第十四話 嵐の後の静けさは、大抵次の嵐の前触れだ
日常は何事もなく始まった。
「リアンくん、おはよう。今日のスープは焦がしてないよ」
いつもの朝だ。フィレーネは昨夜のことを何も知らない。知る必要もない。
朝食を済ませて、僕は何気ない顔で森の様子を見に行った。
焼け跡はそのままだったが、傭兵たちの野営地は空だった。
去った。本当に。
念のため魔力感知を広域に展開したが、傭兵たちの気配はない。完全に撤退している。
よし。第一段階はクリアだ。
だが、これで終わりとは思っていない。傭兵は道具にすぎない。
道具が壊れたら依頼主は別の道具を探す。ヴェルディア伯爵家が諦める理由は、まだどこにもない。
そして、数日後──
ミーナが慌てた様子で言った。
「リアンさん!マルコさんが来てます!何か急ぎの話があるみたい!」
応接間に入るとマルコが落ち着かない様子で立っていた。座ってもいない。
「坊主、聞いてくれ。あの傭兵ども、数日前にベルデの街を通って去ってったよ。大急ぎでな」
「へぇ……それは妙ですねぇ」
「へぇ、じゃねぇよ。尋常じゃなかったぞ。三人とも顔面蒼白で化け物にでも追われたみたいな——」
マルコが僕の顔をまじまじと見た。
「お前、何か知ってるか?」
「さあ。心当たりはないですけど」
「嘘つけ」
鋭い。でも、証拠はない。僕はにっこり笑って誤魔化した。
マルコは胡散臭そうに眉を寄せたが、それ以上は追及しなかった。
「まあいい。とにかく、あの三人は当分戻って来ねぇだろう。だがな——」
マルコの表情が険しくなった。
「伯爵家の動きが変わった。ベルデの街に伯爵家の役人が来て、街の商人たちに通達を出した。『クラウティア家との取引を行う者は、伯爵領内での商業許可を取り消す場合がある』と」
経済封鎖。予想はしていたが、ここまで露骨に来るか。
「街の商人たちは?」
「怯えてるよ。伯爵領内で商売できなくなったら、この辺りの商人は干上がる。俺だって正直きつい」
マルコが言葉を切った。
義理堅いこの男がクラウティア家との関係を維持するのが難しくなりつつある。それを言いに来たのだ。
「マルコさん」
「……なんだ」
「無理しなくていいです。マルコさんにはマルコさんの生活がある」
「坊主……」
「僕たちのことは、僕たちでなんとかする。マルコさんには十分助けてもらいましたから」
マルコが唇を噛んだ。この男はきっと、助けられないことを自分が許せないのだろう。
善良な人間ほど、無力感に苦しむ。前世でもそういう人を何人も見てきた。
「……すまねぇ」
「謝らないでください。また落ち着いたら、ロザさんの焼き菓子を食べに行くから」
マルコが鼻を赤くして、足早に去っていった。
応接間に一人残されて、僕は窓の外を見た。
「経済封鎖か」
伯爵家は兵糧攻めに切り替えたわけだ。傭兵が逃げ帰った理由は把握していないだろうが、直接的な手段が使えないなら経済的に締め上げる。合理的な判断だ。
星露草の取引は商会が中断。街の商人との取引も伯爵家の圧力で封じられる。陸路の輸送は伯爵領を通る。
詰んでいるように見える。
でも、一つだけ手がある。
「フィレーネ様」
近くの部屋にいたフィレーネが顔を上げた。マルコの話は聞いていたのだろう。表情が硬い。
「……聞いてた。街の商人たちが、うちと取引できなくなるって」
「はい。陸路は全部塞がれました」
「じゃあ、もう——」
「水路があります」
フィレーネの目が動いた。
「川……」
「クラウティア家の近く流れる川。あれは伯爵領を通らずに王都方面に繋がってる。水運なら伯爵家の商業圧力は及びません」
「でも、船がないよ」
「うん。だから、作ります」
「作るって……船を?」
「大きなものじゃなくていいので。星露草を運べるだけの小舟。森の木材を使えば材料費はかかりません」
フィレーネがまじまじと僕を見た。
「リアンくん、船も作れるの」
「本で読んだことあるので」
「絶対嘘。本で読んだだけで船は作れないでしょ」
鋭くなったな、この子も。
「じゃあ言い直します。何事もやってみなきゃわからない──ってね」
「それはそうだけど……」
フィレーネが腕を組んだ。考え事をする時にこうするようになった。
「船で王都に直接売り込むってこと?」
「エリーゼさんのツテを頼れば、王都の薬師組合に繋いでもらえるかもしれない。組合との直接取引なら、ベルデの商会よりも単価は高いので」
「でも、王都は遠いよ。誰が行くの?」
「最初は僕が行きます」
「……子供一人で王都まで川を下るの?危なくない?」
危なくない。まったく危なくない。僕にとっては散歩みたいなものだ。だが、そうは言えない。
「大丈夫。エルフは川が得意なんです」
「……嘘でしょ。人魚じゃないんだからさ」
フィレーネがじっと僕の目を見つめた。瞳に心配と信頼と、少しの苛立ちが混在している。
「リアンくんって、たまにすごく無茶なことを平気な顔で言うよね」
「無茶じゃないです。計算してますよ」
「その計算が合ってるかどうか、わたしには確かめようがないんだけど」
痛いところを突いてくる。この子の成長速度は本当に侮れない。
「一週間。一週間で小舟を作って、川の下見をして、安全だと判断できたら行く。危なそうならやめる。それでどうです?」
フィレーネは唇を尖らせて考え込み、やがて小さく頷いた。
「……わかった。でも、絶対に無理はしないで」
「しません」
「約束ね」
「はいはい」
「はいは一回!」
生意気度が加速している。うん、よい傾向だ。
翌日から僕は川辺に通い始めた。
北の川は幅二十メートルほど。流れは穏やかで水深もある。小舟の航行には十分だ。川岸の地形を確認し、発着に適した場所を選定する。
船の建造は——正直、魔術なしでは無理だ。
夜中に森で適切な木を選び、マナで切り出し、加工し、組み上げる。接合部はマナで分子レベルで融着させた。防水処理もマナで木の繊維を再構成して対応。
三日で完成した。
全長四メートルの平底舟。見た目は素朴な手作りだが、構造強度は鉄製の船に匹敵する。
まあ、説明を求められたらエルフの伝統工法とでも言っておこう。
……エルフって種族、便利だな?
「……三日で船作ったの?」
完成した舟を見たフィレーネの声は、もはや呆れを通り越して無だった。
「小舟ですからね。大したものじゃないですよ」
「いや大したものだよ。普通の人は三日で船作れないから」
「僕は普通じゃないので」
「知ってる」
フィレーネが舟の縁を撫でた。滑らかな木肌を不思議そうに確認している。
「それより、エリーゼさんに手紙を書かないと。王都の薬師組合への紹介状をお願いしたいのです」
「それはわたしが行く。エリーゼさんとはわたしが話をつけるよ」
「おぉ……頼りになります」
「当たり前でしょ。わたしの家の商売なんだから」
言葉に力がある。最初に会った時の消え入りそうな声が嘘のようだ。
フィレーネがエリーゼの元に向かい、僕は川辺で舟の最終確認をしていた。
水面に映る自分の顔を、ふと見下ろす。
「……」
白銀の髪。虹彩の瞳。十歳の少年の顔。
この幼い顔で、大の男三人を地に伏せさせた。
エルフの傭兵を泣かせた。重力を書き換え、矢を砕き、剣を弾いた。
同じ顔で、船を作り、スープを作り、フィレーネに嘘くさいと言われている。
どっちが本当の僕だろう。
「どっちなんだろうね」
水面が風で揺れ、映っていた顔が崩れた。
まあいい。考えても仕方ない。
今やるべきことは、王都への水路を確保すること。クラウティア家の経済的自立を盤石にすること。伯爵家の封鎖を無力化すること。
そしてフィレーネを、誰の助けがなくても立っていられる人間に育てること。
──僕がいなくなっても、大丈夫なように。
いなくなる日がいつかは、まだ考えないことにしている。
もしかしたら、いなくなるのはフィレーネの方かもしれない、という事実も──。




