第二十三話 大公邸の使用人たちは混乱していた
大公邸での生活が始まって最初の一週間。
僕は大公家の使用人たちから、三つの称号を頂戴した。
迷子のエルフ。
フィレーネ様のお人形。
恐ろしい子供。
最初の二つは初日につけられた。三つ目は三日目以降だ。順を追って説明しよう。
大公邸はクラウティア家の屋敷が丸ごと十個入る規模だった。
白亜の石造り三階建て。左右に翼棟が伸び、中庭には噴水と薔薇園。
使用人だけで五十人以上。馬丁、庭師、料理人、侍女、警備。一つの街のように機能している。
正面玄関から僕は入った。完璧にアイロンがけされた黒の執事服。白銀の髪を整え、背筋を伸ばして。
出迎えた大公家の筆頭執事——ハインリヒという男が僕を見下ろして固まった。
「君がフィレーネ様の執事ですか?」
「はい。リアンと申します。よろしくお願いします」
「……」
ハインリヒの目が僕の頭のてっぺんから爪先まで二往復した。
それから背後の侍女長に視線を送った。侍女長も同じ顔をしていた。「聞いてはいたが、実物を見ると衝撃だ」という顔だ。
廊下を案内される間、すれ違う使用人の全員が振り返った。ひそひそ声が聞こえる。
「ねえ、あの子……エルフ?」
「フィレーネ様が連れてきた執事ですって」
「執事?あの子が?迷子じゃなくて?」
「可愛い……お人形みたい……」
迷子。お人形。
初日にして二冠達成。
与えられた部屋はフィレーネの居室に隣接した小部屋だった。使用人の部屋としては破格の立地で、これもアレクシスの配慮だろう。
だが、ハインリヒの目の奥には疑念が渦巻いていた。当然だ。
長年この邸を取り仕切ってきた老執事にとって、どこの馬の骨ともしれないエルフの子供が主人の側近として入り込んでくるのは面白いはずがない。
「ハインリヒ殿。大公家のしきたりに不案内な点がございますので、ご指導いただければ幸いです」
「……礼儀は弁えているようですね」
「十年仕込まれましたので」
ハインリヒが微かに眉を動かした。僕の言い方が気になったのだろう。仕込まれたという謙遜が子供の口から出る違和感。
初日は挨拶回りで終わった。大公邸のすべての使用人に顔を見せ、名前を覚え、役割を把握する。
五十三人。全員の名前と担当を一巡で記憶した。ハイエルフの完全記憶はこういう時に本当に便利だ。
二日目から仕事が始まった。
まず朝。フィレーネの紅茶を淹れる。これだけは誰にも譲れない。
大公邸の台所を借りて、いつも通りの温度、いつも通りの配合。マナで微調整した完璧な一杯。
問題は台所を使った時に起きた。
大公家の料理長……恰幅のいい中年男性で、名をギュンター。
彼が僕の淹れた紅茶の残りを何気なく口にしたのだ。
ギュンターの目が見開かれた。
「何だこれは」
「フィレーネ様用の紅茶ですが」
「茶葉は何を使った」
「そちらの棚にあったダージリンです」
「同じ茶葉で……この味が出るのか?」
ギュンターが僕の顔をまじまじと見た。料理人の目だ。技術に対する純粋な驚愕。
「温度管理を少し工夫しただけです」
「少しだと?うちの茶淹れ担当が三十年かけても出せん味だぞ」
褒められているのか詰問されているのか判断しかねたが、ギュンターの表情は後者に近かった。自分のテリトリーで想定外の技術を見せられた職人の反応だ。
「あと、こちらの竈。火の通りが少し不均一ですね。左奥の煉瓦が一つ歪んでいるので、熱が偏っています」
「何?」
「直しましょうか」
「触るな!この竈は俺が二十年——」
ギュンターが慌てて竈を庇った。職人の聖域に子供が手を出そうとした時の典型的な反応だ。
「失礼しました。出過ぎたことを」
「……いや。待て。本当に歪んでいるのか?」
「左奥から三番目の煉瓦が二ミリほど。火を入れた時に左側の温度が約五度低くなっているはずです」
ギュンターが黙って竈に手を当てた。火を入れ、しばらく待ち、各所の温度を確かめる。
「……本当だ。五度かどうかはわからんが、確かに左が弱い。気づかなかった」
「料理の腕で補正されていたんでしょう。それ自体がすごいことです」
ギュンターが複雑な顔で僕を見た。褒められたのか貶されたのかわからないという顔。それから、大きなため息をついた。
「……お前、本当に子供か?」
「よく聞かれます」
台所での一件は、たちまち使用人の間に広まった。
「あのエルフの子供、料理長を唸らせたらしい」
「紅茶の味が尋常じゃないって」
「竈の歪みを目で見ただけで当てたって」
三日目。洗濯室の前を通りかかった時、侍女の一人がシーツのシミに苦戦しているのが見えた。
「それ、冷水で先に揉み出してから石鹸を使うと落ちますよ。ワインのシミでしょう」
「え……あ、ありがとう。……ございます?」
侍女が困惑していた。子供に敬語を使うべきか迷っている。
四日目。庭園の手入れを見ていたら、薔薇の一株が病気にかかっているのに気づいた。
庭師に伝えると、ベテランの老庭師が渋い顔で確認し、「確かに黒星病の初期症状だ」と認めた。
「早期発見で助かった。だが坊主、なぜわかったんだ?」
「葉の裏の斑点の色で。微妙に茶色がかっていたので」
「わしの目じゃ見えん距離だったが……」
「エルフは目がいいので」
便利な言い訳だ。実際にはハイエルフの感覚能力が人間やエルフとは次元が違うだけなのだが。
五日目。アレクシスの書斎の蝶番が軋んでいたので、無断で直した。音もなく開閉するようになった蝶番に、アレクシスが首を傾げていた。
「リアン殿、書斎の扉が急に静かになったんだが」
「油を差しておきました」
「君、大公邸の全部の扉を直す気かい?」
「ご要望があれば」
「……」
そして一週間が経つ頃には、大公邸の使用人たちの評価は完全に塗り替わっていた。
「あの子、何なの……?」
「エルフの子供って聞いたけど、絶対普通じゃない」
「料理長があの子の紅茶を研究し始めたわよ」
「庭師のおじいちゃんが弟子にしたいって」
「ハインリヒ様が、最近あの子に敬語使ってるの見た」
「怖い……可愛い顔して、怖い……」
三つ目の称号。恐ろしい子供。
不本意だ。僕はただ、目についた仕事を片付けているだけなのに。
社畜の悲しい性で、非効率なものを見ると手を出さずにいられない。前世から何も変わっていない。
「リアンくん、使用人たちを混乱させてるでしょう」
フィレーネが朝の紅茶を飲みながら言った。
「心当たりがありません」
「昨日、侍女のカタリナがあの方は人間じゃないって泣いてたわよ」
「エルフなので、人間じゃないのは事実ですが」
「そういう意味じゃないでしょ……」
フィレーネが紅茶のカップを置いた。
「少し手加減しなさい。あなたの全力を出されたら、普通の使用人は立つ瀬がないのよ」
「善処します」
「絶対しないでしょ」
「……七割くらいに抑えます」
「五割」
「六割で」
「交渉成立。——はぁ、使用人と交渉する主人って何なのかしら」
フィレーネがため息をついたが、口元は笑っていた。
大公邸での日々は、思ったより悪くなかった。
仕事はある。人間関係は複雑。だが、クラウティア家の立て直しに比べれば平和なものだ。
誰も森を焼いてこないし、伯爵が圧力をかけてくることもない。
フィレーネとアレクシスの新婚生活は順調に見えた。アレクシスは相変わらず誠実で、フィレーネの仕事を理解し、口を出さず、必要な時だけ手を差し伸べる。いい距離感だ。
ただ一つ、気がかりなことがあった。
ハインリヒだ。
筆頭執事は僕に対して表向き丁寧だが、その奥に消えない警戒がある。
当然といえば当然だ。正体不明のエルフの子供は異物でしかない。
ある夜、廊下で二人きりになった時、ハインリヒが口を開いた。
「リアン殿」
「はい」
「一つ聞いてもよろしいか」
「どうぞ」
「あなたは──何者ですか」
真っ直ぐな問いだった。
「フィレーネ様の執事です」
「それは知っています。そうではなく、あなたの正体を聞いている」
ハインリヒの目は鋭かった。子供の外見に騙されはしない。
「エルフの子供。それ以上でも以下でもありません」
「……左様ですか」
ハインリヒは一礼して去っていった。納得してはいないだろう。だが、それ以上の追及はしなかった。職業的な分別がある人だ。
「ふぅ」
自室に戻り、窓から王都の夜景を見下ろした。
クラウティア家の屋敷から見えたのは、森と丘と星空だった。ここから見えるのは無数の灯りが瞬く王都の街並み。
景色は変わった。でも、やることは変わらない。
明日の朝もフィレーネのために紅茶を淹れる。完璧な温度で。
それが僕の仕事だ。たとえ舞台が没落貴族の台所から、大公家の邸宅に移っても。




