第二十二話 花嫁の支度は、執事の最後の大仕事
冬が過ぎ、春が来た。
正式な婚約の申し入れは予定通り年明けに届いた。大公家の紋章入りの豪華な書簡。
中身は格式張った文面だったが、末尾にアレクシスの直筆で一行だけ添えてあった。
「執事の紅茶も、楽しみにしています」
フィレーネがそれを読んで、呆れたように笑った。
「プロポーズの手紙に執事の紅茶の話を書く人、初めて見たわ」
「アレクシス様らしいですね」
「でしょう。……だから好きになったのかも」
さらりと言った。独り言のように。
好き、という言葉を、フィレーネの口から聞いたのは初めてだった。
胸の奥が少しだけ痛んだ。でも、それ以上に温かかった。
父親が娘の初恋を聞かされた時って、こんな気分なのだろうか。二百歳の……見た目十歳が父親気取りとは我ながら滑稽だ。
婚約が決まり、話は一気に動いた。
場所は王都の大聖堂。王家の立会いのもとで行われる大公家にふさわしい盛大な式だ。
そして、もう一つ大きな決定があった。
クラウティア家の領地は婚姻に伴い大公家の管轄に編入される。
フィレーネが嫁ぐ以上、独立した領地として維持するより大公家の庇護下に置くほうが合理的だという判断だ。
フィレーネは最初、複雑な顔をしていた。
「お父様とお母様が守った土地なのに……」
「なくなるわけじゃありません。大公家の領地として存続しますし、管理はアレクシス様を通じてフィレーネ様の意向が反映されます」
「……そうね。形が変わるだけで、土地は残る」
「ベルデの街も、森も、あの花壇も。全部そのままです」
フィレーネが窓の外のラベンダーを見つめて、小さく頷いた。
準備は加速した。
ドレスの手配、招待客リスト、式次第の確認、大公家との打ち合わせ。
加えてクラウティア家の領地引き継ぎの実務。十年分の帳簿の整理、小作農との契約の確認、エリーゼとの薬草取引の継続手続き。
星露草の取引は王都薬師組合との直接契約なので、領地の管轄が変わっても影響はない。
ベルデの街の人々にはフィレーネ自身が挨拶に回った。
マルコの店に立ち寄った時、口の悪い男が言葉に詰まっていた。
「……立派になりやがって」
「マルコさんのおかげよ。あの日、リアンくんを私と会わせてくれなかったら、今のわたしはいない」
「俺は乗せただけさ」
エリーゼにも報告に行った。老薬師は杖をついたまま、しわだらけの顔でにやりと笑った。
「大公家の嫁か。あの泣き虫のお嬢さんがねぇ」
「……わたし、泣いてないけど!」
「初めてうちに来た時、目が真っ赤だったじゃないか。緊張してたんだろ」
「あれは花粉症よ」
「そうかい」
フィレーネが頬を膨らませた。二十二歳の氷の女公爵が老婆の前では子供に戻る。
こういう関係が、ちゃんと残っているのがいい。
そして——。
結婚式の朝は雲ひとつない快晴だった。
大聖堂の控え室。僕はフィレーネの花嫁支度の最終確認をしていた。
純白のウェディングドレス。王都のメルヴィーユが仕立てた最高傑作だ。
繊細なレースの袖と流れるような裾。胸元にはクラウティア家の紋章を象った銀の小さなブローチ。
亜麻色の髪は緩い巻き毛に仕上げられ、白い花の髪飾りが添えてある。
「……どう?」
フィレーネが鏡の前で振り返った。
「……」
息を呑んだ。
十二歳の時、色褪せた藤色のドレスで階段を降りてきた少女の面影が一瞬だけ重なって消えた。
あの頃の怯えた瞳は今、静かな覚悟と喜びに満ちている。
「完璧です」
「また完璧。もうちょっと気の利いた感想ないの」
「では——フィレーネ様は、僕が仕えた中で最も美しい花嫁です」
「仕えた中でって、わたし以外に誰かいたの?」
「いませんが」
「じゃあ比較対象がないじゃない」
「比較対象がなくても断言できます」
フィレーネが目を逸らした。耳が赤い。
「……ありがと」
ヴェールを整える。最後の仕上げ。僕の指がフィレーネの髪にかすかに触れた。
この髪を十年前は泥だらけにしながら花壇の雑草を抜いていた。
あの日の土の匂いを、僕はまだ覚えている。
二百年の記憶の中で、一番鮮明な匂いだ。
「リアンくん」
「はい」
「泣いてない?」
「泣いてません。エルフは涙腺が強いので」
「ふうん。目、赤いけど」
「光の加減です」
「嘘つき」
ノックの音。式の時間だ。
「フィレーネ様。参りましょう」
「ええ」
控え室の扉を開ける。廊下の向こうに大聖堂の大扉が見えた。その先には満場の貴族たち。祭壇の前には、アレクシスが立っているはずだ。
フィレーネが一歩踏み出し——立ち止まった。
「リアンくん。あなたに会えて……よかった」
振り返らずに言った。ヴェール越しの声は、少しだけ震えていた。
「……僕もです」
それ以上の言葉は出なかった。出す必要もなかった。
フィレーネが歩き出した。僕は三歩後ろについて歩く。いつもの距離。十年間変わらなかった距離。
大聖堂の扉が開いた。
光が溢れた。ステンドグラスを通した色とりどりの陽光が、聖堂の中を虹色に染めている。パイプオルガンの荘厳な音色。数百人の招待客の視線。
その中をフィレーネは真っ直ぐに歩いていった。
祭壇の前でアレクシスが手を差し出した。フィレーネが手を取った。
僕は最前列の端に立って、その光景を見届けた。
誓いの言葉。指輪の交換。祝福の鐘。
花びらが舞った。白と薄紫。白百合とライラック。
フィレーネが笑った。ヴェールの下の、心からの笑顔。
——あぁ。
素敵だ。
でも、なんでだろう。
寂しい気がする──。
大聖堂の鐘が王都の秋空に響き渡る。
「……」
式の後、僕は聖堂の裏手で一人、空を見上げた。
十年前にマルコの荷馬車でベルデに向かう途中に見上げた空を思い出した。
あの時は「綺麗だ」と素直に思えた自分に驚いたっけ。
今日の空も綺麗だ。
少しだけ目の奥が熱い。光の加減だ。断じて涙ではない。
「リアン殿」
声をかけられて振り返ると、アレクシスが立っていた。花婿が式の後にこんな場所にいていいのだろうか。
「花嫁を放置して大丈夫ですか」
「少しだけ。君に、どうしても伝えたいことがあって」
アレクシスが僕の正面に立った。銀髪の好青年は、真剣な目をしていた。
「フィレーネから聞いています。十年前のこと。没落した家に一人でいた彼女を君が支えてくれたこと」
「僕はただの使用人です。仕事をしただけで——」
「仕事以上のことをしてくれたと、彼女は言っていました」
アレクシスが右手を差し出した。
「ありがとう。フィレーネをここまで育ててくれて」
育てた。
その言葉が、胸の奥の一番柔らかい場所に触れた。
僕はその手を握り返した。大人の男の大きな手と子供の小さな手。不釣り合いな握手。
「アレクシス様。一つだけ」
「何でしょう」
「フィレーネ様を、幸せにしてください。でないと——」
僕は微笑んだ。人生で磨いた、とびきり穏やかな微笑みを。
「国を滅ぼしますので」
「……冗談、ですよね?」
「冗談です。たぶん」
アレクシスが引きつった笑いを浮かべた。半分冗談だと伝わったらしい。半分は本気だとも。
「肝に銘じます」
「よろしくお願いしますね」
アレクシスが披露宴会場に戻っていく。その背中を見送りながら、僕は小さく息を吐いた。
いい男だ。フィレーネを任せるに足る人間だ。
さて。僕も行こう。
明日から新しい生活が始まる。大公邸でフィレーネの傍で。執事として。
変わらない役目を、変わらない姿で、変わりゆく人の隣で。
それが僕の選んだスローライフだ。
全然スローじゃないけれど。




