第十八話 三つの招待状
面倒事はいつも紅茶の時間にやってくる。
フィレーネが、ようやく一息ついた隙を狙ったかのように三通の書簡が届いた。
僕が銀盆に載せて差し出すと、フィレーネは封蝋を一目見て眉をひそめた。
「王家紋章。大公家紋章。それと……これは?」
「東方辺境伯グラナート家の紋章です」
「三つとも同じ日に届くなんて、偶然?」
「偶然ではないでしょうね」
フィレーネが一通ずつ開封していく。僕は傍らで待った。
一通目。王都で開催される秋の大舞踏会への招待状。
王家主催。参加者は王国の有力貴族に限られる。クラウティア家にこの招待が届くこと自体が、この十年の躍進を象徴していた。
二通目。大公家の子息との会食の申し入れ。婚約の打診だろう。
フィレーネの年齢と地位を考えれば、そろそろ縁談が来てもおかしくない時期だ。
三通目。東方辺境伯グラナート家から。
内容は——
「軍事同盟の打診?」
フィレーネが紙面から目を上げた。
「辺境伯が?うちに?」
「東方辺境は隣国との緊張が高まっています。グラナート家は味方を増やしたいのでしょう。クラウティア家の経済力と王都との繋がりに目をつけたと思われます」
「軍事同盟なんて、うちの規模では荷が重い」
「ですが断れば辺境伯の心証を損ねます。かといって受ければ、他の貴族との関係に影響が出る」
フィレーネが三通の招待状を並べて眺めた。指先で紙の端を叩く。考え込む時の癖だ。
「舞踏会、縁談、軍事同盟。全部つながってる」
「というと」
「秋の舞踏会は王家が有力貴族の顔ぶれを確認する場でしょう。大公家の縁談はそこに合わせた布石。辺境伯の同盟打診は、舞踏会の前にうちを囲い込みたいという意思表示。——わたしの取り合いが始まってるのよ」
僕は内心で舌を巻いた。十年前、帳簿の読み方から教えた子が、貴族政治の力学をここまで読めるようになっている。
「フィレーネ様のご判断は」
「舞踏会には出る。これは断る理由がない。大公家の会食も受ける。ただし、婚約の話が出たら保留。辺境伯には丁重にお断りしつつ、経済面での協力は検討すると返答する」
「完璧です」
「当然でしょう。誰に教わったと思ってるの」
フィレーネがかすかに笑った。氷の女公爵の鎧の隙間から覗く、十二歳の頃と変わらない笑み。
「ただ、問題が一つ」
「なんですか」
「舞踏会。わたし、踊れないの」
「え?」
「だって教わったことないもの。帝王学と交渉術は貴方叩き込まれたけど、ダンスは課題に入ってなかったわ」
確かに。盲点だった。教育カリキュラムに社交ダンスを組み込んでいなかった。
没落貴族の家計立て直しに忙しくて、そんな余裕はなかったのだ。
「リアンくん、あなた踊れる?」
「一応は」
「一応ってなに?」
「知識があっても、この体で大人の女性をリードするのは物理的に難しいという話です」
「あぁ……背が足りないものね」
フィレーネが笑みをこぼした。僕の身長がネタにされるのは少し前からの定番だが慣れない。
「どうにかしないとね。ダンスの教師を雇うわ」
「手配します」
「あと、ドレスも新調しなきゃ。王家主催の舞踏会に地方貴族の普段着で行くわけにはいかないし」
「仕立屋は王都のメルヴィーユがよいかと」
「さすが。もう調べてあるの」
「舞踏会の招待が来る可能性は、先月の時点で想定しておりましたので」
「……リアンくん、今更だけど貴方何者なの」
「フィレーネ様の執事です」
定型文で返す。フィレーネは「はいはい」と言って書簡を引き出しにしまった。
その夜。
使用人たちが寝静まった後、僕は一人で庭に出た。
夏の夜風が心地いい。満天の星が庭園を銀色に照らしている。ラベンダーの香りが濃い。
舞踏会。
フィレーネが王家の社交界に出るということは、彼女がもう一段階上のステージに上がるということだ。地方の成功した貴族から王国の政治に関わる存在へ。
そして──
「縁談……か」
いずれ来ると思っていた。二十二歳の未婚の女性当主。資産家。美貌。政治力。これだけ揃えば、放っておくほうがおかしい。
フィレーネが誰かと結婚する。家庭を持つ。子供が生まれる。
当然の流れだ。人間として当然の人生だ。
僕はその時、どこに立っているのだろう。
執事として傍らに。
それは変わらない。変わらないが——
「リアンくん?」
背後から声がした。振り返ると、フィレーネが庭に立っていた。寝巻きの上に薄いショールを羽織っている。
「おや、フィレーネ様。何故ここに。眠れないのですか?」
「なんとなくね。あなたこそ、こんな時間に庭で何してるの」
「星を見てました」
「嘘。考え事でしょ」
否定できなかった。この人の前では、大抵の嘘は通用しない。十年の付き合いだ。
フィレーネが隣に立った。二人で庭のベンチに腰掛ける。
十年前に僕が直したベンチだ。今でもしっかりしている。マナで強化した木材は百年経っても朽ちない。
「ねえ、リアンくん」
「はい」
「大公家の縁談、どう思う?」
「政治的には悪くない選択肢です。大公家との婚姻関係は、クラウティア家の地位を格段に——」
「政治の話じゃなくて」
フィレーネが僕を見た。月明かりに照らされた灰青色の瞳。二十二歳の女性の目。そこにあるのは、氷の女公爵の冷徹さではなかった。
「あなた個人の感想を聞いてるの」
僕個人の感想。
使用人に個人の感想を求める主人は、あまりいない。でも、フィレーネは昔からそうだった。
僕を使用人としてだけでなく、一人の存在として扱う。それが嬉しくて、同時に困る。
「フィレーネ様が幸せになれるなら、どんな選択でも僕は支持します」
「模範的な回答ね」
「事実です」
「じゃあ聞き方を変える。わたしが誰かと結婚したら、リアンくんはどうするの」
「変わらずお仕えします。お許しいただけるなら」
「許すも何も、あなたがいなくなったら困るわ。紅茶を淹れる人がいなくなる」
「紅茶だけですか」
「……紅茶だけじゃ、ないけど」
沈黙が落ちた。虫の音だけが庭に響いている。
フィレーネが空を見上げた。
「ねえ。星って、綺麗よね」
「はい」
「十年前、王都に行く途中に川辺で野宿した時も言ったわ。覚えてる?」
「覚えてます」
忘れるわけがない。ハイエルフの完全記憶は、あの夜の星の配置すら正確に再現できる。
フィレーネが「綺麗」と言った時の声のトーンも。
焚き火の爆ぜる音も。
川のせせらぎも。
全部。
「わたしね、あの夜のことをたまに思い出すの。あの頃は何も持ってなくて、でも不思議と不安じゃなかった。リアンくんがいたから」
「買いかぶりですよ」
「買いかぶりじゃないわ。事実よ」
フィレーネがショールを引き寄せた。夏とはいえ夜は少し冷える。
「……わたしね、本当は怖いの」
「何がですか」
「舞踏会も、縁談も、政治も。全部。十年やってきても、慣れない。毎朝起きるたびに、今日こそ失敗するんじゃないかって」
「フィレーネ様は一度も失敗していません」
「してないから怖いのよ。失敗を知らないから、失敗した時にどうすればいいかわからない」
それは——正直な告白だった。氷の鎧の下にある生身のフィレーネの声だった。
「フィレーネ様」
「なに?」
「失敗しても、僕がいます」
「……」
ありきたりな言葉だった。使用人として当然の台詞だった。
でも、フィレーネの肩から少しだけ力が抜けたのが見えた。
「ずるいわ、リアンくん。そういうこと言うの」
フィレーネが立ち上がった。ショールの裾が夜風に翻る。
「明日、ダンス教師の手配と、仕立屋への連絡をお願い。あと、辺境伯への返書の草案も」
「かしこまりました」
「おやすみ、リアンくん」
「おやすみなさいませ、フィレーネ様」
フィレーネの背中が屋敷に消えていく。
僕はベンチに座ったまま、しばらく星を見上げていた。
あの夜の星と今夜の星。
十年前と同じ星。
でも、隣にいる人は変わった。小さな少女は貴族界を動かす女性になった。
僕だけが変わらない。
この先も、ずっと。




