第十七話 十年は瞬きのようだった
十年が経った。
僕にとっては、本当に瞬きほどの時間だった。
アエテルヌムで百年をぼんやり過ごした身からすれば十年など朝食と昼食の間のようなものだ。
だが、人間にとっての十年はすべてを変える。
「リアンくん、今日の予定を」
「はい、フィレーネ様。午前中に領地視察、正午から商会代表との会食、午後は王都薬師組合からの使者との面談。夕刻にベルデ市議会への出席。夜は——」
「夜は?」
「空いております。たまには休まれてはいかがですか」
「検討するわ」
検討するだけで実行しないのは知っている。この人は昔からそうだ。
クラウティア家の当主執務室。
かつての埃だらけの書斎は今では壁一面の書架と大きな執務机、来客用のソファが整然と配置された立派な部屋に生まれ変わっている。
窓からは手入れの行き届いた庭園が一望でき、初夏の陽光がラベンダーの紫を鮮やかに照らしていた。
あの花壇は今では屋敷の庭全体に広がっている。
執務机の向こうに座る女性——もう少女とは呼べない彼女が、書類から顔を上げた。
フィレーネ・フォン・クラウティア。二十二歳。
亜麻色の髪は腰まで伸び、輝いている。かつての病的な青白さは消え、薄く紅が差している。
線の細さは残っているが、それは脆さではなく研ぎ澄まされた刃のような鋭さに変わっていた。
灰青色の瞳はあの頃と同じ色だ。ただし、そこに宿る光はまるで違う。
十二歳の時、彼女の目には怯えがあった。
だけど、今あるのは冷静な知性と揺るがない意志。
「商会代表との会食だけど、先方の目的は?」
「おそらく南方交易路の共同出資の打診です。先月の王都での商談で感触を得たのでしょう」
「リアンくんの見立ては」
「悪い話ではありません。ただ、出資比率の交渉で足元を見られる可能性があります。先方はクラウティア家の資産規模を過小評価しているふしがある」
「なら、こちらの数字を正確に見せる必要はないわね」
「ご名答でございます」
僕はフィレーネの傍らに立っている。
十年前と変わらない姿で。
白銀の髪、虹彩の瞳、十歳の少年の体。
フィレーネの背丈はとうに僕を追い越し、今では僕が見上げる形になっている。
二十二歳の女性と十歳の少年。傍目には異様な組み合わせだろう。
だが、クラウティア家の関係者でこの光景を不思議に思う者はもういない。──フィネーレ様の傍にはエルフの少年がいる、というのはすでに周知の事実だった。
エルフは長命だ。十年やそこらで外見が変わらなくても、人間はそういうものだろうと納得してくれる。便利な種族だ。
──実際にはエルフでもないのだが。
「視察の馬車を手配してあります。出発は一時間後です」
「わかった。——あ、リアンくん」
「はい」
「昨日頼んだ資料、もうできてる?」
「もちろん。執務机の右の引き出しに」
フィレーネが引き出しを開けると、綺麗に製本された報告書が入っていた。
南方交易路の地理的条件、過去十年の物流データ、競合する交易路との比較分析。百二十ページ。
「これ、昨日の夕方に頼んだよね」
「はい」
「百二十ページを一晩で?」
「エルフは睡眠時間が少ないので」
「嘘。リアンくんは毎晩ちゃんと寝てるでしょ」
フィレーネが呆れた顔で報告書をぱらぱらとめくり、すぐに目が真剣になった。
内容の質を瞬時に判断できるのは、この十年で叩き込まれた知識の賜物だ。
「相変わらず完璧ね」
「お褒めに預かり光栄です」
「褒めてない。呆れてるの」
フィレーネが立ち上がった。十年前とは比べものにならない、堂々とした所作。
藤色のドレスはとうに新調され、今は深い紺色のドレスに銀の刺繍。クラウティア家の紋章が胸元に光っている。
この十年でクラウティア家は変わった。
没落貴族の一家は、今やこの地方で有数の資産家だ。星露草の取引を足がかりに、薬草事業は多角化。
王都の薬師組合との関係は深まり、三年前には組合の地方評議員にフィレーネが選出された。史上最年少、かつ初の貴族出身の評議員だ。
領地経営も軌道に乗っている。小作農には新しい農法を導入し、収穫量は三倍になった。農法の知識は僕が提供したが、それを実行に移したのはフィレーネだ。
使用人も増えた。ミーナを筆頭に今では十名を超える使用人がこの屋敷で働いている。僕は筆頭使用人——実質的な執事の立場にいる。
十歳の見た目の執事を最初は訝しんだ者もいたが、仕事ぶりを見て黙った。
ヴェルディア伯爵家との関係は奇妙な均衡を保っている。表向きは友好的な隣人。裏では互いに腹の内を探り合う、貴族らしい関係だ。
だが、かつてのような一方的な圧力はもうない。力関係が変わったからだ。
そしてフィレーネ自身。
この地方の社交界で、彼女はいつしかこう呼ばれるようになっていた。
氷の女公爵。
勿論、正式な爵位は公爵ではない。だが、交渉術の冷徹さと、感情を表に出さない立ち居振る舞いが畏敬を込めてそう呼ばれている。
でも……氷の、と形容されることを僕は少し複雑に思っている。
あの子はもともと、花壇の雑草を抜いて笑うような子だったのだ。雑草が抜けただけで「抜けた!」と目を輝かせるような。
十年かけてフィレーネは強くなった。強くならなければ、生き残れなかった。
没落寸前の家を立て直し、伯爵家の圧力を跳ね返し。男社会の貴族政治を渡り歩くために、彼女は自分の感情に蓋をすることを覚えた。
その蓋を教えたのは僕だ。
交渉では感情を見せるな。弱みを悟られるな。常に冷静に、合理的に。
正しい教えだった。彼女を守るために必要なことだった。
でも、たまに思う。
──僕は何か大切なものを、一緒に閉じ込めてしまったんじゃないかと。
「リアンくん。ぼうっとしてる」
「失礼しました。馬車の準備に参ります」
「お願い。あと、紅茶」
「視察の前に一杯、ですね」
「今日はなにを飲……」
「ダージリンのセカンドフラッシュ。ミルクなし。砂糖は半匙。温度は——」
「はいはい、聞かなくてもわかってるって顔しないで」
「わかってますので」
台所で紅茶を淹れる。温度は魔術で完璧に調整。この十年間、一度も外したことはない。
フィレーネの好みは十二歳の時からほとんど変わっていないが、微妙な変化はある。
十八歳を過ぎた頃から少しだけ渋めを好むようになった。二十歳で砂糖の量が減った。二十二歳から疲れた日だけ砂糖を半匙に戻す。
今日は半匙の日だ。昨夜遅くまで書類仕事をしていたのを知っている。
紅茶を執務室に運ぶ。フィレーネが一口飲んで、ほんの一瞬だけ表情が緩んだ。
氷の女公爵の鎧が一口の紅茶で解ける。その瞬間を見届けるのが僕の十年来の密かな楽しみだ。
「おいしい」
「ありがとうございます」
「リアンくんの紅茶だけは、十年経っても飽きないわね」
「光栄です。フィレーネ様がお婆さんになっても同じ味をお届けしますよ」
軽口のつもりだった。
フィレーネの手が、一瞬だけ止まった。
「……そうね。リアンは変わらないものね。わたしがお婆さんになっても」
その声は穏やかだった。でも、その奥にある感情を僕は読み取れなかった。いや、読み取ることを避けたのかもしれない。
「馬車の準備をしてきます」
「ええ。お願い」
執務室を出る。廊下を歩きながら右手を見た。十年前と同じ小さな掌。
フィレーネの手は大きくなった。細いけれどペンだこができて、少しだけ荒れていて。大人の手だ。
僕の手は変わらない。
十年前も、十年後も、百年後も。
アエテルヌムにいたハイエルフたちは数万年を生きた結果の身体だ。彼らのような背丈があれば、僕も子供と侮られなくて済むのだろう。
「……」
廊下の窓から庭のラベンダーが見えた。毎年春に紫の花を咲かせ毎年冬に枯れる。そしてまた春に咲く。
フィレーネの人生も同じだ。
季節が巡り、花が咲き、いつか——
「リアンくん」
振り返った。フィレーネが執務室の扉から顔を出していた。
使用人に対する呼び方ではなく、友達に対する呼び方。
「馬車、はやく!」
「はいはい」
「はいは一回!」
フィレーネが扉を閉めた。
僕は少しだけ立ち止まって、それから歩き出した。
馬車を手配しないと。今日の予定は詰まっている。氷の女公爵の一日は忙しい。
その傍らに立つ、年を取らない僕も。




