第二十四話 完璧な執事の完璧な秘密
大公邸での生活が一ヶ月を過ぎた頃、僕の一日はこんな感じで回っていた。
午前五時。起床。正確には起床のふりだ。
ハイエルフに睡眠は必要ないので、夜の間は目を閉じて横になりながら翌日の段取りを組んでいる。前世の社畜時代と何も変わらない。
五時十分。まず魔術の時間。
人目のない自室で、指を鳴らす。パチン。小さな音と共に部屋の空気が入れ替わる。温度と湿度を最適値に調整。
これは僕の快適さのためではなく隣室のフィレーネのためだ。壁を通じてマナを浸透させ、フィレーネの寝室の空気も整える。乾燥しすぎると肌が荒れる。
湿度が高すぎると髪がまとまらない。フィレーネの体調に最適な空気環境を毎朝魔術で作っている。
五時二十分。執事服に着替える。
着替えると言っても、服のシワはマナで一瞬にして伸ばしてあるので、ただ袖を通すだけだ。
靴も同様。革の表面の微細な傷を毎朝マナで修復しているので、新品同様の光沢を保っている。
大公家の侍女頭に「リアン殿の服はいつ見ても皺一つないですわね。どんなお手入れを?」と聞かれたので、「丁寧にブラシをかけています」と答えた。
嘘なんですけどね。
五時三十分。台所に向かう。
この時間帯、大公邸の台所はまだ料理長のギュンターしかいない。
早起きの職人気質だ。僕が台所に入ると、ギュンターは黙って場所を空けてくれるようになった。一ヶ月で築いた信頼関係だ。
「おはよう、坊主」
「おはようございます、ギュンターさん」
「今日の茶葉は?」
「アッサムを試してみます。昨日フィレーネ様が少し疲れた顔をしていたので、しっかりした味のほうがいいかと」
「一日の疲れで茶葉を変えるのか」
「当然です」
ギュンターが首を振った。呆れと敬意が半々の顔だ。
紅茶を淹れる。湯の温度は九十五度。これは普通に沸かしても出せる温度だが、僕の場合はポットの中の湯温をマナで分子単位にまで均一化している。
通常の湯は微細な温度差があるが、僕の湯にはそれがない。全ての水分子が正確に九十五度。これにより茶葉の成分抽出が理論上の最適値に達する。
結果として出来上がる紅茶は、同じ茶葉を使っても他の誰にも再現できない味になる。
ギュンターが一ヶ月研究しても追いつけない理由がこれだ。ごめんねギュンターさん。物理法則を曲げないと出せない味なんだ。
六時。フィレーネの寝室にモーニングティーを届ける。
「おはようございます、フィレーネ様」
「……ん。おはよ」
寝起きのフィレーネは氷の女公爵の面影が皆無だ。髪はぼさぼさ、目は半開き、返事は二文字。ここだけは十二歳の頃から変わらない。
紅茶を一口飲んで、ようやく目が開く。
「おいしい。今日はいつもと違う?」
「アッサムに変えてみました」
「うん。これ好き。力が出る感じ」
狙い通りだ。
七時。本格的な業務開始。
フィレーネの身支度を整え、朝食の席に送り出す。アレクシスとの朝食は二人の時間なので僕は同席しない。その間に、僕は自分の仕事を片付ける。
まず、廊下の巡回。
大公邸の廊下を歩きながら、さりげなく魔力感知を展開する。建物全体の状態を把握。
壁の内部に溜まった湿気、床板の微細な歪み、窓枠の隙間。
すべてをスキャンし、問題がある箇所にはすれ違いざまにマナを流して補修する。
先週ハインリヒが「最近この邸は妙に快適だ。空気がいいというか、建物自体の調子がいい」と呟いていた。
そりゃそうだ。僕が毎朝こっそりメンテナンスしてるんだから。邸宅をハイエルフの魔術で分子レベルから保全している。贅沢な話だ。
八時。フィレーネの予定管理。書類の整理。来客の対応準備。
ここでも魔術は地味に活躍している。書類を運ぶ時、重い箱でもマナで重量を軽減すれば片手で持てる。
周りからは「あの子は力持ちね」と思われているが、実際には重力を局所的にいじっているだけだ。
十時。中庭で一息つく時間。
これが僕の密かな楽しみだった。大公邸の中庭には立派な薔薇園がある。
ベンチに座って薔薇の手入れをする庭師たちの仕事ぶりを眺めながら、自分用の紅茶を飲む。
もちろん、ただ座っているわけではない。
薔薇の一株一株にマナを微量だけ流し、根の状態を確認している。
病気の兆候があれば、植物の免疫機能をほんの少しだけ活性化する。枯れかけの蕾があれば水分の循環を促してやる。
結果、大公邸の薔薇園はこの一ヶ月で明らかに花付きがよくなった。
「不思議だ」
老庭師のヨハンが首を捻っていた。
「今年は特別なことは何もしてないのに、薔薇の調子がすこぶるいい」
「気候がいいんじゃないですか」
「そうかね。去年と同じ気候なんだが」
ごめんなさいヨハンさん。あなたの腕が上がったわけでも気候が良いわけでもなく、毎朝ハイエルフの子供が魔術で薔薇をドーピングしてるだけです。
正午。昼食の準備。これはギュンターの領分なので僕は手を出さない。
ただしフィレーネの分だけは味を確認する。塩加減がほんの少し強いと感じた時には、配膳の瞬間にマナで塩分濃度を微調整する。
誰にも気づかれない。料理の味が変わったことにすらギュンターは気づかない。調整量が微細すぎるからだ。
これは少しやりすぎかもしれない。でも、フィレーネの健康管理は僕の最優先業務だ。妥協はしない。
午後。フィレーネの公務の補佐。来客対応。書類仕事。
この時間帯は魔術をほとんど使わない。人目が多いからだ。
大公邸の使用人は優秀で目配りがいい。うっかり指を鳴らそうものなら目撃される。
ただ一つだけ。フィレーネが長時間執務で肩が凝り始めた時、椅子の背もたれにマナを込めてほんの少しだけ温める。
フィレーネは「この椅子、なんか温かい」と不思議がっていたが追及はしなかった。ありがたい。
夕方。フィレーネとアレクシスの夕食の準備。その後は自由時間。
自由時間こそが、僕の本領発揮だ。
使用人たちが休む夜の時間帯。僕は大公邸の隅々を巡回する。昼間にスキャンした問題箇所を一つずつ魔術で処理していく。
西翼の屋根裏に巣くっていた鼠は、空間操作で丁重に邸外の森に転送した。
地下貯蔵庫の湿度管理は空気中の水分量を操作して最適化。書庫の古い蔵書は紙の繊維を強化して劣化を防止。
どれも誰にも気づかれない仕事だ。
気づかれなくていい。むしろ気づかれては困る。
僕の理想は「なぜかわからないけど、この邸はすべてが上手く回っている」という状態だ。
僕の存在が意識されず、でも僕がいることで全体の質が底上げされる。影の仕事。前世でいう縁の下の力持ち。
まあ、前世の場合は縁の下で潰れて過労死したわけだが。今世は不死身なので、その心配はない。
ブラック労働もホワイト労働も、不老不死の前には等しく無意味だ。
深夜零時。巡回を終え、自室に戻る。
「……」
ベッドに横になり目を閉じる。眠る必要はないが、この時間が好きだ。一日を振り返り、明日の段取りを考える。
今日は特に問題なし。フィレーネの体調は良好。アレクシスとの関係も安定している。
使用人たちの僕への評価は恐ろしいが有能で固まりつつある。悪くない。
ハインリヒだけが相変わらず僕を観察している。あの老執事の勘は侮れない。
でも、証拠さえ残さなければ問題ない。魔術の痕跡は余程有能な魔術師じゃないと見破れないだろうから。
……と思っていたのだが。
翌朝。いつも通り台所で紅茶を淹れていると、ギュンターが妙なことを言った。
「なあ坊主。うちのかみさんが言うんだが」
「はい」
「最近この邸に、精霊が住み着いたんじゃないかって」
「精霊?」
「薔薇がやたら綺麗に咲くし、建物の調子はいいし、鼠はいなくなるって言ったらよ。かみさん曰く『良い精霊がこの家を守ってる証拠だ』ってな」
僕は危うく茶葉を零しそうになった。
「精霊ですか」
「信じるかどうかは別だがな。まあ、悪いことじゃねぇだろ」
ギュンターが豪快に笑った。
精霊。良い精霊。
間違ってはいない。ハイエルフはこの世界の基準で言えば精霊に近い存在だ。
人間からすれば、得体の知れない超自然的な力で家を守る存在。
精霊と呼ばれるのは少し面白かった。
少しだけ。
「ギュンターさん」
「なんだ」
「精霊がいるなら、大事にしたほうがいいですよ。機嫌を損ねると出ていっちゃうかもしれませんから」
「……そうだな。違いねぇ」
紅茶を盆に載せ、フィレーネの部屋に向かう
。
廊下を歩きながら、少し笑った。
精霊か。悪くない響きだ。
永遠の執事とか影の賢者とか大仰な二つ名よりも、大公邸の精霊のほうがずっと僕らしい。
誰にも見えないところで、こっそり世話を焼いている。それが僕のスローライフだ。
全然スローじゃないのは、いつものことだけれど。




