第十三話 知らないほうが幸せだったろうに
その夜、僕は屋敷を抜け出した。
フィレーネが寝室の灯りを消したのを確認してから音もなく窓を開ける。
冬の夜気が頬を刺した。月は雲に隠れ、闇は深い。人間の目では三歩先も見えないだろう。
僕の目にはすべてが見えていた。
魔力感知を全開にする。屋敷の周囲五百メートルに異常なし。フィレーネの呼吸も安定している。
森に向かって走った。身体強化にマナを回せば人間の騎馬より速い。木々の間を影のようにすり抜け、焼け跡を通過し、さらに南東へ。
三日前に追跡済みの足跡。焼け跡から撤収した傭兵たちの野営地。
──今日の昼、ミーナが街から持ち帰った情報が僕の判断を決めた。
『酒場で傭兵たちが話してたんです……。森がだめなら次は屋敷に火をつけろって。中に人がいても構わないって。ついでに痛い目に遭わせても構わないって……』
フィレーネには何も伝えていない。これは僕の領分だ。
森を暫く走ると崖下の窪地に焚き火の光が見えた。
焚き火の前で剣の手入れをしている大柄な男。弓の弦を確認している痩せた男。
そして焚き火から離れた岩の上に腰掛けたフードの人影。他の二人より小柄でフードの下から覗く耳が……長い。
(エルフだ……)
傭兵にエルフ。珍しくはない。森に詳しいエルフは斥候として重宝される。
故郷を離れたはぐれエルフが傭兵稼業に就くことは、この世界ではままあるらしい。
さて。どう出る。
正直に言えば、穏便に済ませたい。「手を引け」と警告して帰ってくれるなら、それが一番いい。
でも、今日の情報を聞く限り……言葉が通じる相手ではなさそうだ。
(仕方ない)
木の上から焚き火の明かりの中に飛び降りた。五メートルの高さから音もなく着地する。
最初に気づいたのはエルフだった。短剣に手をかけ、フードの下の目がこちらを捉える。
「誰だ」
その声に反応して、残りの二人も動いた。大柄な男は剣を抜き、痩せた男は弓を引き絞った。反応は速い。傭兵としての練度は悪くない。
焚き火の光に照らされた僕の姿を見て、痩せた男が目を細めた。
「おい……こいつ、例のエルフのガキか?」
「白い髪にとんがり耳。間違いねぇな」
大柄な男が剣先をこちらに向けた。
「丁度いい。探す手間が省けたじゃねぇか。依頼主が言ってたろ、このガキを先に痛めつけろって」
「坊主、自分から来るとはいい度胸だ。悪いがな──」
痩せた男が弓を引いた。矢先が僕の胸を狙っている。
「大人しくしてりゃ殺しはしねぇ。足の一本で勘弁してやる」
「……まず、話をしませんか?」
「話す気はねぇよ。仕事なんでな」
矢が放たれた。
至近距離。熟練の射手が放つ矢の速度。人間の反応速度では回避不可能な距離。
だけど。
僕の体感では矢は緩慢に飛んできた。
首を数センチ傾けた。矢が頬の横を通過し、背後の木に突き刺さる。
痩せた男の目が見開かれた。
「外したのか?」
「外してねぇ。避けやがった」
大柄な男が踏み込んだ。剣を振りかぶる。上段からの斬り下ろし。体重を乗せた一撃で、まともに受ければ子供の体など両断される。
速いとは思わなかった。
刃が降りてくる軌道を読み、半歩横にずれた。剣が空を切り地面に叩き込まれる。土と石が弾け飛んだ。
「チッ」
男が即座に横薙ぎに切り返す。傭兵の実戦剣術。隙のない連撃。
だが。
僕は剣の腹に指先を触れた。それだけで剣が男の手からすっぽ抜けた。
マナを指先に乗せて刃の運動エネルギーの方向を変えただけ。
剣が宙を舞い、十メートル先の地面に突き刺さった。大柄な男が自分の空になった手を見つめて硬直した。
「なっ」
二本目の矢が飛んできた。今度は背後から。気配を殺して回り込んだ痩せた男が、死角から放った一射。
僕は振り返りもしなかった。背後にマナを放出する。矢が空中で静止した。
空気の壁に捕まったように、僕の手前で完全に停止している。
指を弾くと、矢が粉々に砕け散った。
「魔術師か、このガキ」
痩せた男の声が震えていた。弓を捨て、腰のナイフに手をかけている。
「エルフの魔術師なんて聞いてねぇぞ、おい、ルシアン!」
エルフが動いた。
「シィッ!!」
岩の上から跳躍し、短剣を逆手に構えて僕に迫る。人間の傭兵とは動きの質が違う。
エルフ特有のしなやかな体捌き。おそらく百年以上の戦闘経験がある。
「魔術師相手に手は抜けねぇ。死ね──」
短剣が僕の喉を狙って突き出された。
僕は短剣の切っ先を、人差し指と中指で挟んで止めた。
「!?」
指二本。それだけで、エルフの全力の突きが完全に静止した。
ルシアンの目が至近距離で僕の目を捉えた。驚愕に見開かれた瞳に、焚き火の残光が映っている。
「ば、ばかな——」
「ルシアンさん、だっけ」
僕は短剣を挟んだまま、穏やかに言った。
「もうやめたほうがいいよ。怪我するから」
ルシアンが短剣を引き抜こうとした。びくともしない。僕の細い指の間に挟まった刃は、万力で固定されたように動かない。
「くっ——」
ルシアンが空いた左手で拳を振るった。僕の側頭部を狙った打撃。エルフの膂力でも子供の頭蓋を砕くには十分な威力。
僕は短剣を離し、左手でルシアンの拳を受け止めた。子供の小さな掌が大人のエルフの拳を完全に包み込んで止める。
「っ!」
ルシアンの顔が歪んだ。僕の掌から伝わる力が、彼の拳の骨を軋ませている。
本気で握ればエルフの手など容易く潰せるが、そんなことはしない。止めるだけだ。
「もう終わりにしよう。ね?」
ルシアンの目に初めて恐怖とは違うものが浮かんだ。
困惑。
理解不能なものに直面した時の表情。
自分の全力が、子供に片手で止められている。この状況を彼の常識では処理できないでいる。
ここまでは純粋な身体能力の話だ。
次はわからせる必要がある。
僕はルシアンの拳を解放し、一歩後ろに下がった。
三人が距離を取って構え直す。大柄な男は地面から剣を回収していた。痩せた男はナイフを構えている。ルシアンは短剣を握り直し、じりじりと僕の周囲を回り始めた。
三対一の包囲。まだやる気らしい。傭兵の根性は認めるが、無駄だ。
「仕方ないな」
僕は右手の指を、軽く鳴らした。
パチン。
小さな音だった。
だが、その音を起点に世界が変わった。
焚き火が一瞬で消えた。炎が萎縮したのではなく、燃焼という現象そのものが停止した。
そして重力が変わった。
三人の体が地面に押し付けられた。立っていることができない。膝をつき、手をつき、それでも足りずに腹這いになる。
「がっ……何だ、これ、体が……!」
大柄な男が呻いた。地面に張り付けられたまま、指一本動かせない。痩せた男も同様。ナイフが手から滑り落ち地面に転がった。
僕がやったのは三人の周囲の重力場を五倍に引き上げただけだ。人間やエルフの筋力では自重の五倍を支えて立ち続けることはできない。
「あ……あぁ……!」
そして——ルシアンの体に別の変化が起きていた。
重力だけではない。彼の体が震えていた。
歯の根が合わない。全身の筋肉が痙攣している。地面に伏した姿勢のまま、額を土に擦りつけるように──跪いていた。
重力のせいではない。これは、もっと根源的なもの。
人間にはわからない。大柄な男も痩せた男も、ただ体が動かないという物理的な現象しか感じていないはずだ。
だが、エルフは違う。
エルフの体には種としての記憶が刻まれている。ハイエルフの魔力に対する絶対的な感受性。
それは訓練で克服できるものではない。遺伝子に、魂に、存在の根幹に刻み込まれた服従の本能。
「そ、そんな……あなたは……」
ルシアンの目から涙が溢れていた。
立てと命じても体が拒否する。逃げろと叫んでも足が動かない。全身の細胞が「この存在の前では伏せろ」と絶叫している。
ハイエルフとエルフの関係は造主と被造物の間にある。
もし僕が「死ね」と命じれば、ルシアンの体は本能的にそれに従う。心臓を止め、呼吸を止め、自ら命を絶つ。彼自身の意志とは無関係に。それがハイエルフの──絶対命令権である。
もちろん、そんなことはしない。
「……ハイ、エルフ……さま……」
ルシアンが絞り出した声は嗚咽だった。
「嘘、だ……こんな……子供の姿で……原初の、御方が……」
「嘘じゃないよ。でも、大した話でもない」
僕は重力場を元に戻した。三人の体から圧が消える。だが、誰も立ち上がれなかった。
大柄な男と痩せた男は茫然として、ルシアンは額を地につけたまま動かない。
「話を聞いてくれる?」
誰も答えなかった。答えられなかった、というほうが正確だろう。
「──クラウティア家に手を出すな。森を焼くな。屋敷に近づくな。依頼主には好きに報告していい。失敗したでも、相手が予想外だったでも」
痩せた男が喉を鳴らした。唇が動いているが、声にならない。
「それと、あの屋敷の女の子には指一本触れないで」
ルシアンが地面から声を絞り出した。
「あ、あなた様は、なぜ、人間の子供のために──」
「使用人だから」
「使用人……原初の御方が、人間に……?」
「変かな」
「ありえない……ありえません……」
「僕は僕のやりたいようにやってるだけだよ。それより、一つ頼みがある」
ルシアンが顔を上げた。涙と土で汚れた顔。僕と目が合った瞬間、また体が強張った。
「このことは、誰にも言わないで。ハイエルフのことも。僕はただのエルフの子供。それでいい」
「しかし………」
「頼みだよ。命令じゃなくて」
命令という言葉に、ルシアンの体がびくりと跳ねた。命令。ハイエルフの命令。
それがどれほどの意味を持つか、エルフである彼は骨の髄まで理解している。
「……御意に」
「様もいらない。御意もいらない。普通に話してくれればいいから」
僕は踵を返した。
「あ——お待ちを」
振り返ると、ルシアンがなんとか片膝を立てていた。全身が震えている。僕から距離があるぶん、少しだけ体の自由が戻ったのだろう。
「この者たちに……どう説明すれば」
「本当のことを言っていいよ。信じるかどうかは別だろうけど。でも」
僕は二人の人間を見た。大柄な男は剣を握る手が震え、痩せた男は座り込んだまま虚空を見つめている。
「たぶん、もう二度とこの辺りに来る気にはならないと思うけどね」
闇の中に消える。背後で、ルシアンが仲間に何かを伝え始める声がした。震えた声。必死に言葉を選んでいる。
──あの子供は人間でも、エルフでもない。俺たちが手を出していい存在じゃなかった。
それだけ伝われば十分だ。
「……」
森を駆けながら僕は右手を見た。ルシアンの拳を受け止めた小さな掌。剣を指で弾き、矢を空中で止め、重力を書き換えた手。
この手で明日はフィレーネに朝食を作る。
スープを温め、パンを焼き、紅茶を淹れる。
同じ手だ。世界を壊せる手と、スープをかき混ぜる手が同じ。
「ふぅ、戻ってきた」
屋敷が見えた。窓は暗い。誰も起きていない。
窓から自室に滑り込み、ベッドに潜る。フィレーネの寝室の方角に耳を澄ませた。穏やかな寝息。
守れた。
明日の朝、フィレーネは何も知らずに起きてきて、少し焦がした朝食を作る。
僕はそれを食べて「今日もちょっと焦げてるね」と言う。フィレーネは「うるさい」と膨れるだろう。
──いつもの朝が来る。
それを守るために力を使ったことを、僕は後悔していない。
ただ、少しだけ。
ルシアンに見せてしまった「本当の自分」を思い出すと、胸の奥でちくりと痛んだ。




