第二十一話 父のような、兄のような、それ以外のような
大公邸への訪問は、つつがなく終わった。
アレクシスの家族は好意的だった。
大公本人は威厳のある老人でフィレーネを見定めるような鋭い目をしていたが、食事の席でフィレーネが領地経営の実績を語り始めると目の色が変わった。
アレクシスの母親に至っては「まあ、しっかりした方」を連発していた。
帰りの馬車の中で、フィレーネは珍しく饒舌だった。
「思ったより緊張しなかった。アレクシスのお母様が面白い方で」
「気に入られたようですね」
「リアンの紅茶のおかげよ。お母様がこの味を毎日飲みたいって」
「僕を嫁入り道具にしないでください」
「冗談よ。……半分くらい」
半分は本気なのか。
正式な婚約の申し入れは、年明けになるだろうとアレクシスが言っていた。大公家の格式として、しかるべき手順を踏む必要があるからだ。
つまり、あと数ヶ月。
屋敷に戻った夜、僕は自室のベッドに横になって天井を見つめていた。
眠る必要はないが、こうして横になる時間は好きだ。
思考を整理する時間。前世のサラリーマンだった頃、布団の中で翌日の段取りを考えていたのと同じ感覚。
フィレーネが嫁ぐ。
大公家に。アレクシスの元に。
僕の胸の内にある感情を、正確に名付けようとして、失敗している。
嫉妬。確かにそれはある。舞踏会でアレクシスとフィレーネが踊るのを見た時、胸の奥がざわついた。あれを嫉妬と呼ばずに何と呼ぶ。
だが——本当に、それだけか?
僕はこの十年、フィレーネの何だったのか。
使用人。教師。助言者。それは間違いない。だが、それだけではない気がする。
十二歳の少女に料理を教え、帳簿の読み方を教え、交渉術を叩き込んだ。
夜泣きした時には黙って紅茶を淹れた。熱を出した時は三日間つきっきりで看病した。
初めての商談の前夜、緊張で眠れないと言う彼女に、朝まで付き合った。
……これは。
僕は小さく笑った。
恋慕じゃない。いや、恋慕もあるのかもしれないが、それだけではない。
これは——娘を嫁に出す父親の気持ちだ。
それか妹を送り出す兄の気持ち。大切に育てた子供が巣立っていく時の誇らしさと寂しさが入り混じった感情。
二百年しか生きていない若造のくせに、父親気取り。
フィレーネが聞いたら怒るだろう。「あなた、見た目は十歳でしょ」と。
でも、そうなのだ。
恋だけならもっと単純だった。嫉妬して、苦しんで、それでも身を引く。綺麗な物語になる。
実際はもっとぐちゃぐちゃだ。恋慕と親心と兄心と、使用人としての矜持と、ハイエルフとしての達観が全部混ざって、名前のつけようがない感情になっている。
二百年生きても、感情の整理は上手くならないらしい。
あと千年生きたら少しはましになるだろうか。
……ならないだろうな。たぶん。
数万年生きたらなるかもしれないが。他のハイエルフのように。
「やれやれ」
天井に向かって呟いた。
まあ、いい。名前がつかない感情でも、やるべきことは変わらない。フィレーネの幸せを全力で支える。それが僕の仕事だ。
問題はその先だ。
フィレーネが大公家に嫁いだ後、僕はどうする。
この屋敷を去って、また別の場所に——
「リアンくん、起きてる?」
扉の向こうからフィレーネの声。こんな時間に。
「起きてます。どうしました」
「入っていい?」
「どうぞ」
扉が開いた。フィレーネが寝巻き姿で立っている。手にはカップが二つ。
「紅茶、淹れてきた。わたしが」
「フィレーネ様が淹れたんですか」
「たまにはいいでしょ」
一つを受け取った。一口飲む。
温い。やや渋い。茶葉の蒸らし時間が二十秒ほど長かったのだろう。僕が淹れるものとは比べるべくもない。
「おいしいですね」
「嘘でしょ。渋いのわかってるわよ」
「渋いけど、おいしいんです。フィレーネ様が淹れたから」
「……変なこと言わないで」
フィレーネが僕の向かいの椅子に座った。二人で紅茶を飲む。
使用人部屋で、深夜に。主人と使用人の距離感としては完全に崩壊しているが、この十年、こういう時間は何度もあった。
「リアンくん。一つ、聞きたいことがあるの」
「はい」
「わたしが嫁いだら、あなたも一緒に来てくれるのよね」
来た。考えていたことを、そのまま聞かれた。
以前は一緒にいると言った。だが、果たして僕がいる必要があるのだろうか。
「実は、身を引こうかと。大公家には大公家の使用人がいます。僕がいると——」
「はい却下」
即答だった。
「当主命令よ。あなたはクラウティア家の筆頭執事なんだから。ていうか前と言ってること違うじゃない」
「後任を育てれば——」
「リアンくんの代わりなんていない。十年かけても見つからなかったのに、今更何を言ってるの」
フィレーネの声に、普段の冷静さがなかった。怒りに近い何か。
「……わたしがいなくなるからって、逃げる気?」
「逃げるなんて——」
「逃げるのよ。あなたはいつもそう。肝心なところで身を引こうとする」
フィレーネがカップを置いた。音が少し荒い。
「アレクシスにも言われたわ。エルフの執事も、ぜひそのまま置いてほしいって。あの人もリアンくんの紅茶のファンなのよ。困ったことに」
「アレクシス様が?」
「あれだけ優秀な執事を手放すなんて馬鹿のすることだって。珍しくまともなことを言ったわ」
アレクシス。彼は見る目はあるらしい。
「それに——」
フィレーネが声を落とした。
「わたしはまだ、あなたの紅茶を飲み足りないの。十年じゃ全然足りない。二十年でも三十年でも飲みたい。……お婆さんになってもって言ったのはリアンくんでしょ」
言った。確かに言った。軽口のつもりだった。
でも、フィレーネはそれを覚えていた。
「わたしのわがままよ。聞いてくれる?」
わがまま。
十二歳の時に言ったわがままと、同じ響き。
あの頃は「わがままを覚え始めた。いい傾向だ」と思った。
今も、そう思う。
僕は紅茶のカップを置いた。
「……かしこまりました。フィレーネ様がお許しくださるなら、引き続きお仕えいたします」
「許すとかじゃなくて、命令」
「では、命令に従います」
「よろしい」
フィレーネがようやく笑った。安堵の混じった、柔らかい笑み。
氷の女公爵の顔ではなく、十二歳の頃の面影が残る素の表情。
「……ありがと、リアンくん」
こういう時だけ、十年前の距離感に戻る。
「礼には及びません。それより、そろそろお休みになってください。明日は朝から——」
「わかってる。領地視察でしょ」
「はい。馬車は七時に手配してあります」
「鬼」
「執事です」
フィレーネがカップを持って立ち上がった。扉の前で振り返る。
「ねえ、リアンくん」
「はい」
「わたしがお婆さんになったら、本当にまだいてくれる?」
「いますよ。約束です」
「嘘ついたら怒るからね」
「嘘はつきません。紅茶の温度以外は」
「何それ」
フィレーネが笑いながら出ていった。
足音が遠ざかる。寝室の扉が閉まる音。
一人になった使用人部屋で、僕は冷めかけた紅茶の残りを飲み干した。
渋い。やっぱり渋い。
でも、今まで飲んだどの紅茶よりも、味がした。
……僕は彼女と一緒にいる。フィレーネが老いて、いつかこの世を去るその日まで。
それが幸福なのか残酷なのか、二百年生きてもわからない。
わからないまま、いよう。
不完全な紅茶みたいに、名前のつかない感情を抱えたまま。
それでいい。完璧じゃないから温かいのだ。
窓の外で夜が白み始めていた。
明日も朝が来る。フィレーネのために紅茶を淹れる、いつもの朝が。




