第十六話 没落令嬢は牙を剥く
フィレーネの手紙は三日かけて推敲された。
僕が添削したのは誤字の二箇所だけだ。内容には一切手を入れなかった。入れる必要がなかった。
手紙の要旨はこうだ。
一、クラウティア家は王都薬師組合と王家認可の正式取引契約を締結した。
二、クラウティア家領地の森林資源はこの契約の供給源であり、王家の保護下にある。
三、過去の森林放火、商業妨害、および不当な領地買収の圧力について、証拠を保全している。
四、今後同様の行為が確認された場合、王家裁定所への提訴を行う用意がある。
五、なお、クラウティア家は王家署名入りの永代領地証書を保有しており、その写しを同封する。
丁寧な文体。感情的な言葉は一切ない。だが、すべての一文が刃だった。
「どう?」
「完璧。僕が書くより上手いですね」
「お世辞はいいから、本当のところは?」
「本当に完璧。特に三番。証拠を保全していると明記したのがいい。実際に提訴するかどうかは別として、向こうに訴えられるかもしれないと思わせるだけで十分な牽制になりますので」
フィレーネが少し誇らしげに唇を引き結んだ。
手紙は王都薬師組合の公式便で送った。組合の封蝋が押された書簡が伯爵家に届く。それだけで、この手紙がただの没落令嬢の虚勢ではないと伝わる。
返答は一週間で届いた。
予想より早い。慌てた証拠だ。
伯爵家の返書は短かった。フィレーネがそれを読み上げる声は、もう震えていなかった。
「『クラウティア家の発展を喜ばしく思う。今後の友好的な関係を期待する。なお、貴家領地に対する当家の意図について、いくつかの誤解があるようだが、これについては改めて協議の場を設けたい』」
「翻訳すると?」
「『参りました。これ以上突かないでください』、かな」
「百点です」
フィレーネがふっと笑った。
完全な撤退宣言ではない。「協議の場を設けたい」という一文は、まだ交渉の余地を残そうとする伯爵家の意地だ。だが、実質的にはクラウティア家の勝利だった。
王家の証書。王都薬師組合との契約。提訴の構え。三方向から首を締められた伯爵家に、これ以上の強硬策を取る選択肢はない。
「協議には応じるの?」
「応じましょう。ただし、こちらの条件で」
「条件?」
「場所はベルデの街。それと、伯爵本人に来てもらう。家令じゃなくて」
「それ、通るかな?」
「通りますよ。今はこっちのほうが立場が強いので」
通った。
春の初め。花壇のラベンダーが紫の蕾を膨らませ始めた頃。ベルデの街の集会所でフィレーネはヴェルディア伯爵と直接対面した。
伯爵は五十代の銀髪の男だった。痩身で目が鋭い。だが、鋭さの奥に疲労が見えた。想定外の事態に振り回された人間の顔だ。
僕はフィレーネの後ろに控えた。いつも通り使用人の立ち位置。伯爵の視線が一瞬僕を捉えたが、すぐにフィレーネに戻った。
交渉の結果だけ言えば、こうだ。
伯爵家はクラウティア家の全領地に対する権利主張を撤回。
代わりに、クラウティア家は星露草の取引利益の一部を伯爵家に森林管理協力金として支払う。
体面を保つための名目上の支払いだ。額は端金だが、伯爵家にとっては「負けたのではなく、協力関係を結んだ」と説明できる落とし所になる。
「この条件で、よろしいですか」
フィレーネの声は落ち着いていた。十三歳の少女が五十代の大貴族と同じテーブルで交渉を終えた。
伯爵が苦い顔で頷いた。
「クラウティア家の先代とは、随分と違うようだ」
「父は父です。わたしはわたしの方法で、この家を守ります」
「……ふん」
伯爵が席を立った。去り際に、もう一度だけ僕を見た。
「エルフの子供。お前の入れ知恵か」
僕に向けた問いだった。答える前に、フィレーネが口を開いた。
「リアンは使用人です。判断はすべてわたしがしました」
伯爵の目が細くなった。嘘か本当か測りかねている顔。だが、追及はしなかった。背を向け、従者を従えて集会所を出ていく。
扉が閉まった瞬間、フィレーネの膝が折れた。
「——っ」
「おっと」
僕が支える前に、フィレーネは自分で壁に手をついて踏みとどまった。
「大丈夫。立てる。……足が震えてるだけ」
「よくやりました」
「うん。……うん、やった。やったよね、わたし」
フィレーネの目が赤くなった。でも泣かなかった。唇をぎゅっと噛んで、一度だけ深く息を吸って。
「帰ろう、リアンくん。帰って、お茶にしよう」
「はい、フィレーネ様」
ベルデの街を歩いて帰る道すがら、マルコの店の前を通った。
マルコが戸口から顔を出して何も言わずに親指を立てた。結果はもう街中に知れ渡っているのだろう。
屋敷に着いた。
半年前と同じ石造りの二階建て。
だが、壁は漆喰が塗り直され、屋根瓦は隙間なく並び、門扉は錆が落とされて新しい蝶番で軽やかに開く。
庭は雑草が刈られ、花壇にはラベンダーの紫が揺れている。
フィレーネが門をくぐりながら屋敷を見上げた。
「……半年前、ここに初めて来た男の子がいたんだ」
「へぇ。どんな子ですか?」
「ちっちゃくて、生意気で、料理が上手くて、嘘つきで」
「嘘つきはひどい」
「嘘つきだよ。『僕はただのエルフの子供です』なんて、絶対嘘」
ぎくり。
「だって普通の子供は三日で船作らないし、帝王学と交渉術を知ってる十歳はいないし、百年物のワインを『最近のお酒』とか言わないでしょ」
「……最後のいつ言いましたっけ?」
「先月。エリーゼさんがワイン飲んでた時」
……ハイエルフの記憶能力は確かにそれを覚えている。
やってしまった。うっかり口を滑らせた自覚はあったが、フィレーネに拾われていたとは。
「まあいいけど。リアンくんが何者でも、わたしにとっては大切な——」
フィレーネが言葉を切った。頬が少し赤い。
「——使用人だから」
「ありがとうございます、フィレーネ様」
「なんか今の間が気になるんですけど」
「気のせいですよ」
台所に入り、紅茶を淹れた。フィレーネの分と僕の分。
二人で応接間のソファに座る。窓から春の風が入ってきた。花壇のラベンダーの香りが、ほのかに漂う。
「ねえ、リアンくん。わたし、これからどうなるのかな」
「どうなるというと?」
「この家。わたし。……ここから先のこと」
フィレーネが紅茶のカップを両手で包んだ。
「伯爵家のことは片付いた。収入もある。屋敷も綺麗になった。でも……なんか、ここからが本番な気がして」
「その通りです。守るだけじゃなくて、育てていかないと。クラウティア家を、フィレーネ様自身を」
「うん。……ちゃんと勉強しなきゃ。もっとたくさん」
「帝王学、経済学、外交術、法学。教えられることは全部教えますから安心してください」
「全部って、リアンくんの全部は常識の範囲外だからなぁ……」
「失礼な。常識の範囲内にちゃんと収めてますよ。たぶん」
「たぶんって言った」
フィレーネが笑った。
春の午後の応接間。修復されたシャンデリアが柔らかい光を落としている。窓辺のカーテンが風に揺れ、庭の花々が陽光に輝いている。
半年前には想像もできなかった光景だ。
この光景を作ったのは、フィレーネだ。僕じゃない。僕はきっかけを与えただけで、立ち上がったのは彼女自身だ。
「さて、明日から新年度の計画を——」
「ちょっと待って。今日くらいゆっくりしようよ。勝ったんだから」
「それもそうですね」
「でしょ?」
紅茶を啜る。フィレーネが淹れた紅茶。半年前の素人の味は消えて、今では僕が唸るほどの腕前になっている。
ただ、温度だけは僕のほうが上だ。魔術を使っているから当然だけれど。
春の風が吹いている。
一つの戦いが終わった。
そしてこれから、フィレーネの本当の物語が始まる。
僕はその傍らで紅茶を淹れ、皮肉を言い、たまに屋根を直す。
それが僕の仕事だ。
悪くない仕事だと、心から思う。
──願わくば、この穏やかな時が永遠に続きますように。




