第十九話 氷の貴族は踊れない
ダンス教師を雇った。
王都から来た初老の紳士で名をヴィクトールという。宮廷舞踏の専門家で数多くの貴族令嬢を指導してきた実績がある。
初回のレッスンに立ち会った僕は、五分で状況を把握した。
フィレーネには壊滅的にリズム感がなかった。
「いち、に、さん。いち、に——フィレーネ様、右足でございますよ」
「右ってこっち?」
「それは左です」
ヴィクトールの額に汗が浮かんでいる。帝王学を一週間で吸収し、交渉術を三ヶ月で実戦レベルに引き上げた天才がワルツの基本ステップで躓いている。
「リアンくん、笑ってるでしょ」
「笑ってません」
「口元」
「おっと、失礼」
フィレーネは天才だ。三日後には基本ステップを完璧に習得し、一週間後にはヴィクトールが「筋がいい」と唸るほどになった。二週間後には教師のほうが息切れしていた。
「フィレーネ様は大変な努力家ですな。これなら舞踏会でも見劣りしないでしょう」
ヴィクトールが帰った後、フィレーネが汗を拭きながら言った。
「問題が一つ残ってるわ」
「なんですか」
「本番で誰と踊るか」
舞踏会のダンスは、一人では踊れない。パートナーが要る。
「大公家に申し出れば、喜んで引き受けるでしょう」
「それだと婚約に前向きだという意思表示になるわ。まだ保留にしたいのに」
「では、他の貴族の子息に——」
「誰と踊っても政治的メッセージになる。面倒ね、社交界って」
正論だ。王家主催の舞踏会で誰と踊るかは、それだけで派閥の意思表明になる。
「……一曲だけなら、わたしから誰も誘わないという手もあるわ。誘われた相手と踊れば、主導権はこちらにあると示せる」
「受け身の戦略ですが、フィレーネ様の立場なら有効です」
「でしょう。——あ、でもリアンくんと踊る練習もしたいな」
「僕とですか」
「本番前に色んな体格の相手と練習しておきたいの。ヴィクトール先生は背が高すぎるから、小柄な相手との感覚も掴んでおきたくて」
「僕は小柄というか、子供ですが」
「ちょうどいいじゃない」
ちょうどよくない。身長差がありすぎて、まともなリードなど不可能だ。
だが、フィレーネが手を差し出した。
「一曲だけ。ね?」
断る理由がなかった。
応接間の家具を端に寄せ、即席のダンスフロアを作った。
音楽はない。フィレーネが自分でリズムを口ずさむ。
「いち、に、さん。いち、に、さん——」
僕の手がフィレーネの腰に届かないので、代わりに手を繋ぐだけの簡易な形で踊った。ワルツの旋律に合わせて二人の影が床の上を回る。
十年前は同じくらいの背丈だった。今は僕の頭がフィレーネの胸元あたりだ。見上げる形になる。
「リアンくん、上手いわね」
「一応、知識はありますので」
「知識だけでこんなに滑らかに動ける?」
「エルフは身体能力が高いので」
「また便利なエルフの言い訳。便利ね、エルフって」
くるりと回って、ステップを合わせる。フィレーネの足運びは既にかなり洗練されている。あとは本番の緊張さえ制御できれば問題ない。
「……ねえ、リアンくん」
「はい」
「舞踏会、一緒に来てくれるわよね」
「もちろんです。従者として同行します」
「従者か。——うん、そうよね」
曲の終わりに合わせて足を止めた。フィレーネが僕の手を離す。
ほんの一瞬、指先が名残惜しそうに触れていた気がしたが、気のせいだろう。
そして——秋が来た。
王都グランヴェルの王城。大広間。
数百の燭台が黄金の光を注ぎ、大理石の床が鏡のように磨き上げられている。壁面には王家の歴史を描いた巨大なタペストリーが掛けられ、楽団の奏でる旋律が高い天井に反響していた。
王国中の有力貴族が一堂に会する、年に一度の大舞踏会。
その入口にフィレーネが立った。
深い紺色のドレスは王都のメルヴィーユが仕立てた一点物だ。銀糸の刺繍がクラウティア家の紋章を描き、裾は歩くたびに波のようにうねる。
亜麻色の髪は複雑な編み込みで纏められ、首筋に銀のチョーカーが光る。
会場の視線が集まった。囁きが波紋のように広がる。
「あれがクラウティア家の……」
「噂通りの美女だな……」
「まだ二十二だと?信じられん」
僕はフィレーネの三歩後ろに控えていた。従者の正装として黒の執事服を着ている。
この体格で完璧に仕立てた執事服はなかなかの違和感だが、エルフの従者という珍しさで好奇の目は集めても不審がられることはない。
フィレーネが歩き出した。背筋はまっすぐ、視線は正面。氷の鎧を完璧に装着している。
だが僕にはわかる。右手の小指が微かに震えている。
緊張している。当然だ。地方貴族が王城の大舞踏会に出るのは初めてなのだから。
僕は半歩だけ距離を詰めて小声で言った。
「フィレーネ様。右手を」
フィレーネがさりげなく手を組んだ。震えが隠れる。
「ありがとう」
会場を一周する間に何人もの貴族がフィレーネに挨拶をしてきた。
大半は初対面だがクラウティア家の名は既に知れ渡っている。フィレーネは完璧な微笑みと適切な距離感で応対した。
そして来た。
「フィレーネ嬢。お初にお目にかかります」
整った顔立ちに、育ちの良さが滲む立ち居振る舞い。胸元の紋章は大公家のもの。
アレクシス・フォン・ヴァルシュタイン。書簡で会食を申し入れてきた人物だ。
「アレクシス様。お噂はかねがね」
「こちらこそ。氷の女公爵の名は王都でも広く知られております」
社交辞令の応酬。完璧な笑顔と完璧な所作。貴族社会の表層。
……女公爵というのは仇名だ。公爵家に不敬だと思われてたらどうしようかと思ってたが、どうやら怒ってないらしい。よかった。
「一曲、お相手願えますか」
予想通りだ。大公家の子息が最初のダンスを申し込んできた。
断れば失礼にあたる。だが受ければ——
フィレーネが僕を見た。
「……」
僕は……首を縦に振った。
彼女はそれを見て一瞬悲しそうな瞳を浮かべた。
だが、次の瞬間には氷の鎧を着ていた。
「……喜んで」
フィレーネが手を取った。
楽団がワルツを奏で始めた。アレクシスがリードし、フィレーネがそれに従う。二人の動きは流麗で、周囲の視線を釘付けにした。
僕は壁際に立って、その光景を見ていた。
完璧なダンスだった。ヴィクトールの指導とフィレーネ自身の努力の成果。
ステップに迷いはなく、表情は優雅に微笑んでいる。
アレクシスも上手い。大公家の子息として、幼少期から叩き込まれてきたのだろう。二人の息は自然と合っていた。
絵になる二人だった。
釣り合いの取れた身長。美しい顔立ち。
「……」
──なるほど。こういう感情を人間は嫉妬と呼ぶのか。
いや、違う。これは嫉妬じゃない。もっと静かなものだ。
当たり前のことを、当たり前に受け入れているだけだ。
フィレーネは人間で、僕はハイエルフで。彼女の隣に立つべきは同じ速度で時を刻む人間だ。僕ではない。
(わかっている)
最初から、わかっていた。
ワルツが終わった。フィレーネがアレクシスの手を離し、優雅に一礼する。周囲から拍手が起きた。
フィレーネが壁際に戻ってきた。扇で口元を隠しながら、小声で言った。
「どうだった?」
「お見事でした」
「アレクシス様の印象はどう?」
「育ちがよく、社交的で、政治的野心は控えめ。悪い人ではないでしょう。ただ——」
「ただ?」
「主導権はフィレーネ様が握れます。あの方は、強い女性に弱いタイプです」
「分析が冷静すぎない?」
「執事ですので」
フィレーネが扇の陰でふっと笑った。
「もう一つ聞いていい?」
「どうぞ」
「わたしのダンス、本当に良かった?」
「本当に。練習の成果です」
「──応接間で踊った時のほうが楽しかったけどね」
「……」
その言葉は喧騒の中に消えた。
聞こえなかったらよかったのに。
でも、ハイエルフの聴覚は残酷なほど正確で。
一言一句、完璧に聞こえていた。




