第二十五話 幸福な日々には、終わりの影が差す
大公邸での生活が半年を過ぎた頃、フィレーネが体調を崩した。
朝の紅茶を届けた時、いつもなら一口で目を覚ますフィレーネがカップを受け取ったまま動かなかった。顔色が悪い。
「フィレーネ様?」
「……ん。大丈夫。ちょっと気持ち悪いだけ」
気持ち悪い。朝。顔色が悪い。
僕は一瞬で可能性を絞り込んだ。だが、口には出さなかった。
「今日の午前の予定は延期しましょう。お体を優先してください」
「大げさよ。少し休めば——」
「フィレーネ様」
「……わかった。午前だけね」
素直に従ったこと自体が、体調の悪さを物語っていた。普段のフィレーネなら多少の不調で予定を崩したりしない。
僕はアレクシスに報告した。アレクシスの顔に一瞬浮かんだ表情を見て、彼も同じ可能性に思い当たっているとわかった。
「医師を呼びます」
「お願いします、リアン殿」
大公家の侍医が駆けつけた。診察は三十分で終わり、侍医が応接間に戻ってきた時の顔は穏やかな笑みだった。
「おめでたいことです。ご懐妊かと」
アレクシスが息を止めた。それから、ゆっくりと椅子の背もたれに体を預けた。
「……本当ですか」
「まだ初期ですので断言はできませんが、ほぼ間違いないかと」
アレクシスの目が潤んだ。この男が感情を隠せなくなるのは珍しい。よほど嬉しいのだろう。
「リアン殿」
「はい」
「フィレーネに私から伝えたい」
「もちろんです。お二人の時間をどうぞ」
僕は応接間を出て、廊下で待った。
扉越しにフィレーネの声が聞こえた。最初は沈黙。それから小さな笑い声。
アレクシスの声。フィレーネの声。二人の声が重なる。
聞くべきではない。僕は足音を殺して廊下を離れた。
「ふぅ……」
中庭のベンチに座った。冬の陽光が薔薇の枝に降り注いでいる。花は咲いていないが枝には新芽が膨らみ始めていた。春の準備だ。
──フィレーネに子供が生まれる。
当然の流れだ。結婚して半年。健康な女性。何もおかしなことはない。
おかしなことは何もないのに、胸の奥がざわついている。
「……嬉しい。本当に嬉しい」
屋敷で一人きりだった少女が、自分の家族を持つ。これ以上の幸福があるだろうか。
「でも──」
同時に——時計の針が一つ進んだ音が聞こえた気がした。
フィレーネの人生の時計。出会った時に十二歳だった針は、進んでいる。
結婚し、子を宿し、やがて母になり、年を重ね——
そして、最後は……。
「やめよう」
二百年生きた程度で悟ったような顔をするな。今はただ、祝えばいい。
「リアンくん」
振り返るとフィレーネが中庭に立っていた。頬が上気している。目が赤い。泣いたのだろう。嬉し泣きだ。
「聞いた?」
「侍医殿から。おめでとうございます、フィレーネ様」
「ありがとう。——ねえ、リアンくん」
「はい」
「わたし、お母さんになるんだって」
声が震えていた。嬉しさと、不安と、信じられないという気持ちが全部混ざった声。
「なりますよ。素敵なお母さんに」
「ちゃんとできるかな」
「できますよ。フィレーネ様は、何でもできる人ですから」
「買いかぶりだってば」
「十年以上見てきた僕の評価です。そう簡単には覆りません」
フィレーネが笑った。泣きながら。
「……あのね、リアンくん。お願いがあるの」
「なんでしょう」
「この子が生まれたら——あなたにも、育てるの手伝ってほしい」
一瞬、言葉が出なかった。
「わたしはお母さん初心者だから。料理も掃除も帳簿も、全部リアンに教わったでしょ。子育ても、きっと一人じゃ不安で」
「……僕は子育ての経験はありませんが」
「嘘。絶対何か知ってるでしょ」
訂正しない。
「かしこまりました。微力ながら」
「微力じゃないのは知ってる」
フィレーネが鼻をすすりながら笑って、屋敷に戻っていった。
一人になったベンチで、僕は空を見上げた。
フィレーネの子供。
その子を育てる手伝いをする。見届ける。フィレーネが母になり、子供が育ち、やがてその子も大人になり——
この家族の時間に僕は立ち会うのだ。変わらない姿のまま。
それは幸福だ。間違いなく。
だが同時に、僕はこの先何十年かの未来を、否応なく想像してしまう。
フィレーネが三十になる。四十になる。五十になる。白髪が混じり、皺が刻まれ、背中が少しずつ丸くなっていく。
その隣で僕は十歳の少年のまま立っている。
やがてフィレーネの子供が僕を追い越す。成長し、大人になり、自分の人生を歩み始める。
そしていつか——
「やめろ」
小さく、自分に言い聞かせた。
「やめろ……」
百年先のことを今考えるのは、アエテルヌムの同胞と同じだ。
ベンチのデザインを千年悩むのと、別れの悲しみを百年先から悩むのと何が違う。
今を生きろ。人間のように。
この世界が教えてくれたことだ。明日の約束に胸を躍らせ、季節の移ろいを楽しみ、不完全な紅茶に温もりを感じる生き方。
僕はベンチから立ち上がった。
やることがある。
フィレーネの食事の栄養管理を見直さないと。妊娠初期に必要な栄養素のリストを作り、ギュンターと献立を相談する。
寝室の空調も調整が必要だ。体温が変わるからこれまでの設定では最適ではなくなる。
それから——赤子の部屋の準備もそろそろ始めたほうがいい。どの部屋を使うかフィレーネとアレクシスに相談しよう。
日当たりと風通しを考えると、東翼の角部屋がいい。あそこなら朝日が入る。
頭の中でタスクリストが組み上がっていく。社畜の血が騒ぐ。
面倒だ。面倒だが、嫌じゃない。
むしろ——楽しみだ。
新しい命がこの家にやってくる。フィレーネの子供。この世界で僕が見届ける、最初の次の世代。
どんな子だろう。フィレーネに似ているだろうか。アレクシスに似ているだろうか。
灰青色の目をしているだろうか。笑った時に、フィレーネと同じ顔をするだろうか。
会いたい。
素直にそう思えた自分に、少し驚いた。
二百年生きてきて、誰かに会いたいと思ったのは、これが初めてかもしれない。
空に鳥が一羽飛んでいった。餌を探しに行くのだろう。
僕も探しに行こう。フィレーネの子供のために、最高の揺りかごを作る木材を。
もちろん、魔術で。こっそりと。




