
冬が終わりかけていた。
雪解けの水が屋根を伝い、中庭の石畳を濡らしている。大公邸の庭では僕が手入れした薔薇の枝に蕾が膨らみ始めていた。あと少しで春が来る。
フィレーネの腹は隠しようがないほど大きくなっていた。
ここ数ヶ月、僕の業務内容は確実に変質している。
紅茶の温度管理と書類整理に加えて、「廊下の段差を事前に排除する」「室温を常に二十度に維持する」「深夜に目が覚めた時用の軽食を三種類切らさない」といった項目が積み上がった。
前世で言うところの妊婦対応マニュアルだ。ただし、実行手段がマナである点だけが違う。
「リアンくん、最近やけに廊下があったかくない?」
「気のせいでしょう。春が近いだけです」
気のせいではない。僕が空間内の気流を微調整して暖気を循環させている。が、種明かしをする趣味は持ち合わせていない。
侍医のクレーメンス先生は週二回の往診で極めて順調と太鼓判を押した。
フィレーネは体調の良い日には書斎で書簡に目を通し、悪い日にはソファで本を読む。どちらの日も僕の紅茶を飲む点だけは変わらなかった。
アレクシスは——正直に言って、良い夫だった。
政務の合間に必ずフィレーネの部屋を訪ね、隣に座って他愛のない話をする。眠れないと言えば本を読み聞かせ、腰が痛いと言えば不器用な手つきでさすった。
僕がやった方が百倍上手いけど。まあ、夫の仕事を執事が奪うのは筋が違う。
そして──春の気配が濃くなったある夜のことだ。
ハインリヒが僕の部屋の扉を叩いた。深夜二時を過ぎていた。ノックの間隔が短い。三連打。緊急の合図。
「フィレーネ様が——」
「わかりました!」
言い終わる前に廊下に出ていた。
寝室の扉を開けるとフィレーネがベッドに横たわっていた。額に汗が浮いている。侍医のクレーメンスが既に到着し、産婆のマルタが湯を沸かしている。
アレクシスは枕元でフィレーネの手を握り、顔を白くしていた。
陣痛。予定より早い。
僕は室内の状態を一瞬で把握した。室温が低い。湯は足りているが、清潔な布が不足。フィレーネの脈拍はやや速いが危険域ではない。
声は出さず指先に薄くマナを灯した。室温を引き上げる。窓の隙間風を遮断する。ランプの灯りを目に優しい色味に調整する。
誰も気付かない。気付かれてはいけない。
「布を追加で持ってきます」
それだけ言って退室し清潔な布を六枚と湯桶を一つ抱えて戻った。
産婆のマルタに渡すと彼女は頷いただけで受け取る。こういう時に余計な言葉を使わないのがプロだ。
僕にできることは限られている。
マナで痛みを緩和することも、時間の密度を変えることも、理論上は可能だ。
だが、それはこの瞬間に必要なものじゃない。
フィレーネは自分の力で産む。アレクシスが傍にいる。クレーメンスとマルタが専門家として導く。
僕は手を出さない。手を出しちゃいけない──。
僕は執事として、この部屋の温度と空気を整えるだけだ。
それなのに手が震えた。
おかしな話だ。
今、布を畳むだけの動作で指が言うことを聞かない。
フィレーネの声が壁越しに届く。苦しそうな懸命な声。
廊下で待った。
体感では三十年くらいだった。普段は一年が瞬きほどなのに、今夜に限って一秒ごとに引き伸ばされる。
夜明け前。空が紺色から灰色に変わり始めた頃。
泣き声が聞こえた。
小さくて、甲高くて、不安定で——この世のどんな楽器より不完全な音。
「……ああ」
思わず漏れた。気の利いた皮肉が一つも浮かばない。二百年生きてきて言葉に詰まったのは何度目だろう。
フィレーネは疲れ切った顔で笑っていた。腕の中に、信じられないほど小さな生き物がいる。
赤くて皺だらけで、両の拳を固く握りしめて、全身で怒っているみたいに泣いている。
「女の子です」
クレーメンスの声がどこか遠くに聞こえた。
アレクシスが鼻を赤くしていた。泣いたな、この人。
「リアンくん」
フィレーネが僕の方を見た。汗で額に張りついた亜麻色の髪。十年前、崩れかけた屋敷の玄関で僕を見上げた灰青色の瞳——同じ色だ。
でも今の目には怯えの欠片もない。
「おめでとうございます。とても元気な子です……フィレーネ様に似て」
他に何も出てこなかった。語彙力が死んでいる。
「名前、もう決めてあるの」
フィレーネが赤ん坊の頬にそっと触れた。
「シャルロッテ。シャルロッテ・フォン・ヴァルシュタイン」
「シャルロッテ……良い名前ですね」
「でしょう」
フィレーネが悪戯っぽく笑った。
僕は姿勢を正した。
「シャルロッテお嬢様。初めまして。本日よりお世話を担当いたします、リアンと申します」
赤ん坊は返事の代わりに、一段と大きな声で泣いた。
うるさい。本当にうるさい。
耳がいいのは困りものだ。ハイエルフの聴覚は人間の数倍ある。
この泣き声、確実に当分は僕の睡眠——まあ、僕に大した睡眠は要らないけれど。
でも。
不思議と嫌じゃなかった。
窓の外で春一番の鳥が鳴き始めている。大公邸の庭の薔薇は、あと数日で蕾が開くだろう。
この子が大人になるまで、十八年。
僕にとっては——瞬きみたいなものだ。
それでも、一日も見逃したくないと思った。
面倒くさいけど。本当に、面倒くさいけど。
泣き声がまた一段と大きくなった。フィレーネが困った顔で僕を見る。アレクシスはおろおろしている。クレーメンスが苦笑している。
「お湯の温度を確認してきます。それから産着の替えも」
廊下に出た。誰もいない。
少しだけ立ち止まって、目を閉じた。
この泣き声を覚えておこう。
二百年分の記憶の中で、たぶん一番うるさくて──
一番あたたかい音──。




