第二十話 大公家の子息は悪い人間ではなかった
舞踏会から一週間後、アレクシスがクラウティア家を訪ねてきた。
事前の通知なし。従者二人だけの軽装。
貴族の正式訪問ではなく、私的な来訪という体裁。なかなか巧みな距離の詰め方だ。
「突然の訪問、失礼をお許しください。近くまで参りましたもので」
近く。大公家の本邸は王都にある。ベルデの街は王都から近いわけではないが……近くの定義が貴族は広いものだ。
フィレーネは急な来客にも動じなかった。応接間に通し、僕が紅茶を淹れる。いつも通りの温度、いつも通りの配合。
アレクシスが一口飲んで、目を丸くした。
「これは……素晴らしい。宮廷の茶会でもこの味は出せない」
「うちの執事の腕です」
「このエルフの少年が?」
「ええ。リアンは何でもできるの。困るくらいに」
僕は壁際で軽く一礼した。アレクシスの視線が僕を捉える。品定めではなく、純粋な好奇心の目だ。
「珍しいですね。エルフの執事というのは聞いたことがない」
「珍しいでしょうね。たぶん世界で一人だけです」
フィレーネの返しにアレクシスが笑った。屈託のない笑い方だった。
二人の会話を聞きながら、僕はアレクシスという人間を観察していた。
第一印象は舞踏会と変わらない。育ちがよく、礼儀正しく、会話の間合いが上手い。
大公家の子息として、政治の道具にされることに慣れている人間の洗練がある。
だが、奥にあるものは——意外と素直だった。
フィレーネの話を聞く時、少し前のめりになる。紅茶を褒めたのもお世辞ではなく本心だ。庭のラベンダーを見て「綺麗ですね」と言った時の目は、社交辞令の色をしていなかった。
悪い人間ではない。むしろ、大公家の血筋にしては驚くほど誠実だ。
……だから、厄介なのだが。
「フィレーネ嬢。率直にお伺いしてもよろしいですか」
「どうぞ」
「私はあなたに興味があります」
直球だった。フィレーネが微かに目を瞬かせた。この手の申し出を受ける時、彼女は常に政治的な計算を挟む。だが、アレクシスの声音にはそういう打算がなかった。
「政治的な利害とは別に、一人の人間として。舞踏会でお話しした時から、もっとあなたを知りたいと思っていました」
「……随分と正直な方」
「駆け引きが苦手なんです。」
「大公家の方が駆け引き下手で大丈夫なんですか」
「だから、よく父から叱られます」
フィレーネが小さく吹き出した。不意打ちだったのだろう。氷の鎧に一瞬だけ亀裂が入った。
アレクシスはそれを見逃さなかった。目が柔らかくなる。この男、鈍いようでいて人の表情の変化には敏い。
「月に一度、こちらに伺ってもよろしいですか。もちろん、ご迷惑でなければ」
「……月に一度くらいなら」
「ありがとうございます」
アレクシスが帰った後、フィレーネは応接間のソファで天井を見上げていた。
「リアンくん」
「はい」
「あの人のこと、どう思う」
「悪い方ではないと思います」
「それは舞踏会の時も聞いた。もっと具体的に」
「誠実で、裏表が少なく、フィレーネ様に対して本気で興味を持っています。政略結婚の道具として来たのではなく、個人的な好意が先にある」
「……見抜くの早いわね」
フィレーネが体を起こした。
「正直に言うと、困ってる」
「何にですか」
「あの手の人が一番困るのよ。打算で来る相手なら打算で返せばいい。でも、誠意で来られると……」
「誠意で返すしかない」
「そう。それが一番難しい」
氷の女公爵は氷で対処できない相手に弱い。それは十年前から知っている。フィレーネの氷は自分を守るための鎧だ。敵には有効だが、味方には機能しない。
「フィレーネ様。一つだけ」
「なに」
「政治とか、家のこととか、全部忘れて。アレクシス様と話していて、楽しかったですか」
フィレーネが黙った。数秒の沈黙。それから。
「……嫌じゃなかった」
「それで十分じゃないですか。今は」
フィレーネが僕を見た。何か言いたそうな目。でも、言葉にはならなかった。
「……そうね。紅茶、もう一杯もらえる?」
「かしこまりました」
台所で紅茶を淹れる。二杯目。今度は少しだけ甘めにした。疲れた日の配合だ。
アレクシスは、月に一度の約束を律儀に守った。
二回目の訪問では、庭を一緒に歩いた。三回目は、フィレーネが領地を案内した。四回目には、二人で馬を並べてベルデの街まで出かけた。
僕はいつも三歩後ろにいた。執事として。従者として。
アレクシスはフィレーネの話をよく聞いた。領地経営の苦労話、幼い頃に一人で過ごした日々、父と母の思い出。
フィレーネが他人にはめったに語らないことを、彼の前では少しずつ話すようになっていた。
氷が溶けている。ゆっくりと、でも確実に。
五回目の訪問の夜、フィレーネが僕を呼んだ。
執務室。夜の灯りの下で、彼女の表情はいつもより柔らかかった。
「リアンくん。来月、王都の大公邸に招かれたわ」
「アレクシス様から?」
「ご家族に紹介したいって」
それは——事実上の婚約の前段階だ。大公家が家族ぐるみでフィレーネを迎え入れるということは、正式な申し入れが近いことを意味する。
「おめでとうございます」
自然に出た言葉だった。心からの言葉だった。
フィレーネが首を傾げた。
「まだ何も決まってないわよ」
「ですが、方向としては」
「……うん。たぶん、そうなると思う」
フィレーネが自分の左手を見つめた。薬指。まだ何もはまっていない指。
「アレクシスは、いい人よ。誠実で、優しくて。わたしの仕事も理解してくれる。領地経営にも口を出さないと言ってくれた。政治的にも申し分ない縁だし」
「はい」
「でも——」
フィレーネが言葉を切った。
僕を見る。
「でも、なんですか」
「……ううん。なんでもない」
嘘だ。
でも、追及しない。
追及してはいけない。
僕は執事だ。
「大公邸訪問の準備を進めます。ドレスの新調と、手土産の選定と——」
「リアンくん」
「はい」
「あなたも一緒に来て」
「もちろんです」
「……ありがとう」
フィレーネが立ち上がり、執務室を出ていった。
一人になった部屋で僕は窓の外を見た。秋の月が昇っている。
フィレーネが幸せになる。それは喜ぶべきことだ。十年前、ぼろぼろの屋敷で一人きりだった少女が、大公家の一員になろうとしている。
僕の仕事はほぼ完了だ。
フィレーネはもう一人で立てる。一人で歩ける。
一人で戦える。僕がいなくても。
月が雲に隠れた。部屋が少し暗くなった。
「……やれやれ」
面倒事は嫌いだ。感情の整理なんて、一番面倒な仕事だ。
二百年以上生きても、これだけは上手くならない。




